後編
◆
黒衣の精霊の襲撃から数日。
王国には平穏が戻っていました。王国民たちの働きを眺めながら、狩りをするという日々。同じようでいて少し違う日々の変化に泉の精霊は愛おしさを感じていました。
けれど、そんな微かな幸福を打ち壊す者はまたしても現れたのです。
それは、王国民たちが寝静まった時刻の事でした。
見たこともない細身の精霊が、泉の精霊のすぐそばまで飛んできたのです。透明な翅の音が耳障りで、泉の精霊は顔をしかめました。しかし、侵入者は少しも怯まず、泉に密着しながら言いました。
「このあたりに美しい死の泉があると聞いてきたの」
妖しげな眼差しと艶っぽい語り口で、彼女は泉の水面を撫でました。
「噂通り、聡明で高栄養なお方のようね。あなたの泉ならば、あたしの子どもたちもお腹いっぱいになれるはずよ」
「あなたは何者?」
「さあね。あたしが何者であろうと関係ないわ。あなたとあたしにはもうすでに縁が出来た。無敵と信じているあなたの泉、お借りするわ。あたしの子どもたちをよろしくね」
笑いながら彼女は泉の真上を飛び回り、そして卵を産み落として何処かへ飛んでいきました。
卵は沈んでいきましたが、泉の中で溶けることもなく漂うだけです。
泉の精霊は慌てましたが、自分の力では卵を拾う事すら出来ません。沈んでいく卵をただ見つめていることしか出来なかったのです。
この卵が孵ったらどうなってしまうのか。穢されてしまった自分の体を眺めながら、泉の精霊は途方に暮れていました。
次の日になって、王国民たちは泉の精霊の元気のなさにすぐに気づきました。
理由を話すと、王国民たちはひどく驚いて泉を覗き込みました。卵は小さすぎてよく見えません。どこにどれだけあるのかも分からない。そんな状況で、泉の精霊は諦めるしかないのだと述べました。
しかし、王国民たちは囁き合ってから、泉の精霊に宣言しました。
「私たちにお任せください、女神さま。お約束した通りです。泉を綺麗にするよう努めることこそ、女王が我らに託している願いでもありますから」
そして、泉の精霊の見ている前で、彼女たちは泉に潜っていきました。
溺れることもなく、溶かされることもなく、彼女たちは泉に沈む卵を一つずつ拾い上げると、そのまま王国の入口へと運んでいきました。中には孵っているものもあり、細身の精霊の幼体が逃げ惑っていましたが、王国民たちは容赦なく彼らを捕らえ、卵と同じように連れて行きました。
彼らの働きによって、見る見るうちに、泉の穢れはなくなっていきます。細身の精霊のたくらみも、あっという間に阻止されてしまったのです。
やがて、すべての卵や幼体が取り除かれ、泉は元の輝きを取り戻しました。泉の精霊は王国民たちに感謝を述べました。
「有難う。あなた達のお陰で助かったわ。泉を綺麗にしてくれる。その意味をやっと理解できました。あなた達はやっぱり役に立つ存在ね」
「勿論です、女神さま。これからもあなたの泉は私どもが守ります」
こうして、持ちつ持たれつの関係は続きました。
ある時は泉の精霊が国民を守り、ある時は泉を侵す精霊を国民たちが排除する。お互いがお互いを支え合う形で共存は続き、絆は深まっていきました。
泉の精霊はますます王国民が気に入りましたが、日が経つにつれ、ある思いも深まっていきました。
小さな精霊たちの女王はどうしているのだろう。
王国を築くと決めたあの少女は、今頃、どうしているのだろう。どんな声で喋り、どんな姿をしているのだろう、と。
いつの間にか遠い昔になってしまった出会いの光景を思い出しながら、泉の精霊は彼女との再会を心待ちにし始めていました。
体の中にはいつも少女の気配があります。生きているかどうかは、その気配から伝わってきます。けれど、感触だけではなく、言葉で交流したい。そんな切なる願いを抱えながら、彼女に何処か似ている王国民たちを見守り続けました。
◆
やがて、季節が移り変わりました。
いつもと変わらぬように思えた朝、王国の入口よりはい出てきたのはいつもとは違う国民でした。特別な翅をもつ精霊の少女がひとり。泉の精霊の元へと歩み寄ってきたのです。
泉のそばに座って水面にそっと足をつける彼女の姿を見て、泉の精霊は思わず見惚れてしまいました。少女の姿の精霊。翅も、顔立ちも、ここに王国を築いたあの精霊の少女のものでした。
「ああ、あなた、やっと出てきてくれたのね」
嬉しくなってそう声をかけると、精霊の少女は不思議そうに泉の精霊を見上げ、首をかしげました。
「やっと?」
その声に、泉の精霊は我に返りました。
――違う。
見つめていると、精霊の少女は恥ずかしそうに微笑み、泉から足をあげて抱えました。
「もしかして、女王のことかしら」
精霊の少女はそう言いました。
「あなたが此処の女神さまだっていうことを、女王から聞いています。わたしは女王の血を広める姫として、ここから飛び立たないといけないのですって」
「……あの子は元気?」
「女王のこと? ええ、元気よ。これまでも、これからも、あなたのおかげで元気でいられるはずよ。あなたが生きている限り、女王も生きていられる。より深いところであなたの温かさを感じながら過ごしているの」
くすりと笑いながら語る姫の話を聞いて、泉の精霊はようやくほっとしました。
会えなくとも、自分の中にいる。自分が生きていることで、彼女も生きることが出来る。その事実が妙に嬉しかったのです。
「わたしは女神さまと女王の絆を心にしまい、見えない糸で繋がれるような相手を探す旅に出るの」
「あなたもまた女王になるのね」
「そうよ、女神さま。この森の何処かにいる女神さまのような御方を探して、わたしの国を築き上げるの」
「外は怖いわ。あらゆる危険があなたに襲い掛かるでしょう。それでも行くの?」
泉の精霊は心配になって訊ねました。
目の前にいる精霊の少女が此処へ来たばかりの王国の女王と重なって見えたからです。いたいけな少女。あの時の女王よりも幼く見えるものですから、このまま飛び立たせていいのか迷ってしまったのです。
けれど、精霊の少女は笑って答えました。
「ええ、だって、わたしも未来の女王だもの。どんなに危険でも、どんなに恐くても、背中に翅をいただいたのだから広い世界を飛び回らなくてはならないの」
そして、何処かの泉で別の精霊と、同じような関係を結ぶのかもしれません。
泉の精霊は少女の母親と出会った日のことを思い出しました。歓迎せぬ出会いではありましたが、いつしかかけがえのない存在になっていました。
目の前の少女が同じような関係を他の誰かと築くのであれば、見送らなくてはならないのかもしれません。
「そろそろ行かなきゃ。まずは素敵な殿様と出会わないといけないの」
そう言って立ち上がる精霊の少女に、泉の精霊は声を掛けました。
「待って」
振り返る少女と見つめ合い、思いを素直に伝えました。
「どうか、ご無事で。ここに負けない素敵な王国を築いてちょうだい」
命が芽吹いては枯れていくこの世界で、彼女が生き延びて王国を築ける確率は如何程か。そんな不安をしまい込んで、泉の精霊は精霊の少女に笑いかけました。
精霊の少女はそんな泉の精霊を見上げると、微笑みを返して丁寧に一礼をしました。
「行って参ります」
そして、とうとう旅立ってしまいました。
可憐に飛ぶ精霊の少女を見送りながら、泉の精霊は自分の身体に築かれた王国の歴史を振り返っていました。
いまも穴の中で過ごしている女王の姿を思い出し、愛おしさを感じました。誰かと共に生きる事の悦び。ただ強い者が弱い者を食い殺すだけではない世界の美しさ。この時になって、泉の精霊は、はっきりとそれを感じていました。
段々と小さくなっていく精霊の少女。彼女もまた自分の中で育まれたのだと思えば、広い世界に飛び立っていくこともまた、寂しさと共に夢を抱くことでした。
きっと彼女の飛んだ先には、愛が待っているはず。
そう信じて、泉の精霊は体の中に棲むすべての王国民たちを抱く思いと一緒に、女王へと心の中で語り掛けました。
――あなたが生んで、私の体で育った姫が飛び立っていったわ。
返事はありません。それでも体を抱きしめると、かつて話した少女の声が聞こえるようで、泉の精霊は温かな気持ちになれました。
姫の姿はどんどん遠くなっていきます。動けない自分と、籠り続けて王国を守る女王。翅を広げて飛び立っていく精霊の少女の姿を脳裏に刻みました。
これからも、泉の精霊を取り巻くものは残酷な弱肉強食の空気でしょう。
それでも、共に生きる者が寄り添い、協力し合い、お互いの未来を担う者たちを育んで解き放つ日々も待っています。その日々はきっと、今、この瞬間に目撃した光景と同じくらい希望あふれるものに違いない。泉の精霊は強くそれを信じました。そのくらい、希望を背負って飛び去って行く姫の姿はとても素敵なものでした。
ひとりきりで淡々と生きているときには知らなかったものを感じ、抱きしめながら、泉の精霊はその背中が見えなくなったあとも、見守り続けました。




