その九
(九)
秋晴れの気持ちいい日になるはずだったのに、どうしてこんなことに……。
九月も半ばを過ぎた大安の日曜日、台風が直撃しようとしているのである。
しかし、今さらキャンセルするわけにも行かないしね。
ウエディングドレスに身を包んだ俊子は、その場にはふさわしくないため息をついた。
豪華な結婚式場――ではなく、手頃なホテルの宴会場で、日延べになっていた披露宴がやっと始まっていた。
前置きの長い来賓の挨拶がやっと終わり、お色直しと共に盛大な宴が始まるのである。
会場の扉が開く瞬間を、俊子は複雑な思いで待っていた。
この雨の中を、全員が出席してくれた。それだけでもありがたかったが、台風の上陸はこの披露宴が終わるころかもしれない。
私、恨まれるんじゃないのかな、とも思った。でもおめでたいことなんだから、ま、いいか……。
式場の中に、賑やかな音楽が流れ始めた。新郎新婦の入場である。
開いたドアの向こうから、純白に輝く新婦にスポットライトが浴びせられた。
――招待客の新婦の友人席で、小さく囁かれている会話があった。
「あの新郎の包帯、どうしたの?」
「それがさあ、婚前旅行に行ったとき、火事に巻き込まれたんだって」
「火事に? そんな話、聞いてなかったけど」
新婦の後ろを歩いて来る新郎の頭に、派手ではないが、さりげなく包帯が巻かれている。よく見ると、袖の中から手のひらまで包帯が巻かれているようだ。
「でも旅行って、四ヶ月くらい前のことでしょ?」
「そんなんだけど、なかなか治らないんだって。打撲とやけどだけなんだけど、怪我をしたときと全く変わらないらしいのよね」
「ふーん、不思議なこともあるのね」
新郎新婦がその席の横を歩いて来て、会話が中断する。友人たちが振り向いて、祝福の拍手を送っていた。
「でも、ちょっとおかしいのよね」
「何が?」
「私、新聞で見たんだけど、火事といっても、現在は使われていない古い建物だけが焼けただけだって書いてあったの。それなのに俊子ったら……」
その友人に、俊子はすべてを話していた。
旅館の中で迷子になったこと。厨房で板前が焼け死んだり、客室から出て来た老婆が弾かれるようにして潰れ死んだこと。そして資料館での、あの出来事。その後、客室棟はほとんど焼けてしまったというのだ。
しかし新聞では、資料館だけがぼやで焼けた、という記事だった。
厨房の板前も、客室の老婆も、周りの情報では単なる事故だったという。偶然のことではあるが、資料館の火事とは何の関係もないという世間の見方があったのである。
そして友人は、仲居である春美が、人形と共にゲーム機の上で焼け死んだことも聞かされていた。
ところが記事によると、火事による犠牲者は一人も出ていないと報じていたのである。
俊子はそのことだけを、しきりに話していた。なぜなら、資料館の焼け跡からは、犠牲者となるような焼死体は何一つ発見されなかったからである。
「それじゃ、旦那はどうして?」
「酒よ、酒。――酔っ払ってさあ、旅館の仲居さんにちょっかいを出していたらしいわ。そこで火事にあって、気を失ってたらしいのよね」
新郎新婦が高砂の前で頭を下げて、会場は拍手の渦に包まれた。
「それじゃ、俊子、騙されてるの?」
「どうでしょうね……。似たもの夫婦、ってとこかな」
新婦の友人席に、静かな笑いが起こった。
さあ、宴の始まり、というところで、照明がグッと落とされる。
セレモニーのスタートは、夫婦として初めての共同作業となるケーキカットであろう。
俊子と江島が係員に促されて、高くそびえるケーキの前へと移動した。
このケーキ、こんなに大きかったっけ。経費節減のため、小さなものにしたはずだったのに……。
そう思いながら、俊子は会場を見回した。
と、親族席に信二の姿が見えない。トイレにでも行っているのだろうか。
俊子は近くにいたホテルのマネージャーを小さく手招きする。そして、
「うちの子供、見ませんでした?」
と、訊いた。
「ああ、心配いりません」
マネージャーは営業用であろう、満面の笑みで言った。「裏の倉庫で遊んでいらっしゃいます」
「倉庫って、立ち入り禁止なんでしょ?」
「ええ、そうなんですが、本当に楽しそうに遊んでいらっしゃったんでね。私どもとしては一向に構いません」
「そうですか……」
と、俊子は力なく言った。「それで、何をして遊んでいるんですの?」
「実は、古くなったゲーム機が置いてありましてね、もう使えなくなったと思っていたんですが、子供というのは不思議ですよね。器用に動かして遊んでいますよ」
「ゲーム……」
俊子の顔がこわばった。
「それに、最近このホテルに入社したばかりの女の子がついていますから、安心してください」
ウェディングケーキが輝いた。いや、もちろんスポットライトが照らされたのである。
司会者の明るい声が響いた。
「新郎新婦による、ケーキ入刀です。カメラをお持ちの方、どうぞお集まり下さい」
ムードを盛り上げるようなBGMの中、友人たちがケーキの周りに集まる。
芸能人の記者会見並みに寄って来たカメラのレンズが、鋭く尖ったナイフを手に持っている新郎新婦を見つめている。
BGMのボリュームが最大に上げられた。
「ケーキ、入刀!」
俊子と江島が、二人の力でナイフを持ち上げる。そして豪華に飾られたウェディングケーキのその場所に、一気に突き立てられた。
カメラのフラッシュが瞬く。
その感触を両手に感じながら、俊子はナイフを握っていた。
モニター画面が真っ赤に輝き始めた。
裏の倉庫でゲームに熱中していた信二は、次のステージに移れる場面とあって、はやる気持ちを抑えられないでいた。
「さあ、今度こそ一気に殺してやる!」
そう言いながら、何年も使われていなかったと思われるゲーム機に、信二は熱中していた。
「だめよ、一気にやったら。悪い奴は、じわじわ殺してやらないと」
信二の横で、女が言った。
「そんなこと言うから、いつもやり損なっちゃうんだよ。あの時だって、お姉ちゃんが邪魔したんじゃないか」
「だって信二君、自分で殺そうとしたからでしょ。人形に任せるから、って言ってたじゃない」
「最後は僕の仕事だよ。あれはゲームじゃなくて、お父さんの仇なんだから。それにあの人形だってかわいそうだよ。そろそろ休ませてあげないと」
「大丈夫よ。いくら乱雑に扱われたって、何百年も生き続けているタフな奴なんだから」
と言って、女は得意げに笑った。
ゲーム機のモニター画面が明滅し始めた。次のステージに移行する合図らしい。
「ねえ、今度はお姉ちゃんにもやらせてよ」
「うん、いいよ」
「私だってあいつをやっつけたいんだから」
信二に代わって、女がゲーム機のレバーを握る。――もちろん女とは、資料館で焼け死んだはずの春美である。和服姿でいるのは、このホテルに雇われて、披露宴のコンパニオンとして来ていたからであった。
モニター画面が明るく輝いた。
「思い切って、一気にやっちゃうか!」
春美が笑顔で言った。
信二と春美が手を握り合った。そしてその二つの手が、赤いボタンに乗せられようとしていた。
カメラのフラッシュが一斉に瞬いた。
予想外にその数が多かったため、ナイフがケーキに突き刺さった瞬間の映像は、俊子も江島も、目が眩んではっきり見えていなかった。
――歓声が、どよめきに変わった。
何が起こったのか、誰にも分からない。これもセレモニーの中の演出なのか、としか思えなかったのである。
ナイフが突き刺さったウェディングケーキから、赤黒い液体が飛び散る。そして、返り血を浴びたように、純白のドレスが真っ赤に染まっていた。もちろん俊子の顔も、江島の頬からも、その液体は筋を引いて流れている。
「何、これ?」
俊子の笑顔が凍りついた。
「お前こそどうしたんだよ」
江島は状況を把握できないらしく、カメラ目線を気にしながらニタニタ笑っていた。
ギシッ、と音がして、二人の手に力が入る。何の音か分からないが、金属が触れ合う鈍い音だ。
そして、砂状のものが、二人の頭上から降って来た。
俊子と江島が、上を見上げた。そこにある豪華なシャンデリアが、小さく揺れている。
笑い声が聞こえた。どこから聞こえたのかは分からないが、あざ笑うかのような不気味なものである。
俊子の表情が凍りついた。ナイフを抜こうとしたとき、余計な力が入ったのかもしれない。
ケーキのバランスが崩れ、半分が砕け落ちた。その中から、黒く焼け爛れた人形の顔が出て来たのである。
髪はちぢれ、白いはずの顔もすすくれている。そして、焼け落ちたはずの細い腕が、突然生クリームの中から突き出てきた。
人形が笑った。新しい戦いの場を見つけたかのような、歓喜に満ちる雄たけびにも似た形相である。
披露宴会場に、俊子の叫び声が響いた。
何かが軋むような音が聞こえる。それが天井から吊るされた大きなシャンデリアが揺れている音だとは、誰も気づいていない。
そしてその中に、子供の笑い声が混在していたのは気のせいだろうか……。
俊子と江島が、真上の天井を見上げる。
鈍い音と共に、シャンデリアが天井からはがれる瞬間を、同時に見ていた。
そして二人は、天を仰ぐように両手を広げた。
――信二と春美が、赤いボタンを押した。
そして信二は呟いたのだった。
「お父さん、ゲーム、終わったよ。もうリセットはしないからね……」
完




