すれ違い
火は小さく、静かに揺れていた。
夜は深い。けれど、昨日までより少しだけ落ち着いている。風の音も、枝の擦れる音も、どこか遠くに感じられた。
サクは地面に座り、手の中の枝で火をつついた。ぱち、と小さな音が弾ける。
向かい側で、チヨが同じように座っている。
距離は近い。近いはずなのに、ほんの少しだけ、間に何かが挟まったような気がした。
昼間のことが、まだ残っている。
助けた人間たちは、あの後すぐに去っていった。
完全に安心したわけじゃない。けれど、逃げるようでもなかった。
別れ際、ひとりが振り返って――ほんの少しだけ、頭を下げた。
あれが何だったのか、サクはまだ言葉にできていない。
「……よかった」
チヨがぽつりと呟く。
火の向こうで、その顔はよく見えない。
「……ああ」
短く返す。
それ以上の言葉が、うまく出てこなかった。
しばらく、音だけが続く。
火の音。風の音。遠くの、何かの気配。
チヨが、ゆっくりと顔を上げた。
「こういうの、増えればいいのに」
静かな声だった。
願いみたいな、祈りみたいな。
サクは、少しだけ目を伏せる。
胸の奥で、何かが引っかかった。
「……無理だろ」
出た言葉は、思っていたよりも硬かった。
チヨの動きが、ほんのわずかに止まる。
「でも、さっきみたいに――」
言いかける。
その先は、言わなくても分かる。
分かってしまうからこそ、サクは顔を上げなかった。
「一回助けたくらいで変わるなら、こんなことになってない」
火の中を見たまま言う。
ぱち、と火が弾けた。
沈黙が落ちる。
言いすぎた、と思ったのは、口に出した直後だった。
でも、引っ込める言葉も、見つからない。
間違ってるとは、思えなかった。
あの時、助けた。
確かに、何かは変わったのかもしれない。
でも――
それで全部が変わるほど、この世界は軽くない。
期待して。
少しでも信じて。
それで、もしまた裏切られたら。
その時、自分がどうなるか、サクは分かっていた。
だから、最初から踏み込まない。
そうやって、守ってきた。
それなのに。
――それでも、踏み込んでしまっている。
目の前の、チヨのせいで。
「……そっか」
チヨが、小さく言った。
否定もしない。責めもしない。
ただ、受け止めるだけの声。
それが、少しだけ、きつかった。
火が揺れる。
距離が、ほんの少しだけ、開いた気がした。
サクは視線を上げる。
チヨは下を向いたまま、何かを考えている。
表情は見えない。
けど、分かる。
さっきまでより、少しだけ遠い。
「……でも」
言葉が、勝手に出た。
チヨが、わずかに顔を上げる。
「無駄じゃないとは思う」
それだけ言って、口を閉じる。
うまく言えない。
何をどう伝えればいいのか分からない。
それでも。
全部が無意味だとは、思えなかった。
今日のあれが。
あの一瞬が。
確かに、何かを変えた気がしたから。
チヨは、少しだけ目を丸くして――
それから、ほんの少しだけ笑った。
「……うん」
小さく頷く。
火の明かりが、その横顔を照らす。
完全には戻らない。
でも、壊れてもいない。
そんな距離。
サクは息を吐く。
胸の奥の重さは、消えていない。
でも、さっきよりは、少しだけ軽い。
同じ方向を見ているはずなのに。
ほんの少しだけ、歩幅が違う。
そのズレが、これからどうなるのか。
まだ分からない。
火は静かに燃え続けていた。




