第32話:いのちの設計図
▼Day4:RiNAとRNAi
四日目の朝。
新たな課題を与えられた三人は、大阪ヘルスケア館の前に立っていた。昨日、パソナ館の案内ロボットに告げられたとおり、今日はここ大阪ヘルスケア館と、この後向かう住友館をじっくり体験し、未来への鍵を探すのだ。
入り口でそれぞれが「リボーンバンド」と名付けられたリストバンド型の端末を受け取り、最初のエリア「カラダ測定ポッド」へ向かう。しかし、要とアイラが好奇心に満ちた表情で歩くのとは対照的に、璃奈の足取りはどこか重く、表情も冴えなかった。その小さな変化を、隣を歩くアイラが見逃すはずもない。
「璃奈、どうかしたの? 『どしたん、はなし聞こか?』 これ、大阪の人がする心配の仕方らしいわよ。ふふ」
アイラが、覚えたての知識を披露するようにおどけてみせる。
「『飴ちゃん食べる?』ってやつでしょ。お姉ちゃんがよく言うから知ってるよ」
璃奈は力なく笑うが、その笑顔はどこかぎこちなかった。
アイラは璃奈の顔をじっと見つめると、要に聞こえないように、小さな声で、しかしはっきりと台湾華語で話しかけた。
「身體測量快到了,妳不喜歡嗎? (この先にカラダ測定があるのが嫌なのね?)」
「嗯……不是不喜歡,只是覺得有點不好意思。(うーん、嫌というわけじゃないんだけど、ちょっと恥ずかしいかな)」
「妳是怕要發現妳身體的事吧? (それは、要に体のことを知られるのが恥ずかしいのね)」
「也不是特別怕他發現……(要に知られるのが、というわけじゃなくて……)」
「哦? 我們三人當中,只有要還不知道哦。(あら、三人のうちで知らないのは要だけよ)」
「啊……說的也是。難道我是因為對方是要,所以才覺得不好意思嗎? (あっ……確かに。そうなの、私? 相手が要くんだから、恥ずかしいの?)」
「……呵呵,我覺得妳最好早點告訴要實話。我也想多了解一些妳在台灣的身體狀況。(……ふふ、要には本当のことを早めに伝えたほうがいいわよ。私も、璃奈の台湾の体について、もっと知りたいもの)」
「嗚……好吧。我會做好心理準備的。(うぅ……わかった。覚悟を決めるわ)」
* * *
三人はそれぞれ、近未来的なデザインのカラダ測定ポッドへ入っていく。
璃奈は、このスキャンで何らかのエラーが出ることを想定していた。アンドロイドの体が、人間の生体データとして認識されるはずがない、と。
しかし、彼女の予想とは裏腹に、測定はエラーなく進んでいく。髪、肌、視覚、脳、歯、筋骨格、心血管……。次々と表示される結果は、CやD判定が多く、決して良いとは言えないものの、エラーは検出されない。
彼女はまだ知らない。主催者AIが、アンドロイドである参加者のために、この大阪ヘルスケア館のシステムにも特別な配慮をしていたことを。
(この結果なら、もしかすると……要くんに本当のことを伝えなくても、誤魔化せるかもしれない。でも……)
璃奈の心は、揺れていた。
測定を終えた三人が次に進むと、壁一面がスクリーンのシアター空間が広がっていた。そこには、二〇五〇年の大阪の未来像が、壮大な映像詩として映し出されていく。
「ここは二〇二五年の状態からアップデートされていないみたいだね。今から二十五年後、二〇七五年の映像も見たかったな。……あはは、二〇五〇年の今でも、空飛ぶバスはまだ走ってないもんね」
「インフラの抜本的な改革は、二十五年程度でできるものではないわ。特に、日本のように規制が多く、すでにある程度完成している国でのアップデートは、より難しいでしょうね」
要とアイラが感想を言い合う横で、璃奈は黙ったまま、スクリーンを見つめている。頭の中は、次に自分が取るべき行動のことでいっぱいだった。
やがて映像が終わり、シアターが明るくなる。璃奈は、ふぅ、と一つ深呼吸すると、意を決したように二人へ声を掛けた。
「二人とも、ちょっとだけ時間いいかな? ……そこのソファに座ってくれる?」
* * *
ソファに腰掛けた三人の間に、少しだけ気まずい、それでいてどこか優しい沈黙が流れる。
やがて、璃奈は自分のスカートをぎゅっと握りしめると、意を決したように顔を上げた。
「要くん、アイラ。二人には、正直に話さなければいけないことがあります」
その真剣な声色に、要とアイラも、ごくりと唾をのんで次の言葉を待つ。
「……今ここにいる私は、本当の私じゃありません」
璃奈は一度言葉を切ると、要の目をまっすぐに見つめ、彼が最も理解しやすいであろう言葉を選んで続けた。
「……これは、すごくリアルで、高性能なアバターみたいなものなの。本当の私は、遠い場所にある管制室から、この体を操作している。……そして、そのプレイヤーは、ちょっとだけ……重いデバフを背負ってる」
「……アバター……?」
要は、その言葉を反芻する。アバター、プレイヤー、デバフ。聞き慣れたゲームの用語が、目の前の少女の口から、全く違う重みを持って語られる。
その瞬間、彼の頭の中で、これまでずっと引っかかっていた違和感のピースが、一つの絵を完成させた。
「……そうか、だから……!」
要は、ハッとしたように声を上げる。
「スペイン館の階段で感じた、あの手の感触……! アイラの手とは違う、どこか芯があるような固さも、思った以上の重さも、全部……!」
「……うん。その通りだよ、要くん」
璃奈は、はっきりと頷いた。その瞳は、ほんの少しだけ潤んでいた。彼女は続ける。
「この体はね、台湾の『玉山デジタルテクノロジー社』っていう会社が作ったハードウェアに、日本の『春凪共和国』が開発したAIソフトウェアを組み込んだ、特別製のアンドロイドなの」
その説明を聞きながら、アイラは、ずっと気になっていた核心を、小さな声で問いかけた。
「……それで、璃奈。台湾にいるあなたの本体が背負っている『デバフ』というのは、どういうものなの?」
璃奈は、一度だけぎゅっと唇を結ぶと、二人の目をまっすぐ見つめ返し、正直に、全てを打ち明けた。
「……ALS。筋萎縮性側索硬化症っていう病気なの。少しずつ、体が動かしにくくなっていく病気。でも、脳にはほとんど影響がないから、こうして考えることは、全く問題ないの」
「二〇五〇年の今の医療のおかげで、病気の進行はすごくゆっくりに抑えられてる。完治させる方法はまだないんだけど……お姉ちゃんが言うには、論文レベルでは、あと一歩のところまでは来てるんだって」
その、あまりにも重い告白を、要は、彼らしいやり方で受け止めた。
「……そうなんだ。……それって、つまり、フルダイブ型のゲームみたいなものなんだね」
要はそう言うと、そっと璃奈の腕を取り、確かめるように、その義体の腕を優しく撫でた。
「ひゃぁぁぁっ!」
璃奈が、素っ頓狂な声を上げて、びくりと体を震わせる。
「こ、このアンドロイドと、台湾の体は、全ての感覚が同期してるから! 腕を撫でられたら、くすぐったいのよ!」
「ええっ! そうなんだ! それって、凄すぎる技術じゃないか! ……あ、ご、ごめん!」
璃奈も、要も、二人とも顔を真っ赤にして俯いた。
* * *
気まずさと、どこか安堵が入り混じった空気を振り払うように、三人は次の展示ブースへ歩き出した。そこは「スタートアップが開発するイノベーティブな製品・サービスの展示」エリアで、ひときわ多くのモブロボが集まっているブースがあった。京都に本社を置く、リバーセル株式会社の展示だ。
ホログラム映像では、ES細胞から作られた「再生キラーT細胞」が、新型コロナウイルスを正確に認識し、殺傷していく様子がCGで描かれている。
「iPS細胞だけじゃなくて、ES細胞というものもあるんだね。知らなかった。二つの違いって、何なんだろう?」
要が、純粋な好奇心から尋ねる。璃奈が、よどみなく答えた。
「どちらも、いわゆる万能細胞ね。この二つは多能性幹細胞と言って、いくつかの例外を除いて、人体を構成するほとんどの細胞に変化して、増殖することができるの。iPS細胞は本人の細胞から作られるもので、ES細胞は本人以外の人の受精卵の胚から作られるものよ」
「iPS細胞は拒絶反応が少ないけど、昔は分化が不完全だとガン化する可能性が指摘されていたわ。もっとも、その問題は最近の技術でほぼ解決されたと聞いているけれど。ES細胞は、他の人の胚から作るから拒絶反応の可能性がある。こちらもガン化のリスクはあったけど、iPS細胞と同じく、もうクリアされた技術みたいね」
「なるほど……」
要は、腕を組み、深く思考の海に潜っていくような瞳をしていた。璃奈は、少しだけ間を置いて、最も重要な補足を付け加える。
「あと……ES細胞は、それこそ二〇二五年ごろには基礎研究で使われていたんだけど、倫理的な問題があって、表舞台からは姿を消していった技術だと思うわ」
「倫理的な問題って?」
アイラが、鋭く問いかける。
「ES細胞は、人間の受精卵の胚を使うの。条件さえ整えば、一人の人間になったかもしれない『いのちの芽』から、今を生きる人間のための治療ツールを作る、ということ。以前は、体外受精で使われずに廃棄される予定だった胚を使っていたらしいけれど……胚がどういう経緯で提供されるかによっては、いかにも倫理的な問題に発展しそうじゃない?」
その説明を聞き、要が顔を上げた。
「これは素人考えなんだけど……。自分の卵子なり精子なりを使って胚を作れば、いくつかの問題をクリアできるんじゃないのかな。拒絶反応のリスクもiPS細胞みたいに無くせるだろうし、倫理的な問題も少しは減りそうだけど」
「そうね……。その方法は『体細胞クローンES細胞』って言うんだけど、そういう考えかたも、あるかもしれないわね」
璃奈は、要が自身の考察だけでES細胞の発展形に到達したことに感心し、小さく頷く。だが、すぐに首を横に振った。
「でも、二〇五〇年の今の医療は、そもそもES細胞に頼らない方向に進んだの。ES細胞が抱えていた胚の倫理問題を、根っこから避けられるから。……今の再生医療の主役は、iPS細胞なのよ」
「iPS細胞なら、胚を使わない。皮膚とか血液みたいな、生きている人の体細胞から作れるから、倫理的なハードルがずっと低いの。しかも、他人の細胞から作ったiPS細胞でも、HLA――白血球の型ね――が近い人同士なら、拒絶反応をぐっと抑えられる。だから今は、型の合うドナーのiPS細胞をあらかじめストックしておいて、必要な人に使う、っていう仕組みが世界中で整ってきてる」
「なるほど……」要は深く頷いた。「ES細胞が切り拓いた道を、iPS細胞が、倫理的な問題を回避しながら引き継いだってことか」
「そういうこと。……ただ」
璃奈は、そこで寂しそうに微笑んだ。
「私の場合は、自分の細胞から作ったiPS細胞は、たぶん使えないと思う」
「それは……どうしてなの?」
アイラが、心配そうに璃奈の顔を覗き込む。
「私の病気……ALSが、どういう原因で発症したのかが、まだ明らかになっていないの。先天的なものか、後天的なものか、あるいはその複合なのか。何も分かっていない。だから、もし私自身の細胞からiPS細胞を作って治療しても、その細胞は同じ『設計図』を持っているから、また同じ病気が再発する可能性を排除できないのよ。発症の原因が明らかになれば、私の細胞にゲノム編集を掛けて直す道もあるらしいのだけれど……それも、まだ」
三人の間に、重い沈黙が落ちた。細胞そのものを入れ替えても、その細胞を生み出す設計図自体に問題があるのなら、意味がないのかもしれない。根治への道が、まるで完全に閉ざされてしまったかのような絶望感が、空気を支配する。
しかし、その沈黙を破ったのは、誰よりも冷静に、しかし誰よりも深く思考していたアイラだった。彼女は、隣の別企業のブースを、じっと見つめていた。
「……ねえ、璃奈。あそこの展示、さっきのリバーセル社とは少し違うみたいよ」
アイラが指差す先には、『GeneSilencer Technologies』というロゴを掲げた、小さなブースがあった。そこでは、一本の「鎖」のようなものが、別の鎖にまとわりついて機能不全にさせるCG映像が、淡々とループしている。
三人は、何かに引かれるように、そのブースへ歩み寄った。
「これは……RNA干渉……RNAiね」
璃奈が、かろうじて聞き取れる声で呟く。
「iPS細胞が、工場(細胞)そのものを丸ごと建て替える技術だとしたら、これは違う。工場はそのままに、設計図(DNA)からコピーされた、たった一つの不良品の指示書(異常なRNA)だけを狙ってシュレッダーにかける技術よ」
璃奈は、自分に言い聞かせるように続ける。
「マスター設計図であるDNAを書き換えるわけじゃない。でも、病気の原因になる異常なタンパク質を作らせる『命令』そのものを、細胞の中で握りつぶしてしまう。だから、理論上は……」
その言葉を引き取ったのは、要だった。彼の瞳に、再び強い光が宿っている。
「……だから、理論上は、璃奈さんの病気の根本的な『引き金』が何だったのか分からなくても、今現在、璃奈さんの体の中で神経を壊している『実行犯』である異常な遺伝子の活動さえ特定できれば……その活動だけを、このRNAiでピンポイントに停止させることができる……! そういうことだよね!?」
「……うん。たぶん、そういうことになるわ」
璃奈の瞳が、要の言葉に呼応するように、わずかに見開かれる。
要の瞳は、まだ深く、思考の海の底を見つめている。やがて、彼は顔を上げ、ゆっくりと口を開いた。
「……ここまでで、ALS、iPS細胞、RNAi、そして璃奈さんの状況。いくつかの情報が出揃ったと思う。まだ仮説の段階だけど……なんとなく、針の先ほどの小さな光が見える気がするんだ」
その言葉に、璃奈とアイラがハッと顔を上げた。
「璃奈さんのケースは、複数の『解決すべき課題』が複雑に絡み合ってる。まず、璃奈さん自身の細胞を使うと『再発リスク』がある、という課題。だから、細胞はたぶん、型の合う『別の誰か』のものを使うことになる。でも、他人の細胞には『拒絶反応』の課題がついて回る。……この二つを同時にクリアできる相手さえ見つかれば、理論上の突破口が見えてくるような気が、どうしてもするんだ。まだ、すごくぼんやりしてるんだけど……」
要の言葉に、アイラがゆっくりと、しかし力強く頷いた。
「ええ、私もそう思うわ。問題が複雑であるほど、その答えは、意外なほどシンプルな場所にあるものよ」
「……ありがとう、二人とも」
璃奈は、俯いていた顔を上げ、少しだけ潤んだ瞳で、でも、精一杯の笑顔を作って見せた。
「二人がそう言ってくれるだけで、すごく、勇気が出る」
「さぁ! この話はここまでにして、住友館へ行きましょう!」
璃奈が、今の優しい空気を胸にしまい込むように、明るく声を上げた。
「あ、その前に、何か食べるのはどうかな? 大阪ヘルスケア館の出口に、何か美味しそうなお店があるみたいよ」
その提案に、要とアイラはこくりと頷いた。




