第21話:幕間 - 星を継ぐ者
§1
西暦1920年、イスタンブール。
没落の気配が色濃く漂うオスマン帝国の黄昏の中、アスラーン家の当主、ケナン・アスラーンは、ボスポラス海峡を見下ろす邸宅のバルコニーに一人、立っていた。
時代の大きなうねりが、すぐそこまで来ている。数世紀にわたり帝国を支えてきたこの巨大な船は、もはや沈みかけている。
取るべき道は二つ。古い特権という名の朽ちかけたマストにしがみつき、船と共に沈むか。あるいは、全ての荷を捨ててでも、もっと速く、もっと強固な、新しい時代の船に乗り換えるか。
「――我々が、新しい世界の基準そのものになるのだ」
ケナンの呟きは、潮風に溶けて消えた。
彼の決断は早かった。一族が長年培ってきたヨーロッパ各国の王侯貴族との縁を最大限に活用し、その莫大な資産を来るべき動乱から保全。そして、トルコ共和国が産声を上げると同時に、彼は「貴族」の地位をあっさりと捨てた。
代わりに、その資産を新しい国家の産業やインフラに惜しみなく投資し、一代でトルコ最大の財閥を形成する「実業家」へと、華麗に転身を遂げたのである。
歴史と伝統、そして現代的な富と権力。
アスラーン家は、時代の変化を乗りこなすことで、「最強の一族」として生き残り続けた。
§2
そして、一世紀以上の時が流れた、西暦2042年。
アスラーン家に、一人の玉のような女の子が誕生した。
東洋と西洋の美を独り占めにしたかのような、輝く小麦色の肌と、艶やかな黒髪を持つ、美しい赤ん坊。一族は、その子の誕生を心から祝福した。――そう、この時は、確かに。
「月の光」を意味する、「アイラ」と名付けられたその子は、しかし、一族の誰もが持ち得なかった、異質な才能を持って生まれてきた。幼少期から、彼女は、大人たちが束になって挑むような数学の難問を、まるで歌を口ずさむかのように解いてみせたのだ。
そして、彼女が5歳になった、2047年。
その異質な才能が、彼女の運命を決定づけることになる。
世界を、未曾有の金融危機が襲った。アスラーン家が全幅の信頼を寄せる投資顧問会社のAIすら予測できなかった、突然の市場崩壊。
一族の誰もが青ざめる中、アスラーン家の資産を管理する初老の担当者だけが、一つの可能性に賭けた。彼は、アイラが塗り絵の裏に書き殴っていた、子供の戯言にしか見えない数式のメモを、誰にも内緒で、ある場所へと送信する。
宛先は、日本。アイラが誕生したのと同じ5年前に建国されたばかりの、あの「春凪共和国」。
『ご息女の予測は、正しい。今すぐ、全資産の保全を』
春凪一からの返信は、数十分もかからずに届いた。
この英断により、アスラーン家の資産は、奇跡的に守られた。
だが、その事実は、一族の長老たちに、感謝ではなく**「畏怖」**の念を抱かせた。
自分たちの理解を、投資顧問会社のAIの予測すらも超える存在。コントロールできない才能は、一族の調和を乱す「異物」でしかない、と。
そして、長老たちは非情な決断を下す。
「アイラを一族から切り離し、聖域で、丁重に保護せよ」と。
彼女は、その天才性ゆえに、一族から追放されたのだ。
しかし、一族の中にも、アイラの才能を信じ、彼女を心から愛する者がいた。彼女の両親である。彼らは一族の決定に逆らうことはできなかったが、娘が孤独の中で才能を枯らしてしまうことだけは、どうしても許せなかった。そこで、彼らは追放される娘に、最高の「贈り物」を用意する。
一つは、アイラが生涯、何不自由なく好きな研究に没頭できるだけの、莫大な信託財産。そして、もう一つは、世界最高の技術――春凪共和国の技術の粋を集めて作られた、父親代わりの教育係であり、母親代わりの保護者であり、生涯の友人となる、たった一体の特注アンドロイド執事。
その名は、「アルスラーン」。
両親は、涙をこらえて5歳の娘にこう告げた。
「アイラ。世界は、お前が思うよりも、ずっと広くて、楽しいことで溢れている。アルスラーンと一緒に行って、好きなことを見つけなさい。お前の人生は、一族のものではない。お前自身のものだ」と。
こうして、アイラ・アスラーンは、莫大な富と、世界で最も優秀なアンドロイドと共に、一族から「追放」という名の「自由」を与えられた。
彼女の本当の物語は、ここから始まる。
§3
西暦2050年、とある国。豊かな緑に囲まれ、世間から一定程度隔離されたモダンな屋敷のダイニングで、一人の少女が少し行儀悪く足をぶらぶらさせながら、異国の軽食を味わっていた。
彼女の名前は、アイラ・アスラーン。8歳。輝く小麦色の肌に、艶やかな黒髪を持つその少女は、今、執事のアンドロイドが輸入食料品店で買ってきた、『めちゃうま大阪たこ焼き』にご執心だった。ほのかに香る出汁の旨みは、この国の料理ではなかなか味わえない、彼女のお気に入りの味だ。
家族は、目の前に立つ執事のアンドロイド、アルスラーンだけ。それでも、誰にも邪魔されず、好きなだけ学びたいことを学び、いつでも美味しいものが食べられる今の生活を、アイラはとても気に入っていた。
ところが、その日の『めちゃうま』は、いつもと少し様子が違っていた。
「ねぇ、アルスラーン。このたこ焼き、今日のっていつもと違う味付けなのかしら?」
アイラは、一つだけ明らかに異質な、鈍い金色に輝くたこ焼きを爪楊枝でツンツンと突つきながら、不思議そうに尋ねた。
「アイラ様、それは……少々お待ちください」
アルスラーンは、その場で1秒ほど静止する。彼の意識は、すでに物理的な身体を離れ、全世界のネットワークへと接続されていた。膨大な情報を瞬時に検索し、やがて、『めちゃうま大阪たこ焼き』を製造・販売している日本の食品メーカー、『株式会社オーケービー』が設置した特設サイトへとたどり着く。
アルスラーンはゆっくりと目を開くと、恭しくアイラに告げた。
「アイラ様。それは、『当たり』のようです」
「当たりって、なんなのよ(笑)。ちゃんと説明して!」
アイラがころころと笑いながら催促する。
これが、アイラ・アスラーンが、地下万博の参加者となった瞬間である。




