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 視界が猛烈な勢いで回転し、胃袋が喉元までせり上がるような感覚の後、ルシエラの靴裏は柔らかい感触を捉えていた。

「はっ!? もうつ、着いたの……? ここが、花の国……!?」

 乱れた髪を整えもせず、期待に胸を膨らませてルシエラは顔を上げた。

 ルシエラの脳内シミュレーションでは、見渡す限りの花畑、舞い踊る蝶、そして花の蜜を煮詰めて作る芳醇なジャムの香りが充満しているはずだった――。

 だが。

「……えっ?  何これ」

 目の前に広がっていたのは、見渡す限りの巨大な湖だ。

 確かに花はある。

 しかし、それは地面に咲いているのではない。

 家ほどもある巨大な睡蓮や、色とりどりの巨大輪が、まるで浮島のように湖面にプカプカと浮いているのだ。

 そして、その花の島の上で暮らす羽の生えた妖精たちはといえば。

「おーい、こっちのカキツ丸、当たりが来たぞー!」

「こっちはダメだ、ゲテモノばっかりかかりやがる!」

 小鳥のような体躯の可憐な姿をした妖精たちが、釣竿を持ち湖面に垂らし、向こうの小舟の上からは必死の形相で網を引っ張りあげている。

 そこには優雅に蜜を集める姿など微塵もなく、漂ってくるのは花の香りどころか、生々しい臭いだった。

「……ちょっとエリオット。ここ、本当に花の国なの? 港と間違えていない?」

 ルシエラは引きつった笑顔で、隣に立つ男を一瞥する。

 エリオットは耳をほじりながら、事も無げに答える。

「ああ。アリフロリアは見ての通り、四方を水に囲まれた、世界一の妖精もとい漁師たちの国だ」

「りょ、りょりょりょ漁師っ!?  妖精って、朝露を飲んだり花の蜜を食べたりして、キラキラうふふ笑いながら飛んで生きてるんじゃないのっ!?」

「んなわけあるか。現実を見ろ。あいつら、見た目に反してかなりの肉食系だからな」

 エリオットが指差した先では、一人の可愛らしい妖精が、自分の身長以上もあるトゲトゲした巨大魚を釣り上げ、「よっしゃあ! 今夜はコイツの活き造りだぜ!」と嬉々として叫んでいる。

「私の……私の想像してた、メルヘンチックなお花のお菓子パラダイスはないのね……」

 がっくし、とルシエラはその場に膝をついた。

 鉄の国では無機質なサプリメントに倒れ、花の国に来てみれば、待っていたのは魚臭いサバイバル。

「……甘くない。全然、甘くないわ……!!」

「で、ここでは何を学ぶんだ?」

 エリオットの言葉に、ルシエラはがばりと顔を上げる。

 旅の目的は、あくまで様々な味を知ること。そして、クラウスを味で取り戻すこと。

 甘さがない方が寧ろ好都合だ。

 と、ルシエラは自分に言い聞かせる。

「……いいわ。魚だろうが何だろうが、かかってきなさいなっ!」

 ルシエラは湖畔で網を繕っている妖精に向かって、突き進んだ。

「ちょっと! そこの羽根付き漁師さん! 教えて欲しいことが――」

 意気揚々と、ルシエラは岸辺に一番近い巨大な青い花の浮島へと飛び乗った。

 しかし、そこは陸地ではなく、あくまで水面に漂う不安定な「花」である。

「おい、お嬢さ、」

 エリオットが制止の声をかけるより早かった。

「ほぎゃっ!?」

 着地した瞬間、足元の花びらがヌルリと滑り、視界がぐにゃりと傾く。

 花の国特有の、水を吸って弾力を持った花びらは、ルシエラの勢いを支えるにはあまりに軟弱すぎた。

「わ、わわわっ! ちょっと、揺れないで! お行儀が悪いわよ、このお花……あ、あああーっ!?」

 必死に両手を風車のように振り回してバランスを取ろうとするも、重力と慣性の理には逆らえない。

 そのまた綺麗な放物線を描き、湖へと吸い込まれていく。

 ドッパァァァァァーン!!

 豪快な水しぶきが上がり、ルシエラの姿が消える。

「……何やってんだ、あいつは」

 エリオットが呆れ果てて、水面に広がる波紋を見つめていると、数秒後、プハッ!と勢いよくルシエラが顔を出した。

「ぶはっ!  ぺっ、ぺっ! ……な、なんなのよもう!  追放されてからずっと水水水水っ……! この国、足場が悪すぎるわっ!」

「あーあ、派手にやったな。歩行者Aの次は溺死体Aにジョブチェンジか?」

 岸辺で腕を組んだエリオットが、これ以上ないほど冷ややかな視線を送ってくる。

 ルシエラは、浮かんでいる巨大な青い花びらにしがみつきながら、エリオットを睨みつける。

「わ、笑ってないで早く助けなさいよ!」

「おい、何やってんだよ人間っ」

 上空から、カラカラと鈴を転がすような声が降ってきた。

 見上げれば、網を繕っていた妖精が数人、羽をパタパタと羽ばたかせてルシエラの真上でホバリングしている。

「ここは花の国であって泥の国じゃないんだ。そんなに水遊びがしたいなら、あっちの浅瀬でジャリジャリの砂でも噛んでろゃ!」

「あはは! 見ろよ、あの髪。水草が絡まってる!」

「そんなことより邪魔だよ。今、大物のハナジロマグロが回遊してきてるんだ。下手にバチャバチャして魚を散らすんじゃねえ、シッシッ!」

 妖精たちは蔑むように手を振ると、再び漁へと戻っていく。

「な、なによ……あいつら……」  

 すると、一隻の小舟――といっても、巨大な花の萼をくり抜いたような風変わりな乗り物――が、先ほどの妖精たちと入れ替わるようにスルスルと近づいてきた。

「あら、エリオットじゃない! 次の商売はまだ先じゃなかったかしら……」

 船(?)の上に立っていた妖精が、ルシエラをスルーして、エリオットへと声を掛ける。

「ああ、まあ……観光というか付き添いというか……一応紹介しておく。常連のヒアサだ」

 ヒアサと呼ばれた妖精は、船の縁から身を乗り出し、まだ水面にいるルシエラをじろじろと眺めた。

 ヒアサは透き通った羽をピーンと震わせると、ルシエラの鼻先まで降りてきて、クンクンと不躾に匂いを嗅いだ。

「な、なによ…」

「黙ってて。……やっぱり。アンタ、スイーツランドの人間だね?」

「あら、どうして分かったの。やっぱり私の放つ高貴なオーラは隠しきれないのねっ」

 追放された身とはいえ、生まれ育った国の名を言い当てられるとは思ってもみなかった。

「オーラじゃなくて、毛穴から染み出してるのさ。その、虫が寄ってきそうな、胸焼けのする砂糖菓子の匂いが」

 ヒアサは汚物を見るような目で顔をしかめると、船の縁を指先でトントンと叩いた。

「あの国から来た連中は、身体の芯まで糖分でふやけてるからすぐに分かる。……でも、珍しいもんだね。あんなお花畑な思考の連中が、この荒くれ漁師の国にやってくるなんて。ここは朝から晩まで生臭くて、可愛らしいスイーツなんてもうどこにもないよ」

「見れば分かるわ。私はね、学びに来たのよ。甘みだけが味じゃないってことを。……たとえ、そこが魚臭くて、妖精が肉食系で、足場が最悪な場所だったとしてもねっ!」

 水浸しのルシエラが、水草を冠のように頭に乗せたまま堂々と宣言する姿を見て、ヒアサは一瞬呆気にとられたように瞬きをした。

 それから、隣で頭を抱えているエリオットに視線を戻す。

「……変な奴だなあ」

「ルシエラだ。訳あって追放されたらしいんだが、野心は本物だ。数日くらいは世話になるかもだから、まあ宜しくな」

 エリオットの手が、ようやくびしょ濡れのルシエラを引き上げた。

「助けるの遅いわよ」

「お嬢さんなら自力で上がれるだろう」

 ヒアサはしばし、鼻を鳴らしながらルシエラを観察していたが、やがてニヤリと口角を吊り上げた。その笑顔には、妖精特有の可愛らしさよりも、獲物を前にした狩人のような鋭さがある。

「ふーん。ま、いいわよ。エリオットの連れならそこまで悪い奴じゃないだろうし……。ルシエラ、びしょ濡れのままじゃ可哀想だし、こっち付いてきなっ!」


 ヒアサの後に着いていくと、湖面に浮かぶ一際大きな蓮の花を改装した建物が見えた。

「あれが観光客や商人たちが寝泊まりする宿だ」

「はい、これ。着替えなよ」

 ヒアサがルシエラの渡してきたのは、布というよりは、強靭な植物の繊維を編み込んだ、ゴワゴワとした質感の作業着だった。

「……ちょっと、これなによ。可愛げの欠片もないわね。もっとこう、シルクとか、せめてリネンとかないの?」

「贅沢言わない。この国でひらひらした服なんて着ても意味ないよ」

 宿の脱衣所で、ルシエラはびしょ濡れの衣服を脱ぎ捨てた。鏡(といっても、磨かれた金属板だ)に映る自分は、髪に水草が絡まり、自慢の肌も冷たい湖水で冷え切っている。

 支給された作業着に袖を通すと、案の定、サイズが大きく、肩がずり落ちそうになる。

 ルシエラは震える手で、慣れない手つきで腰紐をきつく縛った。

 しかし、鼻をつくのはやはり、壁からも床からも、そしてこの作業着からも微かに漂う生臭さだ。

「……変な格好……」

 ポツリと呟く。

 この生臭さが全部甘い香りになったのが、スイーツランドだ。

 魚か菓子か、漂っているものの正体が違うだけで、本質は似たようなものだと、鏡に映る自身の姿を見て、そんなことを思ってしまう。

「着替え終えたね、ルシエラ。それじゃあ漁に行くよ」

 飛んできたヒアサが当たり前のように告げた。

「は?」

「エリオットが何事も経験させてやれってさ」

「は?」

 ルシエラ、初めての漁業が始まる。






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