以下未完
Episode11
私は、再び、手術室に用意されたベッドの上にいた。
これで今年に入って2回目。
前回と違うのは、
手術室の入り口や手術室の中にアニメのキャラクターの絵が貼ってあったり、
ファンシーな飾り付けがしてある小児用の手術室であることだった。
手術室の中のモニターには、アンパンマンの絵が映っていて、私は少し、昔の記憶を思い出した。
今回、手術室が小児用であったのは、当時の医大の先生の中で、
鎖骨下静脈から皮下トンネルを通してルートを入れる手術が一番上手なのが
小児外科の先生だったからであった。
ルートを入れる手術は、エコーで位置を確認しながら、針先で管を手探りで移動させていくというものだった。
予め失敗のリスクは聞いていたが、私は不思議と不安に思っていなかった。
当初の予定では、上半身だけ麻酔をするはずだったのだが、全身麻酔に変更となった。
生検前後の検査PET-CTにより上から11番目の左側の肋骨にも腫瘍が見つかっていたため、
麻酔の際に腫瘍の部分に触れてしまうリスクを避けるためである。
ドラマの撮影で見るような手術室よりも機材がたくさんあった。
その日、手術に立ち会う家族はいなかった。父も母も仕事で忙しい。
昔とは違い、私ももう19になっていたし、寮で生活していたこともあって、身の回りの管理も自分でできるようになっていた。
そうして私は1人。今年に入って2回目になる全身麻酔に身を委ねた。
―――――
目を覚ますと、病院のベッドの上だった。
前回とは違い、整形外科の病棟ではなく、腫瘍・血液内科の病棟だった。
胸元を見ると、無菌テープで巻かれた管がぶら下がっていた。
そこで私は実感する。
いよいよ、始まってしまう。
また、15年前の時のように、髪が抜けてしまうだろう。
それに向けて院内の理髪店で散髪もしたじゃないか。今さら何を心配することがあるんだ。
中学を卒業してから、やっと仲良くなった友人も、やっと見つけた自分の居場所もなくなってしまう。
まだ始まってもいないのに、復学した後のことを考えてしまう。
癌の治療なのに、悪性腫瘍の末期に近い癌なのに、なぜか死ぬとは思わなかった。
私はまた助かってしまう。
治療の概要を聞く限りでは、私は左足の自由がなくなる。大腿骨を切って、人工関節に入れ替えるためだ。
以前の生活とは違い、杖をついて一生を過ごさなくてはならなくなるだろう。
コルセットも必要になってくる。
そうして、そんな身体になった私が復学した時、他の皆はどんな目で見るのだろうか。
皮肉にも、休学前の国語の授業で、障害者について25分プレゼンをした私は
世間の目が障害者に対してどれほど冷たいかを知っていた。
しかし、手術の前に抗癌剤治療が始まる。
2ヶ月の間、たくさんの抗癌剤がまた、私の体内に入るのだろう。
抗癌剤を体外に出すための働きをする腎臓は、私にはもう1つしか残っていなかった。
たくさんの不安が残る中、私の周りでは抗癌剤治療中の患者さんの寝息が聞こえていた。
そして、いよいよ抗癌剤治療が始まるのだった。
Episode12
中学生の頃から続いているホルモン療法は抗がん剤治療が終わるまで中止になった。
小さな体調の乱れも、抗癌剤治療に影響することがあるかもしれなかった。
抗癌剤治療の始まるその日、私は早朝に採血で看護師に起こされた。
そして私は何回か針を刺され、再び眠りについた。
最初に胸から出ているカテーテルに入る薬は、
点滴台に繋がったその薬は真っ赤な色をしていた。
ドキソルビシン+アドリアマイシン。
医師はその薬の名を告げた。
なんとも奇妙な名前の真っ赤なその点滴は、大きな機械と繋がっていて、
流れ落ちる量を一定に保ち、決まった時間内で全て抗がん剤が体内に入るようになっていた。
―――現在も昔も、抗がん剤は変わっていません。
使う薬は全部で4種類。
手術の時点で癌細胞の9割が死んでいれば3種類で、治療期間は半年程度ですむ、と医師が言った。
運が良ければ、後期から復学できるかもしれない。
しかし、手術の結果が悪ければ、4種類の抗癌剤治療が1年間続くという。
前期の単位はとっていたため、この場合実質2年分留年することになるだろう。
―――昔から抗がん剤は変わっていませんが、医療は進歩しています。
骨肉腫は、完全治癒を目標とするそうだ。
そのため、抗がん剤は大量に投与するが、昔と今で違うのは、吐き気止め等の副作用を抑える薬が進化していることだった。
いくらつらくても、転移さえしていなければ死ぬことはない。
私はそう思っていた。
投与開始から20分が経過した頃、異変が起こった。
激しい耳鳴りがした。
全身が痒くて耐えられないほどになった。
アレルギー反応である。
看護師と医師が慌ただしくやって来た。
点滴はすぐに中止になった。
抗がん剤の使用量は蓄積する。
幼い頃の治療で同じ薬を使用しているため、何が起こるか分からなかったのである。
結局その日の抗がん剤投与は中止になった。
私は医師と相談して、アレルギー止めを治療前に飲むことになり、
次の日から治療が再開する旨を伝えられた。
また、薬の投与間隔もゆっくりにするという話だった。
たった20分薬が入っただけであったが、目がチカチカして、耳鳴りが止まらなかった。
かろうじて吐き気はなかったが、初日でこれだけ副作用が出たという事実に、
無事に治療が終わるのだろうかという不安はつのる一方だった。
4人部屋で、私のせいで慌ただしく騒がしくなってしまうことで、私は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
無料個室は、1000円で購入できるテレビカードが無いとテレビを見ることができない。
インターネットも同様に、テレビカードがないと使用できない。
平日に面白いテレビがやっているはずもなく、私はスマートフォンを片手にごろごろと暇な1日を過ごした。
夜になり、大部屋は通話が禁止されているので、
水だけになった点滴を引きずって談話室に行き、親に電話をかけた。
「今日はね、」
母は、大変だったね、と頑張れ、という言葉を私に告げた。
パソコンをインターネットに繋いでみるが、思いの外テレビカードの消費が早く、
このままではお金がいくらあっても足りないと思った私は、パソコンをするのを諦め、
ベッドで1人、退屈な時間を過ごすのだった。
また、1人。
そんなことが頭をよぎったが、私は大丈夫だ、と自分に言い聞かせて目を閉じた。
そして本格的に、抗癌剤治療が始まったのであった。
Episode13
そこからの副作用は、厳しかったように思う。
抗がん剤治療を楽に乗り切れるなんて思ってなかったが、
確かに、過去にうっすらと覚えている治療の生活よりも副作用が減っているような気がした。
一番進歩していると感じたのは吐き気止めだった。
吐き気止めが、食前と食後に出ていて、食事をして吐くということはなかった。
なんとなく気持ち悪くて、食べたくないということはあったものの、
以前は食べたそばから吐いていたし、飲み物を飲むだけでも吐き気があった気がする。
それに比べれば良いのかもしれなかった。
「ものを食べると下痢でつらい」ということを除けば。
夜中だろうが関係なく、お腹の痛みはやってくる。
その度に、トイレに立てこもる。
4人部屋で、周りのベッドで寝ているのは皆お年寄りで、いびきがうるさくて寝れたものではなかった。
唯一良かったと思えるのは、部屋の入口にトイレがあったということだった。
たった2ヶ月なのに、私は既に暇を持て余していた。
テレビも、カードがないと見ることはできない。
昼間に寝すぎてしまうと、夜は寝られない。
そんな負の連鎖の中、私を支えてくれたのは、夜の家への電話と、スマートフォンのゲームアプリだった。
そして、手術の日が決まった。4月24日。
4歳の時の腎臓摘出手術の日とわずか1週間の差。
昔の思い出が少し、蘇る。
手術の前は、血中濃度を下げないようにするために、抗がん剤は中止。
そして私は、これまで食べられなかった食欲を、ここで発散した。
夜の絶食時間まで、病院内のローソンで買ったお菓子を食べまくった。
消灯後、先生がやって来て、言った。
「緊張してない?」
してない、と言えば嘘になる。でも、私が緊張しても、どうにもならないのだ。
「大丈夫です。私は、寝てるだけなんで。」
「そうか。僕の方が緊張してるかもしれないね。頑張ろうね。」
先生はそう言って、部屋を後にした。
窓際の、入って左側のスペースの私は、まだ自由に動く、
以前よりも痛みの収まった、当初より張った部分が無くなっているその左足を見た。
そして、眠りについた。
朝。
父がやって来た。
「おう、お前頑張れよ」
そう言って、父は私の頭をなでた。
その後、父は手にしたタブレットで、
松葉杖をついた、人生最後になるだろう五体満足の私の写真を撮った。
待合室にはジブリのオルゴール曲が流れていた。
そして私は、手術室の並ぶ部屋の奥へと歩いた。
滅菌の帽子と靴を履いて、手術室の中へ入った。
手術台に横になり、麻酔のために点滴が入る。
手首に、3回。血管が細くて針が入らないのである。
あまりの痛みと、不安も相まって私は自分でも信じられないくらい泣いた。
「痛かったね、ごめんね」
そんな声が聞こえたかもしれないし、聞こえなかったかもしれない。
つまり私は、眠ってしまったのであった。
Episode14
手術の後は抗がん剤もお休みで
1か月間、ベッドに横になる生活が続くという話は聞いていた。
抗がん剤治療がストップするということは
あの腹痛や食欲不振が収まるということで、そうなれば少し元気になれるかもしれない。
そう、思っていた。
ぼんやりと目を覚ました私は、準集中治療室と呼ばれる部屋にいた。
朦朧とした意識の中で、何人かの親戚や知り合いがお見舞いに来てくれている事を感じていた。
しかし、身体の重さとだるさで、起きることもできなかった。
麻酔がきいているのか、まだ全身に感覚は戻ってこない。
胸からはいつもの見慣れた点滴ルートが繋がっていて、尿道カテーテルも入っているようだった。
周囲の状況を少しずつ理解した私は、そこからすさまじい吐き気に襲われた。
ナースコールを押すが、看護師はなかなかやってこない。
しかし、おかしな話なのだ。私は前日の夜から絶食で、食べ物はおろか、薬も飲んでいない。
とうとう吐き気に耐えられなくなり、しかし身体が起こせないまま、
正面に吐くことだけは避けたいと、右手に向かって横へ私は"何か"をそこで吐いた。
見るとそれは鼻水や痰のようなものだった。
その後看護師がやって来て、上着を着替えさせてくれたのだが、
これも、私が身体を起こすことができないため時間がかかった。
まず私が手の動く範囲で袖を脱ぎ、ベッドの右側に立つ看護師がそれを介助しつつ回収。
そこから右手に片袖を通し、看護師が残った片袖と衣服を私の背中へと押し込み、
反対側から出して左手に通す。
そうして無事に着替えが終わった私は、再び眠りに落ちた。
身体が起こせない私は、水を飲むこともできなかったのだ。
夜中は、背中が熱く、何度か看護師さんが手を入れて空気を入れ替えてくれたが、
これは床ずれを防止するためなのだと後日知った。
私は何度か、ナースコールを押して空気の入れ替えをお願いした。
この準集中治療室にいることのできる期間は3日。
3日経ったら、他の患者さんに部屋を譲らなければならないのだ。
ほんの少しだけ、リクライニングベッドを動かしてもたれかかるようにして
起き上がれるようになったのは2日目のことだった。
角度にすれば30°~40°くらい。
それ以上は手術の痕が痛くて起き上がれなかった。
お茶も、水筒から上手に飲まなければこぼれてしまう。
それでも私の身体は本能で生きようとしていたのだと思う。
母と弟が見舞いにやってきたのは、そんな、少しだけ容体が回復した頃だった。
母は私の様子を心配そうに見て、マクドナルドの袋を開けて弟と2人で食べた。
私は食欲もなく、うまく食べることもできないので、見ていることしかできなかったが
その時一口だけもらったチーズバーガーは、
元気だった頃に食べていたそれよりも美味しかったような気がする。
3日目は、移動の日だった。
手術後から3日。まだお通じが無い上にベッドから身を起こすことすらできない。
本当に大丈夫なのかという不安は少なからずあったが、
整形外科棟に移動してから1週間は個室だということもあり、場所が変わるだけで環境に差は無いと思っていた。
しかし、整形外科棟に移るということは、場所が変わるというだけではなく
看護師1人あたりの患者数が増えるということで、私はその意味を痛感することになった。
その時は、無料の大部屋が満室だったため、本来有料で使う個室を使うことになった。
整形外来棟へ移動しても、ベッドから起き上がることはできなかった。
尿は、尿道カテーテルから点滴台へ自然に流れていく。
意識と気持ちが元気になってくると、私は自分のみじめさを痛感して
1人の部屋で、ひとり涙を流した。
なんて、みじめなんだろう。
私の友達や、同級生は、今この瞬間にも、楽しい学生生活を謳歌していて
五体満足に動く自由で元気な体で好きなことをしたり、旅行をしたり、しているだろう。
どうして私は、私だけは、生きることで精いっぱいで、こんなにも辛いんだろう。
足が痛い。
そんなことを繰り返し繰り返し、考えてしまうのだった。
手術痕が痛くてなにもできない分、悪いことばかりが頭に浮かんでは消える毎日だった。
そんなある日、急に便意が押し寄せた。
ナースコールを押し、事情を説明すると、
女性の看護師がちりとりのような形の容器を持って戻ってきた。
仰向けに寝ている私と布団の間に差し込み、私は寝たまま用を足した。
その後、ウエットティッシュでお尻を拭いてもらう。
これが、起き上がれない間の用の足し方である。
ウエットティッシュで拭いた後、乾ききらないまま下着をはくことの気持ち悪さ。
尿道カテーテルが汚れてしまうかもしれないという気持ち悪さ。
私はなお一層みじめな気持ちになったのだった。
しかし、生きている限り起こる生理現象は、おさまらないのだ。
ある時は、やってきた看護士が男性で、
容器を取りに戻ったはずが、全く戻ってこないことがあった。
その男性看護師は、女性の看護師を探していたそうだ。
その時は、ちょうど女性の看護師達は、他の患者さんの対応でいなかったらしく、
私は、準集中治療室との差を痛感した。
耐えきれず、もう一度ナースコールを押し、
やってきてくれた看護師長さんに速やかに対応してもらい、事なきを得た。
その後も、布団から起き上がれない私は、ただただベッドでじっと時間が過ぎるのを待つだけの生活が続いた。
そんな生活が何日か過ぎると、無料の大部屋に空きができ、私は再びストレッチャーに乗って移動することになった。
そうすると、今度は同じ室内の患者さんのいびきで、眠れない夜が続いた。
昼間は、周りの患者さんのご家族がお見舞いにくるなどで騒がしく、
私はベッドから起き上がることもできないので、眠れない、つらい、しんどい、を繰り返していた。
テレビはイヤホンをつなげて見るが、身体が仰向けのままなので、首を右に向けて画面を見ていたが、
すぐに態勢が辛くなり、ただただ時間が過ぎるのを待っていた。
1週間~10日くらいだろうか。
そのくらいの時間がたったころ、足に三角の大きいクッションを挟み、自力で体を横向きにする練習が始まった。
まだ傷口は痛むものの、久々に身体を横向きにできることに感動した。
医師の説明によると、
左脚の大腿直筋という、一番大きい筋肉以外のほとんどは、腫瘍とともに切除しているため、
股関節を支える筋肉がほとんど無く、全方向に股関節が外れやすい、ということだった。
そのため、左脚をひねらないように、身体の態勢を変える必要があった。
言われてから、左脚が、思うように上に上がらないということに気が付いた。
力を入れても、足は少しも動かなかった。
態勢を横向きに変えれるようになると、徐々に起き上がれる角度が増えていった。
ベッドをリクライニングしないと、自力では起きれなかったが、
それでも、食事を座って食べられるのは、嬉しかった。
少しずつ手術跡がふさがり、傷口の痛みが治まった頃、再び、抗がん剤治療に戻ることになった。
今後の話。
いほまいど(イホスファミド)+シスプラチン、休む のスケジュールを繰り返す
イホマイド→幻覚・幻聴の副作用がある
リハビリ開始。
ごはん食べられない。おいしくない。
しものせんじょうがすごく嫌い。
ウォシュレットでもいいっていったのに。ブチギレ
物を投げ始める。ごはんをひっくり返したりしだす。←我ながらどうかしとる
親にもだいぶ怒られたりする←そらそう
ほぼ毎月、祖母がお見舞いにきてくれる。
母は毎週、お弁当を持ってきてくれる←退院後、なんか文句言われた。喧嘩した。
輸血でアレルギーを起こす
肺に水が溜まって死にそうになった話。
退院
免許
修養科
復学
就職
異動
腎臓の話