2 氷の宰相様
「……参った参った。アレッサにはやっぱり敵わないなぁ」
剣の手合わせを終え、汗を拭う私へと水筒を差し出してきたのは少し困り顔をしているエカードだ。たった今、私に剣を弾き飛ばされてしまったのだからこの表情は当然だろう。
差し出しされたそれを受け取りつつ、私はじろりと彼を睨めつけた。
「エカード、あなたいつも踏み込みが甘いのよ。それに打ち込む場所を見過ぎなのも良くないわ。それだと次にどこに攻撃が来るのか、相手はすぐに解ってしまうじゃないの」
「そうは言っても速さには自信があるから、ある程度なら解っても防げないんだよ。アレッサの反射神経が凄すぎるんだって」
「ある程度じゃ駄目に決まってるでしょ。いくらあなたが治癒術が得意だからって、慢心は命取りに繋がるんだからね」
実際、これが実戦だったのならエカードの命は無かっただろう。
剣を失えば後は己の身で戦うか、魔術を使うかになるものの、エカードの魔術適性は治癒術に特化しているせいで攻撃系の魔術はさっぱり使えない上に、彼は体術が不得手なのだ。
私は溜息を漏らしながらも受け取った水筒を傾ける。冷たい水が酷く心地良く、暑さで火照った体を潤していくようだった。
「君の注意は肝に銘じておくよ。それよりもアレッサ……君はいつから結婚相手を探してたんだ?」
首を傾げながら何気なく尋ねるその言葉に、私は思わず口に含んでいた水を勢いよく噴き出してしまう。激しく噎せこんでいれば、訓練をしていた他の騎士達が何事かとこちらを見ているのが目に入るし、隣に居たエカードは青褪めた表情で必死に私の背中を摩ってくれていた。
彼が触れた背中越しに温かなものが身体中を巡っていく感覚がするのは、きっと彼が私に治癒術を施してくれているのだろう。
そのお陰なのか、随分と呼吸が楽になったところで私は思わず大きな溜息を漏らす。くしゃくしゃと自分の髪をかきあげると、未だ心配そうに私を見下ろすエカードの頭に手を伸ばした。
「ありがとう、もう大丈夫よ」
「本当か?まさかそんなに動揺するとは思わなかったんだ。その……悪かったよ」
「私の方こそ、これくらいの事で治癒術を使わせちゃって悪かったわ。だからそんな申し訳なさそうな顔しないでちょうだい」
よしよしと頭を撫でれば、ふわふわとした猫みたいな髪の感触がくすぐったかった。
幼い頃はよく泣いていたエカードをこうして撫でて慰めていたのが癖になっているのか、今では私よりもかなり背が高くなった彼は、それでも私が手を伸ばせば無意識に背を屈めて頭を撫でさせてくれるのだ。
しゅんと落ち込んだ様子で大人しく撫でられていた彼は、私が笑顔を向ければほっとした様子で息を吐き出した。
「それなら良かったけど……でも、動揺したって事は、ライナ王女殿下の仰っていた通り、とうとう長年のキルシュ宰相様への片想いを断ち切って現実を見ることにしたんだな」
「うん!?な、なんなのよそれ!?あなた、ライナ王女殿下から一体何を聞かされたのよ!?」
うんうんと勝手に納得して頷いているエカードに対して私が素っ頓狂な声をあげたところで、他の騎士達がざわりとした様子でまたしてもこちらを見ている事に気付き、慌てて声を顰める。
結婚相手は勿論探していないし、キルシュ宰相様への片想いを断ち切ってもいない。そもそも現実を見ることにしただなんて、それではまるで私がずっと現実逃避をしていたみたいではないか。
「……ライナ王女殿下があなたに何を言ったとしても、私がキルシュ宰相様を好きな事に変わりはないわよ!」
「まぁ君の場合は好きというより憧れの方が強いと思うけどなぁ。何せ相手があのキルシュ宰相様だし。容姿端麗、頭脳明晰、正に完璧だもんな」
「そう!そうなのよ!解っているじゃないの!」
キルシュ宰相様の事を褒められて、私は自分の事のように嬉しくて頷いていたものの、そんな私を彼は生暖かい眼差しで見ると優しく微笑んだ。
「うん。だから完璧すぎるんだよ。あの方は言うなら童話の中の王子様みたいな存在って事」
「うん……?それはキルシュ宰相様が王子様みたいに格好いいって事?」
確かにキルシュ宰相様の容姿は神々しい程に美しいけれど、エカードの言い方はなんだか含みがある。何が言いたいのか、私にはよく解らなくて首を捻っていれば、彼はふっと可笑しそうに破顔した。
「ふはっ……!本当、アレッサはそういうとこだよ。良かった……変わってなくて安心した」
「???なんなのよ、私が解るように言いなさいよ!」
「いや、僕にもまだ可能性がありそうだから安心したって話」
全く話が見えず、私は相変わらず首を捻るばかりだ。昔はもう少し解りやすい子だったというのに、いつからかエカードはこうした含みのある物言いをする事が多くなっていたのだから本当に困ってしまう。
ただ、こんなに嬉しそうに笑われてしまっては、これ以上追求する気にはなれなかった。追求したところで素直に言うとも思えなかったというのもあるけれども。
そうして少しだけ苦笑を漏らしたそんな時だった。
「っ……!?」
まるで刃物を喉元にでも突きつけられたようなそんな鋭い視線を感じ、私は気配のした方へとさっと顔をあげる。
殺気にも似たそれを辿っていけば、騎士団の訓練場から見える先――王城の一室から窓越しに此方を見ているのは、遠目でも見間違えようもないキルシュ宰相様その人だ。
ただ、その表情を見た瞬間、私はヒュッと息が詰まったような息苦しさに加え、顔からさぁっと血の気が引いていくのをありありと感じてしまう。
あの部屋は彼が宰相になってからそこに移された宰相の執務室だ。
ライナ王女殿下の兄君であり、愛妻家で有名なウルリック国王陛下が、即位後に御自分の執務室をエルリカ王妃殿下との寝室の隣に移されたものだから、それに伴って宰相の執務室はそこから程近いあの場所になったという話なのだけれど、美しい庭園に面した国王陛下の執務室とは違い、キルシュ宰相様の執務室は騎士団や馬場に面したこちら側だったのだ。
私は彼の姿が遠目でも見られる確率が増えて嬉しく思っていたのだけれど、彼にしてみれば訓練場から聞こえる剣の交わる音や騎士達の掛け声なんかがとんでもない騒音なのだろう。窓越しにもあの美しい顔を顰めている姿は、ここで訓練をしていればよく見られる光景だ。
けれど今の彼からは全ての感情が抜け落ちてしまったかのような底無しの無しか感じられず、その視線だけは殺気めいて凍てついた剣のように鋭い。
もともと笑顔を見せられる方ではないし、表情豊かという訳ではないものの、眉を顰められたり、溜息をつかれたりといった解りやすいところもあるのだ。そんな感情の一切が削ぎ落とされてしまった彼の表情は、見ているだけでぎゅっと胸が締め付けられるように苦しい。
もしかして、私が知らないうちに彼の気に障る事をしていたのだろうか。
これまで話しかけてもすぐに顔を背けられて、まともに目も合わせてもらえない事はよくあるけれど、あれ程の殺気めいた視線を向けられるのは初めての事だ。私は思わずぐっと拳を握り締めると、少しだけ俯く。
ゆっくりと大きく息を吸い込み、意を決して顔をあげると、笑顔を浮かべながら彼に向かって手を大きく振ったものの、確実に私を見ていた筈の彼は勢いよくカーテンを閉めてしまったのだから流石に落ち込んでしまう。
そろそろと力無く手をおろしたところで、隣からは小さく息を吐く音が漏れた。
「……キルシュ宰相様は相変わらず恐ろしいなぁ。あれで文官なのは勿体ないくらいだよ。あの美貌と殺気に凄まれただけで動けなくなる奴もいるんじゃないか?流石氷の宰相様だな」
「エカード」
「あ、悪い……失言だったよ」
ばつの悪そうな表情のエカードを軽く小突くと、私はもう一度キルシュ宰相様の執務室を見上げる。閉ざされたカーテンが再び開く気配は全くなかった。
氷の宰相様。
美しい薄氷色の髪に氷のような涼やかな瞳を持つキルシュ宰相様をそう呼ぶ人は多いのだけれど、それは何もその容姿の特徴からだけではない。
常に冷静で、時には冷酷と言われかねない策を平然と講じる姿に加え、美しい容貌ゆえに恐ろしく感じる無表情なところや、視線だけで凍りついてしまいそうな鋭さなどからそう呼ばれているのだ。
そう呼ぶ人達は皆、彼をまるで恐ろしいものを見るかのような目で見ている事が多く、私はそれがとても悲しくて嫌だった。彼の事をよく知りもしないで、ただ恐れているのだから。
それは今に始まった事ではなく、10年前のアカデミーに通っていた頃から彼にはずっと『氷』という言葉が付き纏っていたのだ。
読んでくださってありがとうございます!
作者のやる気に繋がりますので、面白かったと思って頂けたら下にある☆を押して評価やブクマを宜しくお願いします!