11.種の芽吹き(上)
積み重ねてきたものが今につながる。
少しずつ、世界を広げてみようか。
頭は重く、泣いて眠った目元は腫れぼったい。それでも目覚めの気分はいつになく軽かった。
日が昇るまでの束の間の邂逅。眠るのが惜しくてずっと起きていようとしたけれど、朝の気配が近づくにつれ、休め、眠れと促すみんなの意思は強まっていった。
反論は許されず、わたしは横になって目を閉じた。
起きた時にはもうみんなはいない。わかっていたことだ。
寂しさを胸の奥にしまって体を起こす。
「……おはよう、ございます」
寝台横の椅子には、明将さんが座っていた。
彼と雪根さんがいるのはもはや当たり前になっている。でも……寝顔を見られても羞恥心が湧いてこないのは、改めて考えるとどうなんだろう。慣れって怖い。
「おはよう。つっても、もう昼過ぎだけどな」
「うそ……」
「こんなことで嘘ついてどうすんだ」
慌てて壁を見上げるが、そこには何もない。そうだった。時計と暦は外されていたんだ。
窓を覆う日避け布から透けて部屋に侵入してくる光の強さは、朝の柔らかい日差しではなかった。
こんなに寝坊したのは初めてかもしれない。
慌てるわたしをよそに、明将さんは気にせずのんびりとしていた。
「気持ちよさそうに寝ていたから起こさないでおいたが、腹減ってないか?」
言われて意識を自分の内側に向けた。
鳩尾の奥に微かな違和感を感じ、お腹に手を置いてみる。これは胃もたれや胃のむかつきとは別種の主張だ。
「……お腹、空きました……」
空腹を感じるのはいつぶりだろう。
自分の体の訴えに驚いていると、わたしの頭を明将さんがくしゃりと撫でた。
「待ってろ」
立ち上がった明将さんは襖を開けて隣へと行ってしまう。そのまま部屋を出るのかと思いきや、彼は一度こちらへと戻ってきた。
「朔」
襖の位置から明将さんが手拭いを緩く投げる。上向きに弧を描いたそれはちょうどわたしの手の中に着地した。
「戻ってくるまで目元、冷やしとけ」
明将さんと冷たく濡れた手拭い。双方に視線を行き来させ、こくりと頷く。
「いい子だ。すぐに戻る」
今度こそ明将さんは部屋を後にした。
手拭いで目元を抑える。冷たさが目の奥の痛みにじんわりと染みた。
しばらくそうしていると、襖一枚隔てた先で玄関の扉が叩かれた。
「朔、入るよ?」
聞こえてきたのは雪根さんの声だった。
「起きたって聞いたけど、開けても大丈夫?」
「はい。大丈夫です」
雪根さんが襖を開いた。
「おはよう。ゆっくり休めた?」
言いながら彼は椅子に腰掛けた。
「すみません……。寝坊してしまって」
「よく眠れるのはいいことだよ。休息を必要としている体と、頭の判断が一致してきてるってことだから」
「……いえ」
よく眠ったかと聞かれたら、そういうわけではない。
ただ夜更かしをして、その分いつもの時間に起きれなかった。
前向きに捉えてくれているのに、申し訳なさが込み上げる。
「夜、寝てなくて……」
心配させてしまう前に、全てを打ち明けようとさらに言葉を続けた。
「闇の——、深淵のみんなに会えて。嬉しくて、それで……、つい……」
眠るのが遅くなった。本当に、それだけ。
呆れられてしまうだろうか……。
目線だけで顔色を窺うわたしへと、雪根さんは嬉しそうに笑った。
「そっか。よかったね」
「……はい」
——よかった。
そうだ。安心したんだ。みんなとの関係は、まだ終わりじゃなかった。
*
寝巻きから部屋着に着替えて、台所前の机で朝食兼昼食を食べる。
わたしの隣には花歩さん、机を挟んで向かいに雪根さんと明将さんが座っていた。みなさんもお昼はまだだったようで、ちょうどいいからみんなで食べようかということになったのだ。
誰かと食卓を囲むのは、ここ一年数えるほどしかなかった。
赤兎の本部に来てからずっとひとりなのは言わずもがな。奥園の家でも母と義父は仕事に忙しく、留美香がわたしと同じ食卓につくことは決してなかった。
母と最後に食事をしたのは、いつだっただろうか……。
そんなことを考えながら匙で雑炊を掬い、さましてから口に入れる。
鶏肉に卵、細かく刻まれた葱や人参などの野菜。具材の豊富な雑炊はとても美味しい。
ひと口を味わいながら黙々と食べる。そんなわたしに花歩さんはにこにこと微笑み、昼食の親子丼を口に運んだ。
「いいなここ。食堂よりものんびり食える」
明将さんが食事の途中でしみじみと呟いた。それに雪根さんが首肯する。
「確かに。下だと先輩たちに何かと気を使うもんね」
「……俺はお前が上に気を使ってる所を見たことがないんだが」
「そんなことないって。いつも遠慮ばっかりだよ」
「嘘つけ。お前のふてぶてしさに周りがどんだけ頭を抱えてると思ってんだ」
「さあ。聞いたこともないね」
悪態に動じず、雪根さんは綺麗な所作で食事を続けた。
胃が食べ物を受け付けるようになったとはいえ、そこまでたくさん食べられるわけではない。
自分が少食だという自覚はなかったけど、人と食事をしていると食べる量の差が浮き彫りになった。
わたしがお椀に入った雑炊を平らげる間に、明将さんたちは山盛りの丼を完食した。
ほどよい満腹感にわたしも食事を終える。
一人用の土鍋からお椀に移して食べていた雑炊は、半分を食べきることができた。
少しずつ、体は元に戻ってきている。
「この調子なら、夕飯は一緒の献立にしてみましょうか。盛り付けは少なめにして、煮魚だったら食べやすいかしら」
食後、食器を台車に運んでいる時に花歩さんに提案された。
「ご飯はお茶漬けにしましょうか。おかずが食べづらかったら、ご飯とお味噌汁から挑戦するのもいいわね」
「はい。……すみません、いろいろと……」
「楽しんでやっていることだから謝らなくていいのよ。だから朔ちゃんも無理はしちゃだめよ」
後片付けを終えた花歩さんは明将さんと共に一階へ戻っていった。
「朔は寝てなくて大丈夫?」
部屋に残った雪根さんに尋ねられ、素直に頷く。
「大丈夫そうです。それに……」
「それに?」
「光も、前ほど怖くは感じません」
玄関の扉を開けっぱなしにして、廊下から入る自然光のみが明かりとなった台所は、隣の寝台がある部屋よりは格段に明るい。
寝台の上で過ごしていた時は、襖が開かれこちらの光が見えただけで震えていたが、今はその恐怖もない。
だんだんと明るい場所を受け入れられるようになってきた。
それを雪根さんに打ち明けると、彼はそっかと安堵に顔を綻ばせた。
「だったら、生活範囲を広げてみようか。少しずつでいいから、部屋の外に出てみない? 気分転換にもなるよ」
思わぬ提案に身がすくむ。
雪根さんたちは平気だけど、階下で他の班員と顔を合わせるのはやっぱり怖い。
「外とは、どちらにでしょうか……?」
警戒するわたしに雪根さんは部屋の壁を指さした。
「そうだね。まずは隣からかな」
——……となり?
*
雪根さんの提案した「隣」というのは、本当にそのままの意味だった。
ようするにわたしが寝起きをしている隣の部屋、ということだ。
玄関の扉を開けるとすぐに台所があり、その奥に寝台などの家具が配置された部屋が続く。間取りはわたしが寝泊まりしている場所と大きく変わらない。
見た目の一番の違いは、日避け布の厚みだろう。隣はいつも過ごしている部屋より布が薄く、外の光が透けていて室内全体が明るかった。
「……お邪魔します」
冷房が効いた隣の部屋に、筆記具と冊子を数冊持って踏み入れる。手にしているのは学校から出されている、長期休暇中の課題たちだ。
「おう。お疲れさん」
部屋の中にはすでに明将さんがいた。台所前の食事用机に座る彼は、書類に向かう手を止めて顔を上げた。
「すみません。通ります」
できるだけ机からは視線を逸らし、奥へと急ぐ。
「見られて困るもんじゃないからそんな焦らなくて大丈夫だっての。相変わらず真面目だな」
苦笑しながらも明将さんはわたしが通りやすいように自身の座る椅子を机に近づけた。
襖が開けっ放しになった敷居を跨ぎ、奥の部屋の勉強机に筆記具と冊子を置いてわたしも椅子に腰掛ける。そして黙々と、夏休みの課題に打ち込んだ。
わざわざ誰も使用していない隣を掃除してまで、行き来をする必要があるのか。別に移動しなくても、課題はわたしが寝起きしている部屋の勉強机でもできる。
提案された当初は怖気付いて、部屋の外に出るのをかなり渋った。
そんなわたしに雪根さんは「これまでは緊急性を伴っていたから断りなくずかずか入っちゃってたけど、個人の空間は大事だよ。それに人と同じ場所を共有するのにも、少しずつ慣れていったほうがいい。外に出るまでに段階を踏んでいこうよ」と説得してきた。
さらに花歩さんからは「いい? 朔ちゃん。年ごろの娘さんが寝床で男に気を許しすぎてはだめよ。アキと律くんが信頼できるのは確かだわ。でも、男は時に獣になるって、わたしの過去の記録帳に太字で書かれているの」などと神妙な面持ちで警告されてしまった。
加えて花歩さんの話を近くで聞いていた明将さんに「事実だ」と真顔で肯定されては、もはやどうすることもできない。
元よりわたしは押しに弱い。そこまで言われて断り切れるはずもなく、さらには宮城さんから隣室の使用許可が下りたとなれば、行かないという選択はできなくなった。
無駄を厭う宮城さんが、まさか了承してくれるとは。嫌われている自覚は十分あるので、ものすごく意外だった。
この部屋で聞こえるのは紙をめくる音と、筆記具を走らせる音ぐらい。涼しい場所での宿題はとてもはかどった。
朝食後にこの部屋に入り、ひたすら問題を解く。
しばらく経ったころに扉を叩く音がして、集中を中断させた。
「入るよ」
「お邪魔しまーす」
扉が開かれ、雪根さんと花歩さんが入室する。
やや遅れて甘い香りが鼻を掠めた。
手を止めて上体を後ろに逸らし玄関を見ると、雪根さんが竹籠に盛られた桃を持っていた。
「朔、桃をもらったんだけど、休憩して食べない?」
顔を覗かせたわたしに気付いた雪根さんは、笑顔で竹籠を前に差し出す。
果実の熟した香りに桃の甘さを想像する。少しなら食べられそうだ。
「誰からの貢ぎ物だ?」
「ん? 宮城さんから」
明将さんの問いかけに雪根さんはごく自然に答えた。
頷きかけた顔がこわばる。それは、わたしがいただいていいものじゃない、気がするのだけど……。
「そんなに怖がらなくて大丈夫だよ。これはどっちかというと俺たちへの差し入れじゃなくて、朔へのお詫びの品だろうし。遠慮しないでいっぱい食べよ」
「……あの人はわかりにくいからなあ」
苦笑する雪根さんに同意し、明将さんもしみじみと呟いた。
拳よりも大きな桃は全部で四つ。それらは花歩さんが厨房から持参した果物包丁で一口大に切り分けられた。
机に明将さんが広げていた書類は一度片付けられ、休憩と称して皆で大皿に盛られた桃をいただく。
楊枝に刺して掬うように持ち上げた桃は、今にも崩れそうなぐらい柔らかかった。
口に入れれば噛む必要がなく、舌の上で果汁が溢れた。濃厚な甘さの中に、えぐみは全くない。
とても美味しい。青果にさほど詳しくないわたしでもわかる、高級品の立派な桃だ。
美味しい、のだけれど……。
これをくれた宮城さんの意図をはかりかねて、緊張に体が強張った。
お礼はちゃんと、言うべきだろう。
それよりも次に会った時、わたしはあの人にどんな顔をすればいいのか。想像しただけで気まずい。
いつまでもここにいるわけにはいかないのに……。
わたしの心境に関係なく、時間は平等に過ぎていく。
夏が終われば学校が始まる。そうなれば否応なく、階下へと足を踏み出さなければいけない。
夏休みの終わりまで、あとどれくらいの猶予があるのだろう。
陰鬱な考えが頭を巡り手が止まったわたしの前で、明将さんはぱくぱくと桃を平らげていく。
「もう。少しは遠慮したらどうなの」
「残したら痛むだろ」
「そういうことはみんなが食べ終わるくらいに言うものじゃないかしら」
花歩さんの小言にも明将さんは悪びれない。
豪快な食べっぷりが、無理をしなくていいと言ってくれているように思えて、ほんの少し心が軽くなった。
わたしも二切れ目の桃を楊枝に刺して、口に入れた。
「……あの、今日は、何日でしょうか……?」
切られた桃は皆の胃袋に収まった。
休憩が終わりそうになった頃合いで意を決して聞いてみた。
はぐらかされるのも覚悟していたけど、雪根さんはあっさりと「今日は葉月の四日だよ」と答えてくれた。
知らないうちに月は変わっていた。それでも夏休みの終わりまでは、まだ一ヶ月弱ある。




