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花園に眠る神

神の光が空へ溶けていったあと、

花園には静かな風だけが残っていた。


ほんの少し前まで、そこは神々の怒りと絶望がぶつかり合う戦場だった。

空は裂け、雷が落ち、炎がうねり、大地は何度も砕けた。

花々は焼かれ、踏みにじられ、神の血に濡れ、時の流れさえ狂わされた。


それなのに今は、不思議なほど静かだった。


風が吹いている。

壊れた花壇の間を抜け、裂けた石畳の上を撫で、焼け残った花弁を小さく揺らしていく。

さっきまで戦場だったとは思えないほど、静かだった。


その静けさは安らぎというより、あまりに大きなものが去ったあとの空白に近かった。

神々の怒号も、闘神の剣の音も、時の神の歪んだ力も、もうそこにはない。

あるのは、すべてが終わったあとの、耳が痛くなるような静寂だけだった。


ホープは、その場に立ったまま動かなかった。


剣を握ったまま。


その手にはまだ、ほんの少し前まで感じていた重みの残響があった。

闘神の剣。

父の剣。

そして自分が母を止めるために振るった剣。


けれど今、その刃はもう何も語らない。

神の血を流し、世界の運命を変えた剣であるはずなのに、ただ冷たく、静かに、ホープの手の中にあるだけだった。


目は空を見ている。


そこにはもう――

父も、母もいない。


つい先ほどまで、確かにそこにいた。

母は最後に微笑んだ。

父は言葉なく笑った。

二つの魂は寄り添うように光へ変わり、空へ溶けていった。


その空は、いまはただ青くも赤くもない、戦の終わりの淡い色をしていた。


そのとき。


遠くから足音が聞こえた。


石と土を蹴る音。

息を切らせ、まっすぐここへ向かってくる足音だった。


「ホープ!!」


ルークだった。


訓練場から全速力で走ってきたのだろう。

髪も服も乱れ、肩で大きく息をしている。顔には汗と土がつき、さっきまで別の場所で必死に戦っていた痕跡がそのまま残っていた。


その後ろから、ガルドも駆けてくる。


「無事か!!」


いつもの大きな声だった。

だがその声には、豪快さだけではなく、はっきりとした不安が滲んでいた。


セリアも少し遅れて花園に入ってきた。


彼女は二人より息を乱してはいなかったが、その表情はいつもより明らかに硬い。弓はまだ手放していない。ここへ来るまで、何が待っているか分からなかったのだろう。


三人はそこで足を止める。


花園の惨状を見たからだ。


地面には神の痕跡。

裂けた大地。

砕けた石。

焼け焦げた花。

そして空気の中には、まだわずかに神気の名残が漂っている。


その中心に――

闘神の剣を握ったまま立つホープ。


その姿は、彼らが知っている仲間の少年と同じだった。

けれど同時に、何か決定的に変わってしまった存在にも見えた。


ルークが息を切らしながら近づく。


「おい……」


声が震えている。


訓練場でどれだけ軽口を叩いていても、今のホープへ何を言えばいいかは分からなかった。


「大丈夫か」


ホープは答えない。


ただ立っている。


その背中は妙に静かだった。

泣いているわけでもない。

怒っているわけでもない。

何もかもが一度に通り過ぎて、まだ心が現実へ戻れていないような静けさだった。


ガルドが心配そうに言う。


「ホープ……」


普段ならすぐ肩を叩いて、大丈夫だと大声で笑わせようとする彼が、今はそれすらできずにいる。


そのとき。


ホープの剣が、手から落ちた。


カラン、と音を立てる。


その音は花園の静けさの中で妙に大きく響いた。


そしてその場に、膝をついた。


「……っ」


声にならない声。


喉の奥で潰れたような息だけが漏れる。


肩が震える。


ようやく、体の方が先に限界を思い出したのかもしれなかった。

父が死んだ。

母を自分の手で止めた。

神々の戦争が終わった。

そんなものを、十三歳の少年が一度に抱えきれるはずがない。


涙があふれる。


ルークが隣にしゃがむ。


「……」


何も言わない。


ただ、隣にいる。


それが今は一番ましなことだと、本能で分かっているようだった。

言葉では埋められない。

励ましにもならない。

それでも一人にしないことだけはできる。


ガルドが拳を握る。


悔しそうに空を見る。


強い者を前にしても怖がらぬ彼が、今は何もできない自分を悔しがっているのが分かった。


セリアは静かにホープの肩に手を置いた。


その手は軽い。

だが、不思議としっかりした温もりがあった。


その温もりに触れた瞬間。


ホープの涙があふれ出した。


止まらない。


声も出ない。


ただ涙だけが、堰を切ったように落ち続ける。


その涙は――

しばらく止まらなかった。


空はもう静かで、花園の風もやさしいのに、ホープの中だけがまだ戦場のままだったのかもしれない。

失ったばかりのものが大きすぎて、悲しみの形をまだうまく掴めない。


ルークが言う。


「……お前一人じゃない」


それは慰めというより、事実を置くような言い方だった。


ガルドが言う。


「そうだ」


腕を組む。


「俺たちがいる」


その声は、少しだけいつもの調子を取り戻していた。

豪快で、まっすぐで、だからこそ嘘がない。


セリアが静かに言う。


「ずっと」


その一言だけで十分だった。


一緒に訓練してきた。

一緒に笑ってきた。

一緒に神の襲撃へ立ち向かった。

そして今も、こうしてここへ来ている。


ホープは涙を拭く。


指先で乱暴にではなく、ゆっくりと。

それでも涙は完全には止まらない。


やがて、ゆっくり立ち上がる。


空を見る。


父と母が消えた空。


そこにはもう光の残滓さえない。

だが、ただの空ではなくなっていた。

そこは、二人が最後に寄り添って去っていった場所として、ホープの中に刻まれてしまった。


静かに言った。


「……守る」


三人がホープを見る。


その声は小さい。

けれど、さっきまでの泣き崩れた少年の声ではなかった。


ホープは続ける。


「父さんが守った土地」


「母さんが愛した土地」


拳を握る。


「俺が守る」


その言葉は、誓いだった。


幼いころから抱いていた願い。

養父に教えられた「守るための剣」。

闘神が命を懸けて守ったもの。

母が花を育て、ようやく触れようとした穏やかな時間。


その全部を引き継ぐ言葉だった。


ルークが少し笑う。


「言うと思った」


いつものような軽さではない。

けれど、ホープらしい答えを聞けたことへの小さな安堵がそこにあった。


ガルドが豪快に笑う。


「なら決まりだ!」


その笑い声は、壊れた花園に少しだけ人間の温度を戻した。


ホープが言う。


「お前たちは……」


まだ言い終わらないうちに。


ルークが遮る。


「ついていく」


迷いのない声だった。


セリアも言う。


「最初からそのつもり」


彼女らしい静かな口調だったが、決意は硬い。


ガルドが笑う。


「騎士だからな!」


その言葉は、どこか誇らしげだった。


ホープは少し驚く。


そして、小さく笑った。


本当に小さな笑みだった。

けれど、それはこの日初めて、悲しみの中に生まれたやわらかなものだった。


「……ありがとう」


その日。


少年は、新しい闘神になった。


それは誰かに冠を与えられたからではない。

誰かに命じられたからでもない。

自分の意志で、守ると決めたからだった。



数年後


数年の歳月が流れた。


闘神の治める土地は、変わらなかった。


人間。

エルフ。

魔族。


種族は違っても、同じ街で暮らしている。


市場では今日も賑やかな声が響く。

人間が焼くパンの匂いが漂い、エルフの薬草売りが静かに客へ説明をし、魔族の鍛冶屋からは鉄を打つ乾いた音が聞こえる。


争いはほとんどない。


もちろん、小さないざこざはある。

価値観の違いも、癖の違いも、種族の違いも消えたわけではない。


それでも、大きな争いにはならない。


この土地には、それを押さえつけるだけではない、“守られている”という確かな感覚があったからだ。


豊かな土地。


それは今も続いている。


だが、その“今”を守っている者の名は、もうかつての闘神ではない。


ホープ。


新たな闘神。


それでも彼は、ただ力で君臨する神にはならなかった。

騎士であり続けようとする神。

守るために剣を持つ存在として、この土地の上に立っていた。


そして城の中の、小さな花園。


昔、闘神の妻が世話をしていた場所。


戦いで壊れ、血に染まり、神々の力に裂かれたその場所は、長い時間をかけて少しずつ修復された。


今は――

ホープたちが世話をしている。


ホープだけではない。

ルークが土を運び、ガルドが壊れた石を据え直し、セリアが花の配置を静かに整える。侍女たちも協力し、兵士たちも水を運ぶことがある。


それは、もう一人の奥方様のための花園であるだけでなく、この土地そのものの記憶を残す場所になっていた。


花はまた咲き始めていた。


白い花。

青い花。

小さな野花。

そして薔薇。


戦いの跡は完全には消えない。

だが、その傷の上にもう一度花が咲くことが、何よりの証だった。


その花園の奥に。

二つの墓が並んでいる。


一つは――

闘神。


もう一つは――

闘神の妻。


名前は刻まれていない。

それでも、この土地に生きる者たちは皆、誰の墓かを知っている。


ホープは墓の前に立つ。


花を供える。


その手つきは、昔、母が花に触れていた時と少し似ていると、侍女たちは時々ひそかに思う。


そして静かに言う。


「父さん」


「母さん」


空を見る。


あの日、二人が消えていった空ではない。

穏やかな昼の空。

けれどホープにとっては、今でもその向こうに二人がいるように思えた。


「この土地」


小さく笑う。


「守ってるよ」


その言葉には、誇張も気負いもなかった。

ただ報告するような、静かな声だった。


風が吹く。


花が揺れる。


その風はどこか優しかった。


まるで――

二人が見守っているように。


ホープは墓を見る。


しばらく黙ってから、小さく言った。


「二人が」


「一緒にいられますように」


それは、少年の頃の願いではなく、すでに多くを知った者の祈りだった。


長いすれ違いがあった。

悲しみも、支配も、後悔も、喪失もあった。

それでも最後に寄り添って消えていった二人だからこそ、今度こそ安らかに共にあってほしいと願わずにはいられなかった。


花園には今日も花が咲いている。


風が抜け、光が落ち、種族の違う者たちが同じ道を歩く。

かつて母が多くの人と共有したいと願ったこの場所は、今も確かに生きていた。


それは、闘神の土地の平和の証だった。


そして同時に、

守るために剣を取った一人の少年が、

父と母の想いを受け継いで立ち続けている証でもあった。

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