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時の神と人間の女

それから数日が過ぎた。


だが、花園の散歩から少しずつ戻り始めていた妻の心は、再び静かに閉ざされていった。


城の中では、変わらぬ時間が流れている。

兵はいつものように持ち場へ立ち、侍女たちは決められた時刻に食事を運び、回廊の灯りは朝に消され夜にともる。闘神の城としての秩序は何一つ崩れず、誰の目にも、この城は相変わらず静謐で強固な神の住まいとしてそこに在り続けていた。


けれど、その奥にある一室だけは、また別の沈黙に包まれていた。


妻は再び、部屋に籠るようになった。


食事は最低限だけ口にする。

侍女が運んできたものに手をつけはする。だが以前のように「少し温め直してください」だとか「これはもう十分です」だとか、そんな短い言葉さえ、ほとんど返さなくなった。


侍女が話しかけても、答えはわずかだった。


「はい」

「結構です」

「ありがとうございます」


それだけ。


それすら、声に心がこもっていないように聞こえた。


窓の前に座っている時間が長かった。


そこから見えるのは、高い城壁と、遠い空と、季節によって色を変えるわずかな庭の影だけだ。外へ出ることは許されない。城門にも、城壁にも近づくなと言われている。だから彼女に残されているのは、窓辺からこの閉ざされた世界の外側を眺めることだけだった。


花園へも行かない。


あの日まで、少しずつ戻っていた笑顔も――

もう見えなかった。


侍女たちは戸惑っていた。


体調が悪いようには見えない。

熱があるわけでも、再び食事を受けつけないわけでもない。歩こうと思えば歩ける。夜もまったく眠れていない様子ではない。


それなのに、明らかに様子がおかしい。


何かがあったのだ。

けれどそれが何なのか、誰にも分からない。


当然、侍女たちは軽々しく問いただせない。

奥方様が口を閉ざしているなら、それ以上踏み込むことはできない。


そしてその変化は、ほどなく闘神にも伝わった。



闘神は、異変に気づくのが早かった。


それは彼がよく人を見ているからではない。

むしろ逆で、普段は必要以上に他者の心へ目を向けない。

だが一度、自分にとって重要だと認識したものの変化には、驚くほど敏かった。


最近、妻が自分の部屋へ来ない。

給仕の時間でも、必要最低限の動きしかしない。

侍女を通じて運ばれるものはあるが、自分から姿を見せようとしない。


最初は、疲れているのだと思った。

子を失ってからの回復には波があるのだろうと。

それなら無理に呼ばず、休ませた方がいいと考えた。


だが数日たっても、その気配は変わらなかった。


花園へ連れ出したあの日、たしかに彼女は微笑んだ。

それはほんのわずかなものだったが、闘神にとってはたしかな兆しだった。失ったものは戻らなくとも、それでも彼女が前を向こうとしているのだと、そう思った。


それが、また閉じている。


理由が分からない。


侍女たちは何も知らないと言う。

体調も悪くないと言う。

ならば、何があったのか。


闘神の胸の奥が、静かにざわついた。


戦場であれば、原因は明快だ。

敵がいる。

妨げるものがある。

それを斬ればいい。


だが今のこのざわめきには、剣の届く相手がいない。

目の前にいるはずの女の心が、急に遠くへ引いてしまったような感覚だけがある。


そしてその夜。


闘神は妻の部屋の扉を開けた。



部屋は暗かった。


灯りは一つだけ。


壁際の燭台にともされた炎が、ゆらゆらと石壁へ影を映している。

部屋全体を明るくするには足りない。むしろ、その小さな灯りがあることで、他の場所の暗さがいっそう際立って見えた。


妻はベッドに座っていた。


寝具に深く埋もれているわけではない。

背をもたせかけ、窓の方を向いて静かに座っている。


窓の外は夜だった。

赤みを帯びた闇が広がり、その向こうに城壁の影がある。


闘神が入ってきても、彼女は振り向かなかった。


気づいていないわけではない。

扉の開く音も、足音も、この部屋で聞き間違えることはない。


それでも振り向かない。


闘神はしばらく立っていた。


彼女の背を見ながら、どう口を開くべきか考えていた。

それだけで、彼には珍しいほど長い沈黙になった。


やがて、低く言う。


「……何があった」


妻は答えない。


返事どころか、肩さえ動かない。

まるで、風の通らぬ場所に置かれた人形のように静かだった。


闘神はもう一度言う。


「体調ではない」


それは確認でもあった。

侍女たちからの報告を信じていないわけではない。

だが、自分の目で見て、自分の耳で聞かねば気が済まなかった。


沈黙。


「何があった」


ようやく、妻がゆっくりと言った。


「……何もありません」


その声は静かだった。


だが、明らかに何かを隠している声だった。

平らに整えられているからこそ、逆に不自然だった。


闘神の眉が、わずかに動く。


「嘘だ」


短く、断じるように言う。


妻は黙る。


否定もしない。

認めもしない。

ただ、窓の外を見たまま動かない。


闘神は一歩近づいた。


「こちらを見ろ」


命令だった。


だがその声には、苛立ちだけではないものが混じっていた。

焦り。

このまま何も分からぬまま閉ざされることへの、説明しづらい不安。


それでも妻は動かない。


視線は窓の外。


夜の闇の、そのもっと向こうを見ているようだった。


闘神の声が少し低くなる。


「こちらを見ろ」


それでも妻は動かない。


その瞬間、闘神の胸の奥に苛立ちが生まれた。


戦場では、すぐに答えが出る。

敵か、味方か。

進むか、斬るか。

守るか、壊すか。


だが今は何も分からない。


目の前にいるのに、届かない。

言葉が届かない。

視線すら向けられない。


そのどうしようもなさが、彼をいっそう苛立たせた。


闘神は妻の前に立った。


そして――


妻の手首を掴んだ。


「……っ」


妻の体がわずかに揺れる。


驚きと、痛みに近い圧があったのだろう。

闘神は強く掴んでいた。


必要以上に力を込めている自覚は、掴んだ瞬間にあった。

けれど、その手をすぐに緩めることもできなかった。


「何があった」


低い声。


「言え」


妻はゆっくりと顔を上げた。


はじめて闘神を見る。


その目は――


とても静かだった。


怒りもない。

涙もない。

ただ、どこか遠いところを見ているような目。


闘神を映してはいる。

けれど、その奥にあるのは熱ではなく、もう一歩引いた冷たい理解だった。


その目を見た瞬間、闘神は嫌な予感を覚えた。


そして妻は言った。


小さく。

けれど、はっきりと。


「……私は」


闘神の手の中で、ゆっくりと言う。


「あなたが愛している」


そこで一瞬、言葉が止まる。


まるでその続きを口にするだけで、何か決定的なものが崩れると分かっているかのようだった。


それでも彼女は続けた。


「時の神ではありません」


闘神の手が、わずかに止まった。


それは本当に一瞬だった。

だが妻には十分だった。

図星を刺したと分かるほどに。


妻は続ける。


「知りました」


静かな声。


「あなたが愛していた神」


「その生まれ変わりが私だということ」


闘神の瞳が揺れる。


激しくではない。

だが確かに。


その揺れを見て、妻の胸はさらに冷えていった。

否定しない。

すぐに違うと言わない。

それだけで、何もかもを認められたような気がした。


妻は目を逸らさない。


逃げることはしなかった。

いや、もう逃げられなかった。


ここまで知ってしまった以上、自分の口で最後まで言ってしまわなければ、自分自身が壊れてしまいそうだった。


「だから」


小さく息を吐く。


「私を妻にしたのですね」


その声音は静かだ。


責めるようでもなく、泣き叫ぶようでもなく。

それがかえって刃のようだった。


闘神は何も言えない。


妻の声はそのまま続く。


「あなたが見ているのは」


彼女は言う。


「私ではありません」


胸の奥が締めつけられる。


それは闘神の胸か、妻の胸か、もはや分からないほど重い痛みだった。


「……時の神です」


その名を、彼女は初めて自分の口で言った。

知らぬはずの神。

会ったこともないはずの存在。

なのに今は、その名が自分と切り離せぬもののように、冷たく胸に刺さっている。


そして小さく言った。


「私は」


一瞬だけ目を伏せる。


そのまつ毛の影が頬へ落ちる。


「その代わりです」


部屋の空気が止まる。


闘神の手はまだ、妻の手首を掴んでいる。


けれど今度は――


闘神の方が、言葉を失っていた。


代わり。


その言葉はあまりにも鋭かった。

しかも、完全な嘘ではない。


闘神は確かに時の神を探していた。

確かに、その転生として今の妻を見つけた。

最初に彼女を城へ連れてきた理由も、妻にした理由も、その事実を抜きには語れない。


だからこそ、否定しきれない。


けれど同時に、今のこの言葉は決定的に違ってもいた。


今、自分が見ているのは、ただの代わりではない。

もう、とっくにそうではなくなっている。


花園で微笑んだ女。

子を奪われて涙を流した女。

静かに自分の帰りを待つようになった女。

それは、時の神の影ではない。


今ここにいる、一人の人間の女だ。


だが、そのことをどう言葉にすればいいのか分からない。


それが、闘神にとって致命的だった。


戦場でなら一瞬で答えを出せる。

だがこの場では、あまりにも遅い。


妻は静かに闘神を見ていた。


その目には、怒りよりも深い諦めがあった。

すべてが一本の線で繋がってしまったあとに訪れる、静かな絶望だった。


花園へ連れていかれたことも。

手を握られたことも。

子を失ったあとの沈黙も。

闘神の迷いも、優しさも、すべてが“別の誰か”の延長にしかなかったのだと、彼女は思ってしまっている。


そう思わせてしまったのは、自分の沈黙だと闘神は理解していた。


何も言わなかった。

最初から何一つ説明しなかった。

時の神のことも。

自分が何を探し、何を見つけたと思ったのかも。

そして何より、その後に自分の中で何が変わっていったのかも。


だから今、妻はこの結論へたどり着く。


それは当然だった。


闘神の指先が、ようやくほんの少し緩む。


掴んでいた手首を離しはしない。

けれど、さきほどまでの強さは失われていた。


初めて、神である彼が追い詰められていた。


力でではない。

敵意ででもない。

たった一人の女の、静かな言葉によって。


部屋には、灯りが一つだけ揺れている。


その揺らめきが二人の影を壁へ映す。

近くにいるのに、心はひどく遠い。


そしてその夜、闘神は初めて思い知ることになる。


愛していると認めるだけでは足りないのだと。

その愛が届く前に、相手が「自分は代わりにすぎない」と信じてしまえば、どれほど強い神であっても、その隔たりを力ずくでは埋められないのだと。


沈黙は続いた。


だが、それは以前のようなただ重いだけの沈黙ではなかった。


次にどちらかが何かを言えば、二人の関係はさらに壊れるかもしれない。

あるいは、初めて本当の意味で変わるかもしれない。


そんな、張りつめた沈黙だった。

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