番外編① 闘神と人間の妻 〜三年目の春〜
闘神と妻が結婚して、もうすぐ三年を迎えようとしていた。
神と人間。
本来なら並び立つことさえ稀な二つの存在が、同じ城で、同じ時間を重ねて三年になる。
それは短いようでいて、決して短くはない年月だった。
最初の頃を思えば、なおさらだった。
命令から始まった婚姻。
記憶を失った人間の女。
神の城に閉じ込められ、侍女のように仕えながら“妻”であることを求められた日々。
穏やかな始まりではなかった。
やさしい関係でもなかった。
それでも時間は流れる。
人は、そして神でさえ、同じ場所で同じ相手と日々を重ねれば、少しずつ変わっていく。
その日の城も、戦のあとらしい静けさに包まれていた。
神々との衝突が完全になくなることはない。
闘神の領地は豊かで広く、それゆえ常に狙われ続けている。
だが激しい戦の直後ほど、城には奇妙な静寂が訪れる。
血の匂いが洗い流され、兵たちは持ち場へ戻り、侍女たちは壊れたものを整え、城全体がようやく深く息をつく。
その静けさの中を、闘神はゆっくりと歩いていた。
城の廊下を、闘神はゆっくりと歩いていた。
戦の後の城は、どこか静かだった。
石造りの長い廊下。
高い天井。
足音だけがわずかに反響する。
廊下の窓からは夕陽が差し込み、赤い光が石の床を染めている。
闘神の黒い衣や鎧の縁にも、その赤が薄く映っていた。
その時、背後から騎士の声がかかった。
「闘神様」
振り返ると、長年仕えている配下の騎士だった。
若い騎士ではない。
闘神がまだ今ほど広大な領地を持つ前から剣を捧げてきた、古参の部下だ。
闘神の性格も、機嫌も、沈黙の意味さえある程度知っている数少ない者の一人だった。
騎士は恭しく頭を下げたあと、少しだけ顔を上げて言った。
「もうすぐ、奥方様とご結婚されて三年になりますね」
闘神は短く頷く。
「……ああ」
それだけの返事だった。
だが彼自身、その事実を忘れていたわけではない。
三年。
数字にすればそれだけだ。
だが、神にとっても、人間にとっても、その三年のあいだに変わったものは少なくなかった。
騎士は少し嬉しそうに言った。
「城で小さな宴でも開いてはいかがでしょう。
兵たちもきっと喜びます」
その提案は、いかにもこの騎士らしいものだった。
派手な祝宴ではなく“小さな宴”。
兵たちも、侍女たちも、城で働く者たちも、きっとそれを喜ぶだろうと考えての言葉だ。
闘神と人間の妻の婚姻は、当初こそ異様なものとして城全体に受け止められていた。
だが今では、この城でそれが日常になっている。
だからこそ節目に何かあってもよい、と騎士は思ったのだろう。
闘神は少し考える。
だが、すぐに答えた。
「必要ない」
声はいつも通り、短く冷静だった。
騎士は少し驚いた顔をしたが、すぐに頭を下げた。
「……失礼しました」
それ以上食い下がることはしない。
闘神の“必要ない”が、たいてい覆らぬ言葉であることをよく知っているからだ。
闘神はそれ以上何も言わず、城の奥へ歩き出した。
だが、その足取りの奥で、わずかに思うところがなかったわけではなかった。
本当に必要ないのか。
そう問われれば、少しだけ曖昧だった。
大げさな宴など望まない。
見せるための祝いも、闘神の性には合わない。
だが“何もしなくていい”のかといえば、それもまた違う気がした。
その違和感を、彼はまだ言葉にできない。
⸻
やがて、私室の扉の前に立つ。
戦場から戻れば最後にたどり着く場所。
神々の領地の主としてではなく、一人の男として最も長く留まる部屋。
闘神は扉を開けた。
部屋の中には、柔らかな灯りが灯っていた。
戦のあとの闘神の私室は、昔よりずっと静かになった。
必要以上に豪奢でもなく、無駄な侍女が出入りすることも少ない。
灯りは温かく、窓辺には夕暮れの名残が薄く差している。
窓のそばに、一人の女性が立っている。
闘神の妻だった。
彼女は窓の外を見ていたらしい。
春の終わりを含んだ風がわずかにカーテンを揺らし、黒髪が肩のあたりで静かに揺れる。
妻は振り返り、闘神を見ると、穏やかに微笑んだ。
「お帰りなさいませ」
闘神は短く答える。
「……ああ」
その一言も、最初の頃に比べれば十分にやわらかい返事だった。
妻はゆっくりと近づく。
その姿を見て、闘神の視線が少し止まった。
妻の服装は、質素なワンピースだった。
飾り気のない、やわらかな生地。
城の侍女たちが着る服より少し上質ではあるが、それでも城主の妻が着るものとしては驚くほど簡素だった。
宝石も、装飾も、何一つ身につけていない。
首元も、耳元も、手首も、何も飾られていない。
この城の主の妻とは思えないほど、簡素な姿だった。
闘神は思う。
――そういえば。
妻が何かを欲しがったことは、一度もなかった。
ドレスも。
宝石も。
香油も。
豪奢な調度も。
何も。
それは慎み深いという言葉だけでは足りないほど徹底していた。
欲しがらないのではなく、最初から望むという発想を持たぬように生きているようですらあった。
闘神は内心で小さく息を吐く。
――俺に言える雰囲気ではないな。
自分の性格を思えば、当然かもしれない。
闘神は戦場では神々すら斬る存在だ。
感情を表に出さず、欲しいものを聞くような男でもない。
むしろ命じる側であり、与えるか奪うかを決める側だった。
そんな相手に、
「これが欲しい」
などと言える者はいない。
まして妻は、人間だ。
しかもこの婚姻は、自由な恋から始まったものではない。
欲しいものを言わぬのは、彼女が慎ましいからだけではなく、闘神がそうさせてきたからでもあるのだろうと、彼はどこかで分かっていた。
闘神は少しだけ言葉を探す。
そして言った。
「……足りないものはないか」
妻が少し首を傾げる。
「足りないもの、ですか?」
その問い返しには、戸惑いと、ほんの少しの驚きが混じっていた。
闘神の方からそんなことを訊かれるとは、思っていなかったのだろう。
闘神は続けた。
「ドレスでもいい」
少し間を置く。
「アクセサリーでもいい」
その言い方は、どこか不器用だった。
妻は一瞬、驚いた顔をした。
だが、すぐに穏やかに微笑む。
「特にありません」
闘神は少しだけ眉を動かす。
「欲しいものもないのか」
妻はゆっくり頷いた。
「はい」
迷いのない答えだった。
それは遠慮しているようにも見えない。
本当に、今の彼女には思い当たるものがないのだろう。
闘神は、少し困った。
戦いならいくらでもできる。
敵がいれば斬ればいい。
領地を守るために何をすべきかなら、迷うことはない。
だが今は、どうすればいいのかわからない。
――何か、贈りたい。
ふと、そんな思いが胸に浮かんだ。
それは義務ではない。
城主としての体裁でもない。
ただ純粋に、そうしたいと思ったのだ。
そして気づく。
妻に、喜んでもらいたい。
闘神は今まで、そんなことを考えたことがなかった。
戦いに生きてきた神だった。
誰かの喜ぶ顔を見るために何かを与えるなど、彼の生の中にはほとんど存在しなかった。
だが今は違う。
目の前のこの女が、いつものように穏やかに立っているだけで、何かをしてやりたいと思う。
それが自分にとってどういう変化なのか、闘神自身まだ完全には理解していなかった。
闘神は、困ったように少し黙る。
その様子を、妻は静かに見ていた。
そして、くすっと小さく笑う。
それはからかう笑いではない。
不器用に言葉を探す闘神が、少しだけ愛おしく見えたような笑いだった。
妻はゆっくり闘神に近づいた。
そして、闘神の手を取る。
闘神の手は大きく、固かった。
長い戦いの中でできた傷が、いくつも残っている。
神であっても消えぬ傷痕。
剣を握り続け、神々を斬り続けてきた手。
妻はその手を優しく包む。
その仕草には、いつも不思議な静けさがある。
恐れからではなく、慣れからでもなく、ちゃんと自分の意思で触れている温かさ。
「……一つ、欲しいものがあります」
闘神は妻を見る。
「何だ」
短く返す。
だが、今度の声にはさっきまでとは少し違う真剣さがあった。
妻は少しだけ照れたように笑う。
「闘神様の」
ほんの少し間を置いて、言った。
「笑っているお姿を見てみたいです」
その言葉に、闘神は思わず目を見開いた。
今まで、そんなことを言われたことはなかった。
宝石でもなければ、豪奢な衣装でもない。
自由を望むでもなく、城を出たいと言うでもない。
ただ、自分の笑顔を見たいと。
妻は、変わらず優しく微笑んでいる。
闘神はその顔を見つめる。
この女性は何も望まない。
宝石も。
ドレスも。
自由も。
ただ、自分の笑顔を望んでいる。
その願いがあまりにも小さく、あまりにも真っ直ぐで、かえって胸に深く入ってくる。
闘神は、少し戸惑う。
笑えと言われて笑うものではない。
戦場では決して見せない表情だ。
そもそも、自分が笑う姿など、長いあいだ自分でもほとんど意識したことがなかった。
だが――
ふっと。
自然に口元が緩んだ。
それは意識して作ったものではなかった。
目の前の妻があまりにも穏やかで、あまりにもまっすぐにその願いを口にしたから。
ほんのわずかな微笑みだった。
戦場では決して見せない表情。
神々の前でも、配下の前でも見せぬ顔。
だが確かに、笑っていた。
妻の目がぱっと明るくなる。
その変化は本当に子どものように素直だった。
飾りをもらった時より、豪奢な衣装を与えられた時より、もっと嬉しそうな顔だった。
「……嬉しいです」
本当に嬉しそうに、妻はそう言った。
闘神は少しだけ視線を逸らす。
「……そうか」
ぶっきらぼうな言葉だった。
だが、その声はどこか柔らかかった。
妻は闘神の手を握ったまま、もう一度微笑む。
その微笑みを見ていると、闘神は胸の奥に奇妙な静けさが広がるのを感じた。
神々を斬って勝った時とも違う。
領地が広がった時とも違う。
何かを手に入れたという感覚ではなく、ようやく自分の中に何かが芽生えたことを知る静けさだった。
部屋の外では、春の風が静かに吹いていた。
まだ冷たさを少し残しながらも、確かに季節が動いていると分かる風。
城の石壁に当たり、窓辺の薄布をわずかに揺らし、花園の方からかすかな花の匂いを運んでくる。
それは、二人が共に過ごす三年目の春だった。
始まりは、決して優しいものではなかった。
けれど三年目の春には、こうして同じ部屋で、同じ風を感じながら、ひとつの笑顔を願われるところまで来ていた。
それは小さな変化だった。
けれど、神と人間のあいだに芽生えたその小ささこそ、何より尊いものだった。




