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闘神の想い

妻の言葉が落ちた瞬間。


部屋の空気が、完全に止まった。


もともと静かな部屋だった。

夜の更けた城の一室。壁際の燭台にともる炎が小さく揺れ、石の床と壁にゆっくり影を落としている。外から聞こえるのは、遠い見張りの足音と、風が高い窓をかすめる音だけ。


だが今は、そのわずかな物音さえ、ひどく遠く感じられた。


闘神はまだ、妻の手首を掴んでいる。


だがその手の力は、もう入っていなかった。


先ほどまでの強さは消えている。

問いただしたい焦りと苛立ちのまま掴んだはずのその手は、今やただ離すことも、きちんと包み直すこともできないまま宙ぶらりんに残されていた。



――時の神ではありません。


その言葉が、頭の中で何度も繰り返される。


静かな声だった。

泣き叫ぶわけでもなく、声を荒げるでもなく、ただはっきりと落とされた一言。


その静けさが、かえって胸の奥へ深く刺さっていた。


闘神は妻の目を見る。


静かな目だった。


怒りもない。

責めてもいない。

恨みをぶつける色さえ薄い。


ただ、理解してしまった目だった。


それが何より苦しかった。


怒鳴られた方がまだよかったかもしれない。

泣いて責められた方が、まだ受け止めようがあったかもしれない。


けれど今、妻の瞳にあるのは、辿り着いてしまった者の静かな絶望だった。


すべての意味が一本の線でつながり、もう言い逃れできないところまで来てしまった者の目だった。


闘神の胸の奥で、何かが軋む。


自分がずっと隠していたもの。

誰にも言わなかったこと。


いや――


自分自身も、はっきりとは認めていなかったこと。


それを、彼女は見抜いていた。


思い出す。


あの日。

まだ関係が今よりもずっと硬く、冷たく、互いの間に緊張しかなかった頃。彼女は自分へ向かって言ったのだ。


――私を見ていません。

――他の誰かを見ているようです。


あの時。


思わず頬を叩いた。


それは怒りではなかった。


図星だったからだ。


闘神は理解していた。


自分が最初に彼女を連れてきた理由を。


それは――


時の神。


何百年も愛した神。


その転生を見つけたから。


ただそれだけだった。


その時点では、本当にそれだけだった。


神としての長い時間の中で、何百年も探し続け、ようやく見つけた。

力も記憶もない。人間として生きていた。

それでも、間違いないと確信した。


だから記憶を消し、

城に閉じ込め、

妻にした。


彼女の意思など関係ない。


それが神のやり方だった。


欲しいものは手元へ置く。

失いたくないものは囲う。

誰にも触れさせたくないものは閉じ込める。


それを当然として生きてきた。


そこに「相手がどう思うか」という発想はなかった。

あるいは、あったとしても、重要ではないと切り捨てていた。


だが今、闘神の胸の奥が強く痛む。


今、目の前にいる彼女は、その理由を知ってしまった。


そして、自分を見ている。


その目には怒りがない。


それが、何よりも苦しい。


怒りなら、受け止められる。

恨みなら、当然だと思える。

拒絶なら、覚悟もできる。


だが、深い悲しみだけが静かにそこにある。


その悲しみは、自分が与えたものだ。

しかも、剣でつけた傷ではない。

もっと深いところに届く傷だった。


闘神は思い出す。


城へ来たばかりの頃の彼女を。


何も知らず、記憶もなく、それでもただ怯えるだけの女ではなかった。

反抗していた。

睨みつけていた。

理不尽に対して、その細い体で必死に抗っていた。


あの目を、闘神はよく覚えている。

力を持たぬ者の目でありながら、決してただ折れようとはしなかった。


それでも、だんだんと変わっていった。


丁寧な言葉を使うようになり、

給仕をし、

自分の帰りを待つようになり、

ほんの少し、小さく笑うようになった。


花園で見せた、あの儚い笑み。

戦場から戻った夜に、自分の胸へ触れた手。

「お帰りをお迎えしたかったので」と言った、あの静かな声。


それらを思い出すたび、胸の奥に別の熱が灯る。


そして、子を身籠った。


あの時、自分は願っていた。


女であれ、と。


何度も。

何度も。

まだ生まれる前から、そう願っていた。


その願いは、時の神のためではない。


彼女のためだった。


もし娘なら、この城で育てられる。

彼女が笑う姿を見られる。

子を抱く姿を見られる。

三人で、この城の中に別の時間が生まれるかもしれないと、どこかで夢見ていた。


それはもはや、時の神を取り戻すための願いではなかった。


目の前のこの女のための願いだった。


だが、それを言葉にしたことはない。


認めることもしなかった。


認めてしまえば、過去の何百年を裏切る気がしたのかもしれない。

あるいは、自分が神であることの形が崩れるのを恐れたのかもしれない。


だから黙った。


黙ったまま、すべてを押し通した。


そして――


子を奪った。


自分の手で。


その光景が、今も胸に残っている。


泣きながら赤子を抱く妻。

懇願する声。

「お願いします」と何度も言った顔。

そして、自分が腕の中からその命を取り上げた瞬間の、あの絶望した目。


闘神の胸が強く締めつけられる。


今、彼女は思っているのだ。


自分は代わり。

時の神の影。

本当の愛ではない、と。


闘神の指が、わずかに震える。


違う。


そうではない。


そうではないのに。


だが、その「違う」を自分は一度も言わなかった。


何も。


何も。


だから彼女は、そう思うしかない。


それが当然なのだ。


闘神は初めて気づく。


自分がしてきたことの重さを。


神として生きてきた。


戦い。

支配。

命令。


それが当たり前だった。


欲するものを奪い、

守ると決めたものを囲い、

逆らうものをねじ伏せる。


それで世界は動いてきた。

それで自分は勝ち続けてきた。


だが目の前にいるこの女は、神ではない。


ただの人間だ。


心がある。

傷つく。

悲しむ。

沈黙の中で、ゆっくり壊れていく。


それを、今になって理解している。


あまりにも遅く。


愛していると認めたときには、すでに深く傷つけたあとだった。

守りたいと思ったときには、すでに奪う側に立っていた。


闘神の胸の奥から、低い声が漏れる。


「……違う」


それは戦場で叫ぶ声ではない。


神が命じる声でもない。


初めて迷いを持った声だった。


低く、掠れ、どこか自分自身に驚いているような声。


妻の目が、わずかに揺れる。


けれど彼女は何も言わない。

その一言だけで、今まで積み重なってしまったすべてが覆るはずもないことを、彼女も分かっているのだろう。


闘神は続けようとして、言葉を失う。


何から言えばいいのか分からない。


最初に時の神を探していたことは事実だ。

彼女を見つけたとき、その転生だと確信したことも事実だ。

だから連れて来たことも、記憶を消したことも、否定しようのない現実だ。


その上で、今は違うとどう伝えればいい。


時の神ではない。

今ここにいる、お前を見ている。

お前自身を愛している。


そう言えばいいだけのことなのに、それがあまりにも難しい。


言葉にするには、自分が積み重ねてきた過去が重すぎた。


沈黙が落ちる。


闘神はようやく、妻の手首を掴んでいた手を完全に緩めた。

痛みを与えるためではなく、引き留めるためでもなく、ただそこに留まっているだけの手になる。


その手の温度が、今は妙に頼りなく感じられた。


妻は静かに闘神を見ている。


その目にはまだ悲しみがある。

けれど、それだけではない。


続きを待っている目でもあった。


ここでまた黙れば、きっと何もかもが決定的になる。

彼女はそう思っているし、闘神もまた、それを理解していた。


逃げられない。


今までのように沈黙で押し切ることは、もうできない。


それでも闘神は、なお苦しむように喉を動かした。


神であるくせに。

何百年も戦い続けてきたくせに。

たった一人の人間の女へ、たった一つの本心を伝えることがこんなにも難しい。


その事実が、ひどく滑稽で、そしてひどく痛かった。


「……俺は」


そこまで言って、また声が止まる。


時の神のこと。

人間の妻のこと。

愛していた過去。

今、愛している現在。


そのすべてが、あまりにも複雑に絡まりすぎている。


だが、それでも。


言わなければならないのだ。


もう遅いかもしれない。

それでも、言わなければ彼女は永遠に「代わり」としてしか自分を見られない。


そしてそれは、闘神自身にとっても耐え難いことだった。


部屋の灯りが小さく揺れる。


影が二人のあいだで揺らぎ、伸び、また縮む。


静まり返った部屋の中で、闘神は初めて、自分の想いを言葉へ変える痛みを知っていた。


戦で負う傷とは違う。

敵を斬ることで決して終わらない傷。


それでも、その傷の先にしか届かないものがあると、今はもう分かっていた。

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