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時の澱  作者: 琉球すみれ
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第一章 命と若さの交換

序章


世界が、こんなに軽いなんて、知らなかった。


白い砂を蹴って走ると、体がふわりと浮く。麦わら帽子を片手で押さえ、ワンピースの裾が風に踊る。六月の沖縄の太陽は刺すように強くて、海は浅瀬のエメラルドから沖の濃い青へ──絵の具を流したような、グラデーション。


「あははっ!」


声が出た。自分のものとは思えない、高くて澄んだ、女の子の声。


オレは──いや、「私」は、女の子になった。


今朝、目が覚めたら、名前は星野さくら。沖縄に住む、小学五年生の女の子。中身は、くたびれた中年のオッサンのまま。


引き換えに差し出したのは、残りの寿命の、ほとんど全部。だから、この体に残された時間はもう長くない。──でも、それを軽く考えていられたのは、このときだけだった。


それでも、後悔はしていない。絶対に叶うはずがないと、心に蓋をして生きてきた願いだったから。


午後にはこの空がかき曇って、前置きもなく雨が降ることを、私はまだ知らない。その雨の中で、見知らぬ誰かに、一本の傘を差し出されることも。


すべては、あの夜の夢に現れた、「悪魔」から始まった。


◇ ◇ ◇


その夜、夢に悪魔が出てきた。


悪魔と呼んでいいのかどうかは、いまだに分からない。角があったわけでも、コウモリの羽が生えていたわけでもない。ただ、輪郭のはっきりしない影のような何かが、暗闇の中でオレと向かい合って座っていた。声だけは妙にはっきりと聞こえた。低くて、どこか愉しげな声だった。


「おまえ、そんなに若返りたいのか」


影はそう言った。質問のかたちをしているのに、答えを知っている者の口ぶりだった。


「それなら、その願いを叶えてやろう。──ただし、条件がある」


影は指を一本立てた。指に見えるものを、と言うべきか。


「おまえの残りの寿命を、ワシに差し出せ。差し出した年数のぶんだけ、おまえを若返らせてやる」


たとえば、と影は続けた。おまえの寿命が残り二十五年あるとして、そこから十年をワシに差し出せば、十歳若返る。そのかわり寿命は十年減って、残り十五年になる──。


「いま、おまえは五十だな? 十年差し出せば、見た目は四十だ。言っておくが、時間が十年巻き戻るわけではないぞ。タイムスリップではない。体が十歳若くなる、それだけだ。もちろん体力も四十のころに戻る」


影は身を乗り出した。


「どうだ。契約するか? 何年、ワシに差し出す?」


──オレの寿命は、あと何年残っている。


「それはワシにも分からん」


影はあっさりと首を振った。


「人の寿命は、あいつが知っている。死神だ。やつが現れたとき、その人間の命は終わる。ワシはあいつが嫌いでな。残りの寿命が知りたければ、自分でやつに訊くがいい」


それから影は、もう一度同じ問いを繰り返した。さあどうする。契約するか。何年差し出す──。


オレは答えなかった。代わりに、口の中で呟いた。十年や二十年若返ったところで、しょうがない、と。


「なんでだ」


影が訊いた。オレは黙っていた。長い沈黙のあとで、影は何かに気づいたように、ふ、と笑った。


「……そうか。男のままでは嫌だ、ということか」


心臓を素手で掴まれたような気がした。誰にも言ったことのない、自分自身にすら認めるのを避けてきたことを、この影は暗闇の中で平然と言い当てた。


「よし、分かった」


影の声が、急に商談をまとめにかかる営業マンのような調子になった。


「おまえの命、一年だけ残して、全部ワシに差し出せ。そうしたら──十七歳の女の子にしてやる。ただし、残りの寿命は一年だ」


一年。


「さあ、どうする。契約するか?」


影はそこで、ひらひらと手を振った。


「まあ、いま答えを出さなくてもよい。来週、またおまえの夢に来る。それまでに考えておけ。じゃあな」


そこで目が覚めた。


カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいた。見慣れた天井。見慣れた独り身の部屋。夢の内容は、目覚めてもなお、一字一句忘れずに残っていた。普通の夢は朝になれば溶けて消えるのに。


その日は一日中、仕事が手につかなかった。


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