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前編


 月の女神の君臨する大地に、精霊の森がありました。そこでは、あらゆる精霊たちが暮らしており、毎日のように生きるための攻防を繰り広げています。

 そんな森の片隅にて、緑や赤の装飾に彩られた美しい泉がありました。泉は葉っぱで覆われ、常に甘い香りで満たされています。その泉こそ、戦う精霊のひとりでした。

 生きることは誰かを食べてしまう事。力の弱い精霊たちを食べながら暮らしていた彼女は、そう信じて体の一部である泉を守りながら、甘い香りで他種族の精霊たちを誘き出しては水面に落とし、溺れさせることで命をいただいていたのです。

 美しい精霊も、愛らしい精霊も、心優しい精霊も、彼女にとっては食べ物でしかありません。中には彼女と仲良くなろうとした者もいましたが、彼女の心は冷酷そのもので、むしろその好意を利用して確実に命を奪ってしまいました。そうでもしなければ死んでしまう。そう信じていたからです。

 だから、彼女は孤独でした。それでも、孤独を自覚せず、彼女はただ生き続けていました。


 そんな彼女の元に、不思議な精霊が現れました。

 しなやかな体を持つ、翅の生えた少女。泉の傍に座り、足を水面につけているその姿は無防備ながら、奇妙なほどの魅力がありました。ただの精霊ではありません。生まれながらに女王の資格を持った特別な精霊でした。

 新たな王国を築くために旅立っている途中でしょう。ならば、その存在は、泉の精霊にとって極上の獲物に違いありません。さっそく彼女は少女に語り掛けました。


「いらっしゃい。よく来たわね。甘い蜜の香りが気になったの?」


 すると、少女は驚いたように彼女を見つめました。


「これって……あなたの身体の一部なの?」


 まだ子どもっぽい声をしています。表情もまた精霊の世界の恐怖を知らない純粋さがありました。こういう精霊こそが、獲物には相応しい。泉の精霊は高まる気持ちを抑えて、少女に微笑みかけました。


「ええ、そうよ。こうして、あなたのように愛らしいお客さんが来るのを待っているの」

「一人きりで? 綺麗だけれど、ここはとても静かね。一人ぼっちで寂しくない?」

「あなたのようなお客さんがたまに来るから寂しくないわ。自慢の蜜をお客さんに振舞うのが楽しみなの」


 そう答えて、泉の精霊は泉の天井となっている葉っぱを揺らしました。途端に甘い香りが充満します。ここへ来る精霊たちにとって、好ましい香りでした。

 美味しそうな蜜の香りに釣られて、精霊たちはいつも蜜の傍へと登ろうとします。そして、足を滑らせて水面へ真っ逆さまに落ちていき、皆、溺れてしまうのです。泉の精霊はそれを狙っていました。美しく見える泉ですが、その水底には数多の精霊たちの亡骸が沈んでいて、少しずつ溶けながら泉の精霊の栄養となっています。新しく訪れたこの愛らしい精霊の少女も、溺れさせて食べてしまうつもりでした。

 そうとも知らず、精霊の少女は促されるままに葉っぱの天井を見上げました。


「いい香りね。貰ってもいいの?」

「勿論、心行くまで飲むといいわ。私の蜜はたくさんの人に夢を見せるの。あなたにもいい夢を見せるはずよ」


 精霊の少女はそれを聞いて喜びました。泉の精霊にとっては面白いほどに、少女はその言葉を信じてしまったのです。恐怖を知らない精霊は長生きできない。それが、この森の常識でした。ここまでくれば、もはや捕まえたのも同然。泉の精霊は内心ほくそ笑みながら、少女を言葉で誘いました。


「さあ、お飲みなさい。足元に気を付けて」

「ありがとう。いただきます」


 精霊の少女は翅をたたんだまま葉っぱの天井へとよじ登りました。甘い香りは彼女の心を急かし、その美味を期待させ、冷静さを奪っていたのです。真っ逆さまに落ちてしまえば、翅を広げる余裕もないはず。泉の精霊はわくわくしながら、その最後となるはずの食事を見守りました。

 何も知らない精霊の少女はようやく甘い蜜のしたたる葉っぱの天井へとたどり着き、その雫に口づけをしました。途端に口の中で広がるのは、今まで味わったこともないような狂おしいほどの甘みです。香りの期待を裏切らない味が、少女の舌をうならせ、そして心を奪いました。


「きゃ……!」


 ただでさえ滑りやすい葉っぱの裏側で、酔っぱらうような蜜の後味に充てられて、精霊の少女は足を滑らせ、泉の水面へと真っ逆さまに落ちてしまいました。

 これこそ、泉の精霊が待ち望んだ瞬間です。あとは、水底に沈んでいくのを待つだけ。少しずつ溶けだすその亡骸は、泉と心が繋がっている精霊にとって貴重な栄養となるはずです。物珍しい獲物の捕獲の成功に、泉の精霊は声をあげたいほど喜びました。


 しかし、この世界は泉の精霊が思っているよりもずっと広いものでした。この泉に落ちた他種族の精霊は、例外なく溺れて死ぬはずです。それなのに、泉の精霊にとって、予想外の事が起きたのです。真っ逆さまに落ちた精霊の少女が、再び水面に浮かび上がって無邪気にも笑い出したのです。


「やっぱり落ちちゃった。気を付けていたのに」


 そして、軽々と泳いでみせたのです。

 泉の精霊は驚きました。声も出せないほど動揺しながら、精霊の少女を見つめました。そんな彼女の心境にも気づかない様子で、精霊の少女は泉を泳ぎ切って岸に上がり、全身についた水滴を落としながら、泉の精霊に笑いかけました。何も知らない様子なのは変わりません。


「とってもいい味だったわ。ご馳走様」


 無邪気に礼を言われ、泉の精霊はぎこちなく肯くことしか出来ません。

 そんな彼女に追撃と言わんばかりに、少女は彼女に迫りました。


「ねえ、ご馳走になったついでにお願いがあるの」

「お、お願い?」

「うん。あのね」


 泉の精霊の手を取って、少女はつぶらな瞳で見つめます。


「あなたの身体に、王国を築かせて欲しいの」


 それは、泉の精霊にとってはとんでもない願いでした。



 翅の生えた少女の主張によれば、彼女の故郷もまた泉の精霊と同種族のものが見守る場所にあったそうです。

 泉の精霊にとっては未知のことですが、どうやらこの森のあちこちでは同種族の者達の身体の中で、この少女と同じ種族の者達が王国を築いているようです。

 もちろん、絶対的捕食者として君臨してきた彼女にとって、他の種族に王国を築かれるなど耐え難いことでした。しかし、甘い蜜の誘惑も、溺水も、少女には通用しません。泉の精霊にとっての最大の武器が通用しないとなると、あとはこの少女の気分次第というのも間違いないことでした。


「だめよ」


 それでも、泉の精霊は必死になって少女に言い聞かせました。


「わたしはたくさんのお客さんを触れ合うためにここにいるの。あなた一人のためではないし、王国なんてもっての外よ」


 しかし、少女も引きません。


「どうしてもどこかに王国を作らなくてはいけないの。ねえ、痛いのはちょっとだけよ。あとは大人しくしているから心配しないで。しばらく経てば、王国民たちが出てきて、あなたのお世話もしてくれる。だから、ここに居させて。あなたの蜜の香りと味が、とても気に入ったの。美しい泉と、それを守るあなたの綺麗な姿に惚れてしまったのよ」


 つぶらな瞳でそう言われると、泉の精霊は悩んでしまいました。

 蜜の香りを褒められることはありました。しかし、自分自身を褒められたことはなかったので、真っすぐ見つめられて褒められると悪い気がしなかったのです。何より、抱き着かれて甘えられると、これまで知らなかったような嬉しいような気持ちが生まれました。

 しかし、そうだとしても易々と許可するわけにはいきません。体の中に王国を築かれるなんて、考えただけでもぞっとしたからです。


「お世辞が上手いのね。そこまで言うのなら、作ってみなさい。でも、邪魔だと判断したら、王国ごとあなたを潰してしまうわ。それでもいいの?」

「ええ、構わない。わたし、絶対に役に立つもの。あなたにとっても素敵な存在になれるはずよ」


 やけに自信を持ちながら、少女は言い切りました。その奇妙なまでに堂々とした姿を見て、泉の精霊はとうとう折れてしまいました。


 こうして、まんまと精霊の少女の思惑通りに事は運び、泉の片隅には王国が築かれることとなったのです。すぐさま泉の傍に穴があけられ、その奥深くに少女は潜っていきました。体の一部に穴を開けられたものだから、泉の精霊は微かに痛みを感じました。それでも、体の奥へと少女が入っていくと、何だか温かいような奇妙な気持ちになりました。

 そして、少女は泉の壁の中に閉じこもり、卵を産み落としました。精霊の王国の始まりです。泉の精霊は母親にでもなったかのように、自分の身体のなかで卵を守る少女のことを見守り続けました。


 奇妙な同居生活はしばらくの間、静かに続きました。

 卵を抱えた少女は穴の中から全く出てきません。

 たしかにそこにいる感覚はあるのに、顔も見せてくれなければ、声も聞かせてくれないのです。

 泉の精霊は少し寂しく感じていました。王国を築きたいと言われた時には激しく抵抗感を覚えたのに不思議なものでした。

 少女の気配を感じながら孤独というものについて考えはじめつつ、泉の精霊はこれまでのように他種族の精霊を甘い蜜で呼び込んでは泉で溺れさせ、その体を食べてしまうという捕食生活を続けました。

 これまではそれだけが全てのはずだったのに、淡々と続く日常が妙に寂しく感じてしまい、落ち着きません。これが孤独というものなのでしょうか。泉の精霊はただただ少女の抱える卵が孵る日を待ちました。


 そして変化は突然やってきました。



 ある日、泉の精霊は体の違和感を覚えて目を覚ましました。

 精霊の少女が潜っていったときに出来た穴から、小さな精霊たちが次々に出てきたのです。どの精霊も在りし日に見つめ合った少女にとてもよく似ていましたが、彼女に比べて体が小さく、顔つきがしっかりしていました。

 小さな精霊たちは初めて見る外の世界と泉の美しさに見惚れつつ、我に返るなり、一斉に跪きました。


「我らが女王ははより貴女のことを聞いております」


 代表らしき一名が良く響く声で言いました。


「力弱き不完全な我らにとって、貴女は女神さまに等しい存在です。建国をお許しになったこと、そして、女王を見守ってくださったことに感謝いたします。そして、今日より栄える我らが王国の守護女神になっていただきたく存じます」


 泉の精霊は彼女らの姿を一人一人眺めました。

 とても小さく、数もあまり多くはありません。弱肉強食の掟に支配された精霊の森において、彼女たちの立場はさほど強いものではないのでしょう。

 泉に落ちてしまえば溺れて死んでしまうのではないか。そう思いましたが、自由奔放に泳いでいた少女の事を思い出して、小さな精霊たちに訊ねました。


「あなた達も私の泉で泳ぐことができるの?」

「はい、出来ます。女王はそう言っていました。貴女の泉を綺麗にする努力をしなさいと言い聞かされました」

「泉を綺麗に?」


 泉の精霊が半信半疑に聞き返すと、小さな精霊たちはそれぞれ自信たっぷりの笑みと共に頷きました。


「そうです。あなたの泉を侵す者を退治してみせましょう。ご安心ください。あなたのお食事を邪魔したりはしません」


 彼女らに出て行く気が一切ないことを感じて、泉の精霊は呆れてしまいました。こうなれば仕方ありません。彼女らを好きにさせることにしたのです。

 静かな日々は突然終わり、小さな王国民たちの働きぶりを泉の精霊は見守るようになりました。一日、二日、と経っても、この小さくて無力そうな精霊たちが泉の役に立つところ場面などありません。

 そもそも泉は綺麗だったので、小さな精霊たちの言うような努力が活かされるようなこともなかったのです。


 けれど、泉の精霊は彼女らを見守り続けるうちに考え始めました。

 こういう生活も悪くないかもしれない。


 小さな精霊たちは泉の精霊の身体の中に築いた王国に、毎日せっせと食べ物を運んでいきます。そして、時折、泉の中へと飛び込んで楽しそうに泳いでいました。そんな日々の暮らしを眺めていると、ほっとするような温かさを感じたのです。

 王国の奥深くにいるはずの少女はどうしているだろう。泉の精霊は時折、考えました。そして、毎日楽しそうに暮らす王国民たちの姿にその面影を見つけては、微笑んでいたのです。


 かつての静かな日々はもう遠い過去のものとなっていました。

 泉の精霊にとって小さな精霊たちと彼女らの王国は、いつしかかけがえのない存在へと変わっていました。

 まるで守護女神にでもなったかのように、泉の精霊は今までの弱肉強食の掟を守る生活だけではなく、弱くて害のない小さな精霊たちの営みを楽しく見つめ続けました。


 しかし、そんな日々を突如破壊する者たちは現れました。

 黒衣に身をまとった精霊たちの集団です。


 戦闘民族である黒衣の精霊らは、泉に住む小さな精霊たちを食料にすべく襲い掛かりました。狙いは泉に築かれた王国民すべてと、王国の奥で静かに過ごしている女王と子どもたちの命です。泉に住み着いた精霊たちよりも体が大きく、力もある彼女らの出現に、泉の精霊も警戒しました。


 逃げ惑う王国民たち。捕まって殺されてしまった哀れな精霊。泉の精霊が彼女らに抱いていた弱き者の印象は間違っていなかったのです。当たっても嬉しくない現実を目の当たりにしながら、泉の精霊は彼女たちに呼びかけました。


「皆、泉の傍に隠れなさい。泉があなた達を守るはず」


 王国民たちは即座に従いました。

 もちろん、隠れ家を示唆した泉の精霊の声は、黒衣の精霊たちも聞いています。泉へ集まろうとする王国民たちをしつこく追いかけました。王国民たちは慎重に泉の内側へと降りていきました。すると、どうでしょう。壁にしがみつくことのできた王国民たちと違い、我先にと追いかけた黒衣の精霊たちが次々に足を滑らせてしまったのです。


「退避、退避、退避!」


 辛うじて落ちなかった黒衣の精霊が叫びます。泉に落ちてしまった黒衣の精霊たちは次々に溺れてしまい、そのまま沈んでいきました。こうなってしまえば助けることは不可能です。王国民たちを捕まえることも諦めるしかありません。

 慌ただしく泉から逃げていく黒衣の精霊たちの気配を感じながら、王国民たちは震えています。そんな姿を見つめながら、泉の精霊は強く思いました。やはり、彼女らは弱き存在。守ってあげるべき精霊なのだろうと。それならば、守ってあげるだけのこと。退屈さを知らなかった日々ならばまだしも、一度、観察の楽しさを知ってしまえばもう後には戻れません。


 黒衣の精霊たちの気配が一切なくなってから、泉の精霊は王国民たちに告げました。


「もう大丈夫よ」


 王国民たちが恐る恐る泉の精霊を見つめました。

 捕まってしまった者、殺されてしまった者もいます。そんな姉妹への追悼でしょうか。彼女たちはぞろぞろと泉の壁を登ると、泉の精霊を取り囲むように座り、そして祈りを捧げました。

 そんな彼女たちを一人一人眺めながら、泉の精霊は哀愁を感じました。見覚えのある顔がいくつか欠けている。きっともう戻っては来ないのでしょう。

 その事実を胸に、泉の精霊もまた命を失った者達へ祈りを捧げました。


 泉の精霊にとって、こんな感情を抱くのは初めてでした。

 もう前の生活には戻れない。そんなことを感じながら、泉の精霊はもう長く姿を見ていない女王の無事にほっとしました。

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