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「ちょっと、エリオット! なに呑気に釣りしているのよっ!」
半乾きのままルシエラは、湖畔の特等席で悠然と釣り糸を垂らしているエリオットの元へ駆け寄っていく。
「なんだまた水浴びでもしてきたのか、お嬢さん」
エリオットの視線は、反応しない浮きに固定されたままだ。
「うるさいわね! 腕輪がちょっと気を利かせすぎただけよ! そんなことより行くわよ、魔女の国へっ!」
エリオットの隣にドサリと座り込む。
太陽に照らされた湖面が、キラキラと眩しく光っていた。
昨夜の王宮厨房での毒々しい紫の光や、トレンシュワの喉から響いたあの不気味な声が、まるで悪い夢だったかのように思えるほど花の国は穏やかだった。
「随分とやる気だな。見つかったのか、魔女の国の物が」
「ええ、思いのほかすぐ近くにあったわ」
「ほう。で、そいつは?」
「私はね、今までずっと……この世界は、ホールケーキだと思っていたの。大きくて、色とりどりで、どこを切っても同じように甘い。そういうものだと」
「なんだいきなり」
「笑わないで聞きなさいよ。ええ、本気でそう思ってた。世界はそういう風に出来ていて、私はその上に乗っているイチゴか何かで……でも今思うと、そのイチゴってのが一番どうかしてるわ。乗っかってるだけで、自分が甘いと思い込んでいる。甘さを保証されていると思い込んでいる。誰かが台座を支えていることも、スポンジが何かを吸っていることも、考えたことすらなかった。考えなくてよかったんですもの、今まで」
ルシエラは自嘲気味に鼻を鳴らした。
「違ったわ。台座は腐りかけていたし、中には毒が入っていた。最初からそういうケーキだったのか、それとも私が気づかなかっただけなのか、もうわからない。たぶん両方ね。そして最悪なのは——それを知った今も、私はまだそのケーキが食べたいと思っているってことよ」
エリオットが竿を引き上げると、小さな銀色の魚を釣り上げる。
ピチピチと跳ねる魚が、ルシエラの頬に水滴を飛ばしていく。
その水滴を、ルシエラは意味もなく舌を伸ばして舐めていた。
「……水も場所によって違うのね」
エリオットは何も言わなかった。
言わないまま、釣り上げた魚を湖に戻した。銀色の弧が宙を描いて、水面に落ちて、消えた。
それからゆっくり立ち上がり、竿を肩に担いで、ルシエラを見下ろした。
「……行くわよ、エリオット」
「ああ」
ルシエラが腕輪へと触れる。
二人の身体が光に包まれ、次の瞬間、世界から「色」と「熱」が奪われた。
足元から這い上がってくるような震えに、ルシエラは思わず自分の腕を抱いた。
そこは、花の国の鮮やかさとは対極にある、鉄の国とは違う灰色の世界だった。
空は重く垂れ込め、太陽の光さえも凍りついたように鈍い。
見渡す限り、木々は枯れ果て、大地には霜が降りている。けれど、何よりも異常なのは、景色そのものだった。
「……何、これ。これが魔女の国?」
ルシエラの目の前には、巨大なケーキの残骸のような岩山が連なっていた。
かつては砂糖菓子だったのだろうか。
風化した地層は、ボロボロに崩れた乾燥したスポンジのように見え、川を流れるのは水ではなく、粘り気のある灰色のシロップだ。
「……ここが魔女の国か。荒廃したスイーツランドみてえだな」
エリオットが吐き出した息が、白く凍りつく。
「……」
「所で、魔女の国の物は結局何だったんだよ?」
「スイーツよ。スイーツ」
ルシエラはポンっと自身の腹を叩いた。
「言ってたでしょう。スイーツランドは、甘さを奪ったって……。その甘さの元が魔女の国の物ってことよ。ワープ出来た以上、もう認めるしかないわね」
ルシエラは足元の石を拾い上げた。それは石の形をしているが、微かに砂糖が焦げたような苦い匂いがする。
かつて甘さを謳歌していたこの国が、スイーツランドにすべてを吸い尽くされた末の姿。
凍りついた空気が肺を刺すが、ルシエラの心は不思議と静かだった。
「行きましょう、エリオット。この枯れ果てたパティスリーに、私が新しい火を入れてあげる」
「まあ、意気込むのはいいがどうするんだ」
エリオットが呆れたような、けれどどこか気遣うような声で言いながら、懐から小さな筒を取り出した。
それは、砂漠で彼がルシエラに本当の味を教えるために使った、あの気高い香りを封じ込めたものだった。
「……あ、それ……」
「お嬢さんが国に戻ってる間に仲間が立ち寄ってな。イイもん持ってたから買っといたんだ」
エリオットは慣れた手つきで、筒をポイッと投げ渡してきた。
「やるじゃない、エリオット。本当、あなたは不親切なフリをして、一番美味しいタイミングを知っているんだからっ」
受け取った筒の蓋をそっと開けた。
瞬間に立ち上る、深く、凛とした緑の香り。
灰色の空と焦げたスポンジのような大地に閉ざされたこの国で、その香りはあまりにも鮮烈で、まるでそこだけ時間が動き出したかのようだった。
「いい香り……。スイーツランドの甘ったるいだけの空気よりも美味しいかもね。ずっと背筋が伸びるような気分……」
香りを味わいながら、抹茶の粉を指先で少しだけ掬い、ルシエラは慈しむように見つめる。
「ねえ、エリオット。この抹茶一個で、この甘さがない国をどうにかできるなんて思っていないわ」
決意を固め筒を大切に懐に収めると、灰色の風に靡く髪をひとつに纏めた。
「この国には甘さがない。でも、甘さを知っている魔女たちがいる。彼女たちが求めているのは、かつて奪われた甘さそのもの。これが、その鍵になってくれるかはら分からないけど……」
「やれることはやってみるか、?」
「そうね」
二人は、灰色のシロップが流れる川に沿って歩き出した。
時折、岩陰からこちらを伺うような、ぎらついた視線を感じる。
それは、キャンディー王国の住人のような多幸感に酔った瞳ではなく、飢えと憎悪に研ぎ澄まされた、本物の魔女たちの気配だった。
「なあに用があるなら出てきなさい。私は逃げも隠れもしないわっ! 物理ならこっちの男が相手になるわ!」
「おい……」
ルシエラが周囲の岩山に向かって凛とした声を響かせる。
すると、前方の空間が陽炎のように揺らぎ、ボロボロの黒いマントを纏った影が一つ、また一つと姿を現した。
魔女たちの声は上手く聞き取れははしないが、ひび割れた陶器が擦れるような冷たさを孕んでいた。
ルシエラは怯むことなく、懐の抹茶の筒をトントンと叩く。
「甘さを知らない魔女さんたちは、これが気になるのかしら?」
「おい……あまり挑発するようなことは……」
「なによ、怖気付いてるの?」
「当たり前だ。あいつら何をしてくるか分からないんだぞ……」




