Episode>>5
小学5年生になる4月。
転校先には、私と、もう一人の転校生がいた。
地域の呉服店の子で、地元に戻ってくる形だったその子に、
田舎の小さな小学校のクラスメートたちは群がった。
結果的に、ひとりぼっちになってしまった。
入院生活や通院をしていたこともあり、元々1人である環境には慣れていたが、
唯一、学校生活の中で困ることがあった。
時間割は分かっても教室が分からないのだ。
「次の授業、教室どこ?」
と聞いても、かえってくる言葉は決まって
「分からん」
の一言だった。
給食のシステムが違うことを知らなかったために他の人と違う行動をとってしまい、
白い目で見られることもあった。
―――――
「今日遊べる?」
「分からん」
「〇〇ちゃんに聞いて。」
「△△さんじゃないと分からない。」
―――――
「交換ノート、私もグループに入れてよ」
「え、分からん。」
そんなやり取りばかりで、埒が明かない。
あからさまないじめというわけではなかったが、私はそれから人と話すことが怖くなった。
何を言っても『分からない』と言われるのなら、私から話すことはなにもないと思った。
それから私は、各教室の場所は自分で覚え、休み時間は独りで過ごすようになった。
普段は、一人で校舎を歩いたり図書室で本を読んだりすることが多かった。
もちろん、体育の時や持久走大会の時などは今までのように他の人より成績に差がついた。
一人だけ走るのが遅くなっても、以前の学校の頃のように応援してくれる人はいなかった。
私は申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら体育の時間を過ごしていた。
そんな私は、辛くて何度か学校を休んだこともあった。
学校を休むと、クラスメートから電話がかかってきて、親が学校に行くように促すので、
次の日には学校に行くしかなかった。
電話をかけてきた子も、
私が学校に行っても態度が変わるというわけではなく、
結局私は独りぼっちだった。
私は、私の居場所を失った。
私は、修学旅行の自由時間でさえも、独りぼっちだった。
私を見た男子生徒は、「女子~誘ってやれよ~」などと1人の私に聞こえるように騒ぎ立て、
私をからかった。
不意に思い出す転校前の学校の親友の顔や楽しかった日常に孤独を感じることも増えた。
―――今、この瞬間に私が思っている親友は私のことを思い出しているのだろうか?
それとも、友人は私の事を考えることもなく楽しい日常を過ごしているのだろうか?
そんなことを思ううちに、本当に世界から取り残された感覚に陥った。
そうした日々を過ごしているうちに、今までもなんとなく苦手に感じていた、
『みんなと一緒に行動する』ことが嫌いになった。
元々、病気の影響で走るのが遅かったり疲れやすかったりしたので、
体力的に『みんな』についていくのが大変だった。
今までは、人一倍努力して、沢山たくさん頑張ってようやく
『みんなと一緒に行動する』ことができていた。
しかし、その『みんな』に突き放されれば、頑張って付いていく意味がないと思った。
両親に相談しても現状が変わることはなく、私はベッドの中で1人で泣くことが多くなった。
当時の私はそうして、感情を表に出さないように、
周りの人に心配をかけないように1人で抱え込むのが精一杯だった。
本当に辛いと感じた2年間も終わりを迎える卒業式。
私は周りのクラスメートが涙を流す中、涙の1つも浮かんではこなかった。
2年間で何も変わらなかった。私は結局最後の最後まで一人だった。
数日後の離任式の日は、学校に連絡もせずに欠席し、故郷に住む祖母の家に一人で行った。
元のクラスメートと会いたいとも思わなかったし、
特に深い思い入れもない小学校の校舎に行く意味も感じなかった。
―――――――――――――
そして、そのまま中学校に入学することになった。
中学生になってからも、学校の長期休暇の合間に病院へ通院していた。
小児科の内分泌の先生と話をして、女性ホルモンによるホルモン療法が始まった。
先生は私に言った。
「脳は頑張って司令を出してるんだけど、
放射線治療の影響で身体がそれに追いついてなくて、
女性ホルモンの分泌が人に比べて少し良くないんだ。
骨のレントゲンを見る限りだと、身長もあと5cmは伸びると思うよ。
成長ホルモンを今から分泌させることはできないけど、
女性ホルモンの影響で少しは背が伸びると思うから。」
当時の私の身長は140cmに達さない程度で、
145cmあれば少し背の低い成人女性として認識できる位になるだろうとその言葉に期待した。
そして、飲む薬が少し増えた。
当時の中学校は、全8校の生徒が集まる学校で、全校生徒は150人前後という小規模校だった。
他の学校の友人が増えるかもしれないと、今までの辛い日常から抜け出せるかもしれないと、
私は期待に胸をふくらませながら中学生活に臨んだ。
しかし、私の期待とは裏腹に、中学生になっても、たいして状況は変わらなかった。
移動教室の時には、私だけ置いてけぼりを食らう。
一緒にくっついて行動していた"友達"に陰口を叩かれている。
そうして私は、独りになることを選んだ。
田舎の学校ということもあり、部活動は全部で9種類だった。
そのうちの文化部は、吹奏楽部と園芸部しかなかった。
私は、吹奏楽部に入ることにした。
部活動の中でも、私はパート練習が好きだった。
当時、トランペットパートになった私は、1対1で指導してくれる先輩の存在が嬉しかった。
一緒に演奏ができるパートの仲間として、対等に扱われている感じがした。
しかし、大会やコンクールが近付くと、
コンクールメンバーとして出場する先輩達は合奏が多くなり、
私は1人で個人練習をすることが増えた。
そんな時、音楽室とは別の教室から合奏をしている音が聴こえた。
そっと様子を見てみると、私を除く同級生の部員が集まって合奏をしていた。
・・・ああ、ここでもか。
自分の居場所が見つかったような気がしていた私は、
少しでも期待を抱いてしまった自分に絶望した。
私は個人練習に戻り、再び1人で練習を再開した。
全体の合奏で注意されることのないように、
他のパートに自分が勝っていることを証明するかのように、ひたすら基礎練習をした。
―――――結局のところ、総じて、小学生の頃と変わらず、私は自分の居場所を求めていた。
1人を選んだつもりだった。
でもそれは、1人を選ばざるを得ない状況だっただけなのだ。
友達が欲しいと、心からそう思った。
中学生になってから、男子に身長が低いことでからかわれた。
――――身長が低いのは、小さい時の治療の影響で成長ホルモンが出ていないだけなのに。
体育の成績は、いつも決まって悪かった。
――――足が遅くて運動神経が悪いのは、小さい時の入院の影響で、
他の人より運動する機会が少なかっただけなのに。
小さい頃のアルバムを引っ張り出してみると、
幼い頃の自分がかけっこで1位になっている写真があった。
・・・病気にさえなっていなければ。
いつしか、そう思うようになり、私は自分のことが嫌いになった。
傷つきたくなくて、心の中に大きな城壁を積み上げた。
心の中の大きな城壁の中に、大きな城を作った。
――――――私だけの、国。私だけの、城。
そうして私は、それが傷つかないように、防衛線を張り巡らせた。
私は、心の奥に引きこもった。
私は、独りで孤独に生きようと、そう思った。
他人に嫌われないように、人に触れることをためらった。
他人に嫌われてもいいように、自分の事を嫌いになった。
嫌いな自分を、誰かが嫌いになっても、私は私が嫌いだから仕方がないと、そう考えた。
心の中の、大きな城壁の中の、大きな城の中に。独りで。―――――
私は、「独りぼっち」のこの環境を、この生活を変えたくて、
少しでも地元から離れたいと思うようになり、
せめて、地元を離れた高校を受験したいと思った。
しかし、両親はそれに反対した。
私は志望校について調べ、精一杯努力するつもりだったのに対し、
両親は地元の高校に通うことを推してきたのだった。
そうして親と意見が食い違ううちに私は、どうでもいいような気持ちになり、
進路について考えることを放棄した。
親とも意見が食い違い、学校でも上手くいかない。
まして、地元の高校に行くくらいなら、死んでしまった方がいいのではないかと考えた。
―――――どうして3歳のあの時、私は死ななかったのか。
こんなに辛い思いをするくらいなら私は死んだ方が楽になれる。本気でそう考えた。
この世界の中で、私一人いなくなっても誰も気が付かないような、そんな気がした。
私は、高校の一般受験の1ヶ月前のある日に、
どこそこでどういう方法で、誰にも見つからないように死のうと心に決めた。
その日まで頑張れば。
その日まで耐えることができれば。
私は、楽になれる。
本気で、そう思った。
その時私は1人、死ぬために日々を過ごしていた。
受験も迫ったある日のことだった。
学校説明会と称して色々な高校の先生が学校を紹介するという会があった。
私はそこで、『高専』の存在を知ることになる。
自分の好きなことが授業で学べる。
専門分野に分かれて授業することができる。
そして何より、私の地元から離れた所にある。
私は高専に行きたいと思った。
幸いにも1年生の時の成績が良かったので、学校から推薦状を出してもらえることになった。
・・・とは言っても、
ギリギリだったので、希望学科に受かる確率を考えた先生は、
「学科を優先するか学校を優先するか」という質問を私に投げかけた。
私は何よりも学校を優先することを望んだ。
そうして、小論文と面接を済ませた私は、その年の1月に高専に合格することができた。
新しい環境に向かって、期待が高まった。
これが、自分で勝ち取った最後の可能性だと、そう信じて卒業式まで、私は耐えることができたのだ。
今までとは違う環境になるんだと、もうヘマはしないと、私は心に誓った。
本当の自分を偽ってでも、楽しいと思える学校生活を送ることができればそれでいいと思った。
そして、新しい生活が始まった。
高専に入ってからは、いつでもどこでも自分に言い聞かせていた。
―――絶対に、ミスはしない。
そして私は寮でも学校でも友人と充実した生活をおくっていた。
推薦をギリギリで出してもらっていたため、勉強面での苦労が多かったように思う。
しかし、私は友人と一緒に過ごせることの方が大切だった。
今までの人生の中で失った『楽しい時間』を取り戻すかのように、勉強も遊びも、部活も楽しかった。
そして、3年が過ぎた頃。
私は部活の先輩に呼び出された。
「副部長と、来年の部長、お願いできるかな?」
私はその言葉に「ありがとうございます。」と返答し、吹奏楽部の副部長になった。
1年の中での副部長の大きな役割は、2つあった。
・学園祭の模擬店を切り盛りすること。
・定期演奏会で司会、挨拶をすること。
1年の中でも、先にやってくる模擬店営業は、昨年度の売上が大きく、
それ以上に利益を出すのは難しいかもしれないと感じた。
でも、会計係と相談してアレンジを加え、前年の売上のおよそ3倍の売上を出した。
定期演奏会では、副部長の挨拶も同級生と二人で掛け合いトークをして、成功させることができた。
しかし、部活動も楽しいことばかりではなかった。
同じパートの女子先輩と男子同級生の仲が良く、気付けばパート練習の中で孤立していた。
それは、他のパートの先輩から見ても異常なほどの仲の良さだったと、あとになってから聞いた。
私は、そうしてパート練習をサボるようになった。
今思えば、それもこの後起こる事象の、身体が発するSOSの前兆だったのかもしれない。
パートの練習に休みがちになると、
当然のことながら同じパートの女子先輩と男子同級生は私に対して2人で文句を言うようになった。
翌年、女子先輩が卒業し、男子の同級生が残ったが、彼もまた私に対してつっかかるようになった。
その当時は学年はあがり、部長としてホール練習の準備や年間のスケジュールを組むなど、
吹奏楽部の運営をほぼ一手に担っていたが、専門科目の実験などで部活に集中できる時間も減っていた。
そして県大会を間近に控えた頃。決定的な事件が起きたのだ。
同じパートの男子同級生が私に手を上げた。
「お前、ぶっ殺すぞ。」
その一言と握りしめた拳で私を一発殴った。
そこで私は全てが吹っ切れた。
―――――私の居場所は、ここではない。
―――こんな部活、やめてやる。
しばらくした後、何を言われたのか彼は土下座して謝った。
「気が済まなかったらここで殴っても構わない。」
「ごめんけど、私にそんな趣味ないから。」
県大会には、退部の時の決意を楽譜の裏に挟み、全力で最後の舞台に臨んだ。
そして、県大会を終えた次の日、集会を開き、退部届を突き付けて部活をやめた。
良い事ばかりではなかったが、それでも日常生活は楽しかった。
高専に入って4年目。部活動をやめる前から左足の付け根が痛かった。
足を組むのが癖だった私は、足をひねったか何かで痛いのだと感じていた。
しばらく足を組むのを控えたが、特段、日常生活を送るのに支障はなかった。
そしてその年の11月、足が痛くて正座ができなくなった。
その頃には痛い足をかばうようにびっこを引いて歩いていた。
12月になり、近畿方面の企業説明会へ行った際、祖母の家に泊まった。
その時、祖母が私に言った。
「正座ができないほど足が痛いのはおかしいよ。お母さんに病院連れて行ってもらい。」
足が痛くなり始めてから、連絡するごとに母に足の痛みを伝えてはいたが、
年末で帰省した時、私は改めて、母に病院に連れて行ってほしいと頼みこんだ。
そして年末の最後の外来の日。12月26日に私は病院の整形外科を受診した。