たくさんの“奇跡”を抱えた君だから 2
かつてセレンも「森の魔女」に依頼したことがある。惚れ薬を作ってほしいと。むろん飲ませる相手は目の前にいる「森の魔女」だ。もっとも依頼はすげなく断られたが。
魔女を訪ねてやってきたという男三人組も同じように断られたのだろう。
セレンが見かけた男三人はおそらく余所者だ。しげしげと観察したわけではなかったが、数日かけて森の魔女を訪れたといった風体に見受けられた。数日といってもせいぜい二、三日だろう。三人とも騎乗しており、身なりも多少旅塵にまみれていたが悪くはなかった。馬も馬具も手入れが行き届いていた。三人のうち二人は護衛らしく、腰に剣を帯びていた。護衛に挟まれていた男が主人なのだろう。
森の魔女の見立てもセレンとほぼ同じだ。惚れ薬を依頼したのは「良家のお坊ちゃん」らしい。年の頃はセレンと変わらないように見えた。護衛の二人はもう少し年上のようだった。三人とも愛想は良くなく、居丈高さが鼻についた。
「すっごく唐突な客だったんですよ。いますぐ惚れ薬を寄越せって。金細工の鎖をちらつかせてきたのには参りました。対価のつもりなんでしょうけど、あんな風に金目の物を見せびらかす人って、なんというかちょっと……苦手なんですよね……」
少女は大きくため息をつく。そして目線を横に流し、ぼんやりと小窓の向こうを眺めた。
木立の隙間から見える空の青さが深みを増している。日暮れ時にはまだ猶予があるが、射し込んでくる日は黄昏色を帯びはじめていた。枯葉の敷かれた森の小路も黄金色に染め上げられている。少女は日の眩しさにちょっと目を眇めた。
少女の横顔に蒼ざめた翳りがさしているのを見てとり、セレンは眉をわずかにひそめた。
セレンは気遣わしげに少女を見やり、「大変だったね」と当たり障りのない言葉をかけた。他に言葉が見つからなかった。当て擦りを言われたと思ったわけではない。少女にもそんな気持ちは微塵もなかったろう。ただ、なんとなく言葉をかけられなかった。いつにない少女の様子にセレンも少しうろたえてしまったのだ。
少女はぼんやりとした声で相槌をうち、今度はひっそりとため息を吐いた。虚ろな目はまだ窓の外に向けられていた。
惚れ薬と不老不死の薬は作れない。少女は明言している。セレンの時もきっぱりそういいって依頼をはねつけた。
今朝やってきた三人組の客にも同じように……できるだけ慇懃な態度で説明したが、当然納得しなかった。それどころか、男はこう言ったのだ。
「あんたがここの領主に惚れ薬を飲ませたこと、噂になっているのを知らないのか? 美の女神の寵愛を一身に受けたような美貌の青年だそうじゃないか。さぞやよく効く惚れ薬だったんだろうな?」
男の露骨な厭味に少女は蒼ざめた。ひどく動揺したがそれは極力面には出さず、静かな声で「お引き取り下さい」と返した。それを言うのが精いっぱいだった。
男は、二人の護衛を引き連れて魔女の元を去った。
説得は無駄だと思い、少女は魔法を使って男達を追いだしたのだ。魔力の加減はおそらくリフレナスが助けてくれたのだろう。男達の記憶すべてを破壊しそうなほどの魔法になりかけたが、あわやのところで抑えられたから。
客人はおそらく魔法をかけられたことに気づかぬまま故郷の土を踏むだろう。二度と「森の魔女」を訪れることもない。
そして少女は、客人を追い返してすぐに書庫へと足を向けた。気を紛らわせるために。
――わたしが王子に惚れ薬を飲ませたという噂が流れているなんて、知らなかった。
少女は今日何度目かのため息をつく。堪えようにも堪えきれなかった。
惚れ薬を求めてやってきた男の名も出身も訊かなかった。男の出身地がどこかは分からない。さほど遠くないはずだ。同国なのは間違いない。
しかし男の出身がどこであれ、そこで魔女の惚れ薬の噂が流れているのだ。思いもよらぬことだった。しかも領主であるセレンが惚れ薬を飲まされたことになってるなんて……。
悪意のある噂話ではないが、かといって好ましいといえる噂でもない。
事実無根の噂話に少女は怒りを覚えたが、それよりも申し訳ないような気分に陥った。むろんセレンに対してだ。
そして、少しばかり悲しくもあった。
男に言われたことを少女はセレンに告げなかった。告げるべきかと一瞬迷ったが、やめた。セレンだっていい気持ちはしないだろう。知らぬままならそれにこしたことはない。無用な心配をかけるべきじゃない。噂なんて、いずれは消える。
「魔女殿?」
俯いて黙りこんでしまった少女に、セレンは気遣わしげに声をかけた。そして手を伸ばし、少女の手を包み込むようにして握った。少女の手はいつになく冷たい。
少女ははっとし、慌ててセレンの方に顔を向け直した。
「どうかした、魔女殿? 顔色が優れないようだが……」
「えっ、いえっ、なんでもないですっ」
少女は笑顔を作ってみせたが、ぎこちなさは拭えない。
「久しぶりに余所からきたお客様の相手をしたからちょっと気疲れしちゃったの……かも」
下手な言い訳だ。事実ではあるが、もっと上手く取り繕えなかったかと、自分自身に呆れてしまう。セレンは何か言いだけな表情でしばし少女を見つめたが、何も訊かず、手を離して立ち上がった。
「すまない、魔女殿」
眉を下げ、心からすまなそうにセレンは詫びた。
「もっとゆっくりしていたいのだが、そろそろ邸に戻らなくては」
町へ視察にきたついで……ほんの僅かな暇を見て、セレンは少女に会いに来たのだ。一目でいい、顔を見たかった。いつものように明るい笑顔を見せてくれるだろうと。ところが少女は何か気にかけていることがあるらしい。笑顔に翳がさし、心細げに見えた。
このまま放ってはおけない。
セレンはどうすべきかしばし逡巡し、迷いながら少女の方に向き直って言った。
「魔女殿、もしよければ今夜は私の邸に」
「王子」
セレンと同時に立ち上がっていた少女は、セレンの言葉を遮るように抱きついてきた。セレンの背中に細い二の腕を回し、ぴったりと体を寄せる。
「……魔女殿」
セレンは眉をひそめた。
抱き返す腕を中途半端なところで止め、片手だけを少女の頭部に乗せた。
何があったのか。惚れ薬を求めてやってきた客人が森の魔女に無礼を働いたのかもしれない。不安が膨らんでくる。
こんな風に少女の方から抱きつき、甘えてくるのはめったにないことだ。
訳を問うべきかとセレンは迷っている。それを察したように、腕の中の少女はか細い声を発した。
「大丈夫です」
顔はセレンの胸元に埋めたままだ。声は少しくぐもっているが涙声ではなく、落ち着いている。
「大丈夫です、もう」
少女はもう一度そう言って、少し体を離して顔をあげた。
セレンは何も問わず、ただ少女の長い黒髪をゆっくりと撫ぜた。それが心地いいのか、少女の頬がふわりと緩んで赤みが差してくる。
「王子の癒し効果って、すごいですね。こうしてるだけで元気が出てきます」
少女はもう一度腕に力を入れ、セレンに抱きついた。胸元に頬を擦り寄せるその仕草はどこか幼い。セレンは微苦笑を浮かべ、少女したいようにさせている。
元来楽天的な性格の少女だが、その心の奥底には拭いきれぬ寂しさがある。それが時折浮かびあがって、少女の心を曇らせるようだった。どちらかといえば、少女は甘え方が上手な方ではない。「森の魔女」の弟子として育ち、今は「森の魔女」として独り立ちしているからなおのこと、少女はひとりでも強くあらねばと、凛としている。それでもセレンに対しては素直に甘え、頼ってくれるようになった。まだ少しだけ戸惑いがちではあるが。
少女の身の内に宿っている「魔力」。それは様々な奇跡を起こせる力だが、その力ゆえなのか、「森の魔女」は孤独と無縁ではいられないようだ。
それでも少女は孤独感に背を丸めず、凛と顔をあげ、まっすぐに生きている。
しばらくそうしてセレンに抱きついていた少女だが、どうやら気持ちに整理がついたらしい。
「今日は行けないけど……明日、王子のお邸に伺ってもいいですか?」
再び顔を上げ、少女はセレンの目を見つめて言った。
「もちろん歓迎するよ。夜は、君のために空けておこう」
セレンが応えると、少女はホッとしたように微笑んだ。あどけない笑顔が可愛らしい。それでいて濡れた黒曜石のような双眸は艶おびて、セレンの恋情を煽るような色香も備えている。その色は、セレンが与えたものだ。
「それじゃぁ明日の夕食は、思いっきり腕をふるっちゃおうかな。とっときの果実酒も持っていきますね」
「それは楽しみだな」
少女の面貌から孤独の翳りはほぼ消えていた。朗らかな笑みが戻り、セレンを安堵させた。
名残惜しげに少女はセレンから体を離した。セレンは少し腰をかがめ、少女の頬に口づけた。そしてしなやかな黒髪を指に絡めて掬い、そこにも軽く接吻した。
「……魔女殿」
少女の真の名を口にしかけ、やめた。明日の夜のためにとっておこう。今はまだ少女は「森の魔女」の顔のままだ。
セレンは名残惜しげに少女の髪を離した。少女はじっとセレンを見つめている。羞恥に頬を染めているが、セレンから目を逸らさない。何か言いたげに少女の唇がわずかに開いたが、声は発せられなかった。
「もし話したくなったら、話して。魔女殿の気が向いたらで構わないから」
「王子……」
一瞬複雑そうな顔をした少女だったが、心を曇らせていたわだかまりが消えたのか、肩の力が抜けたように相好を崩した。
窓から差し込む西日が眩しい。長く伸びる黄金の光に帰館を急かされているようだ。セレンは困ったように眉をひそめる。どうにも離れがたい。
セレンの心情を察したように、少女はセレンの手をぎゅっと握った。
「王子」
「うん?」
「なんだかすごく……気が楽になったみたい。王子の顔を見られてよかった。来てくれてありがとうございます。それと、あのね、……――」
そして少女はとびきりの笑顔で言った。
「セレン、大好き」
思いきり後ろ髪を引かれ、セレンは微苦笑を禁じ得なかった。