第三章 届いた荷駄と、武蔵野の風
数週間後。
北薩・大口城の本丸に、錦江湾の水運と山伏の隠密路を経て、大隅からの荷駄が滑り込んだ。
荷降ろしを見守る新納忠元の前に、頑丈な孟宗竹の筒と、油紙で幾重にも巻かれた俵が並べられる。
「これが、大隅の小倅が送ってきた物資か」
忠元が自ら手斧を取り、俵の縄を断ち切った。
中から現れたのは、粒の揃った純白の塩だった。指先で舐めとった忠元の目が丸くなる。
「苦味がない。雑物の混ざっておらぬ、透き通るような極上の塩じゃ」
続いて竹筒の蓋を外す。中には、漆黒の乾燥した塊がぎっしりと詰まっていた。
「殿、これは何でございましょう? 干し肉のようでもあり、乾いた土のようでもありますが……」
彦四郎が訝しげに覗き込む。添えられていた千代丸直筆の指図書を読んだ忠元は、苦笑混じりに命じた。
「湯を沸かせ。一椀の熱湯に、この塊を一欠片放り込んでみよ」
湯気が立ち上る椀に放り込まれた黒い塊は、湯を吸うや否や、瞬く間にふやけて広がった。
立ち上ったのは、野戦の陣中ではあり得ないほど香ばしい、濃厚な豚脂の甘みと、滋味あふれるクヌギ椎茸の出汁の香りだった。
忠元は椀を取り、躊躇うことなく喉へ流し込んだ。
「……っ!?」
熱い脂が五臓六腑に染み渡る。塩気と旨味が、飢えと寒さで強張っていた身体の芯を猛烈な勢いで解きほぐしていく。
「うまい……! 何じゃこの汁は! 泥水が極上の雑炊に化けおったぞ!」
「殿、誠でございますか!?」
居並ぶ士弟や足軽たちにも分け与えられると、あちこちから「美味い!」「身体がカッカと熱うなってきた!」と歓声が上がった。
冷雨に打たれ、絶望に沈んでいた大口城の空気が、たった一杯の温かい汁によって一変したのだ。
「さらに、これをご覧ください」
彦四郎が差し出したのは、油紙に包まれた孟宗竹の筒だった。
「湿気で火薬が死なぬよう、節を抜いた竹に蜜蝋を塗って密封してございます。大隅の雨中であっても、火薬の着火歩留まりは百パーセントを維持できるとのこと」
「歩留まり、じゃと?」
聞き慣れぬ言葉を反芻しながら、忠元は荷駄の底から現れた最後の一品を手に取った。
それは、納品目録の裏に添えられた、一枚の蒲生和紙の短冊だった。
均整の取れた、寸分の乱れもない筆跡で、事務的な受渡確認の余白にこう記されていた。
『兵糧は、ただ城を保つためのものにあらず。城の命――即ち人を繋ぐためにあり』
忠元は息を呑んだ。
その短冊を握りしめたまま、静まり返る広間で天を仰いだ。
「人を繋ぐためにあり、か」
低く呟いた忠元の胸に、熱いものが込み上げてきた。
自分は大口の城で、死に場所を求める若者たちに「生きよ、歌を詠め」と教えてきた。だが、腹が減っては歌も詠めず、命も繋げない。その最も泥臭く、最も過酷な「生きるための足元」を、遠く大隅の地で、十二歳の童が一人で背負い、算盤を弾いて支えてみせたのだ。
「殿。いかがなさいました?」
彦四郎が恐る恐る尋ねると、忠元は突如、腹を抱えて大爆笑した。
「ワハハハハハッ! 痛快、痛快じゃ! 彦四郎、聞いたか! 槍も握れぬ十二の小僧が、儂ら百戦錬磨の武士に向かって『人を繋げ』と説教を垂れてきおったわ!」
笑い涙を指先で拭い、忠元は爛々とした眼光で短冊を見つめた。
「馬鹿者どもめが。本家の役人どもは、とんでもない化け物を野に放ったものよ。敵を倒すだけが武士ならば猪と変わりはせん。槍も持たぬ童が、すでに薩摩・大隅の盤面を胃袋から握っておるわ」
忠元は立ち上がり、自身の机から一本の竹の矢立と、大切に保管していた京の連歌集の古写本を取り出した。
「彦四郎。大隅へ返礼を送れ。約定の鉄五十貫に加え、この連歌集と……儂が自ら削ったこの矢立を添えよ」
「矢立を……殿自ら?」
「そうじゃ。あの小倅に伝えよ。『貴殿の送りたる兵糧、大口の士弟百人の命を繋ぎ申した。武蔵守、生涯この恩を忘れず。いずれ戦場にてまみえる日を楽しみにしておる』とな!」
第四章 飯野の論功行賞、そして交わる道
それから一年半の月日が流れた。
元亀三年(一五七二年)五月。
日向国境を揺るがした「木崎原の戦い」は、島津義弘の薄氷を踏むような大勝利によって幕を閉じた。
十倍の伊東軍三千に対し、義弘はわずかな手勢と白鳥山・本地口への綿密な伏兵配置、そして土着の民や神社をも総動員した備えを極限まで駆使し、泥水をすすりながら奇跡的に勝ちを拾い上げたのである。
一方、加久藤城の搦手を預けられた十四歳の楠千代丸もまた、孟宗竹防弾束と兵站のピストン輸送によって敵の猛攻を耐え抜いた。中村兼貞、長吉、疾風というかけがえのない手勢三名を失う過酷な痛恨を味わいながらも、城を守り抜き、十二名を生還させるという健闘を果たしていた。
激戦の翌日、飯野城の大広間。
煤と血にまみれた板敷きの上座で、夜叉の隈取が汗で崩れた島津義弘が、荒い息を吐きながら論功行賞の場に座していた。
逃げる伊東軍を「粥餅田」まで追撃し、敵を掃討して戻ってきた新納忠元が、血脂で刃のこぼれた大身槍を従者に預け、どっかりと板敷きに胡坐をかいている。
その広間の隅に、血に汚れた母の守り刀を腰に差し、静かに平伏する十四歳の楠千代丸と、疲弊しきった弥三郎ら十二名が控えていた。
義弘が低く問う。
「加久藤城代・川上忠智より注進を聞いた。又八、そなた首級はいくつ挙げた」
千代丸は微動だにせず答えた。
「首は、一つも取っておりません」
広間に居並ぶ武将たちがざわめく。だが千代丸は怯まず続けた。
「手勢十五人のうち、三名が討死。残る十二人を連れて、城を守り抜いて帰還いたしました」
「十五人を率い、十二人を連れて帰ったか」
義弘が目を細めたその時――床を鳴らして立ち上がった男がいた。新納忠元である。
忠元はのしのしと千代丸の前まで歩み寄ると、仁王のような巨躯を屈め、じっと少年の顔を覗き込んだ。
「そなたが、大隅の又八殿か」
地を這うような重低音。弥三郎が「ひっ」と喉を鳴らして縮み上がる。
だが千代丸は、逃げずにそのぎょろりとした眼光を真っ直ぐに見据え返した。
二人の視線が無言のまま交錯した瞬間――忠元の口元が、豪快に歪んだ。
「ガハハハハッ! 噂通りの面構えよ! 二年前、大口へ届いた極上の塩と豚汁の味、忘れもせんぞ!」
広間が凍りついた。義弘が怪訝そうに眉を寄せる。
「武蔵守? 貴様、又八を知っておるのか?」
「知っておるとも! 兵庫様、この小倅……いや、この若武者はな、二年前、大口が飢えと弾薬不足で干上がりかけた折、本家の蔵役人が見捨てた儂らに、極上の兵糧と孟宗竹を送り届けてくれた命の恩人よ!」
忠元は太い掌で、千代丸の肩をバシバシと力任せに叩いた。あまりの衝撃に千代丸の華奢な体が揺れる。
「首級など足軽の手柄に過ぎん! 狭隘地に孟宗竹を打ち込んで敵の足を止め、矢を滞りなく運び、部下を生かして連れ帰る……。泥水をすすって命を繋ぐことの重み、この大激戦を生き残った儂らには痛いほど解るわ! 兵庫様、儂はこの男を認めるぞ。この知恵と兵站があればこそ、前線の兵は安心して槍を振るえるのじゃ!」
家中随一の猛将にして長老格である新納忠元からの、無条件にして絶大な賛辞。
義弘は呆気にとられたように忠元を見つめ、やがてフッと口元を緩めた。
「ふっ。武蔵守にそこまで言わせるとはな。又八、面を上げよ」
千代丸が顔を上げる。
「貴様にいつまでも蔑称の又八などと名乗らせてはおけん。本日ただ今より、我が身内として元服を申し渡す。名は、亡き父上の『崇』の音を取り、蒲生の通字たる『清』を添えよ。『島津崇清』と名乗るがよい」
「島津崇清……」
平伏する千代丸の胸に、冷徹な計算と、確かな熱情が去来した。
本家の家督継承権を完全に断つ「崇」の変造名。だがそれは、正室方からの暗殺を避ける最高の防護壁であり、同時に島津の軍事の二大巨頭――「武神」島津義弘と「猛将」新納忠元という、家中最強の二人が後ろ盾となった瞬間であった。
平伏を解いた崇清に、忠元がニヤリと笑いかけて囁いた。
「崇清殿。次は、大口にどれほどの米を回してくれるのじゃ?」
「武蔵守殿。相応の鉄を掘り出してくださらねば、一石たりとも負けられませんよ」
「カッカッカ! 相変わらず強欲な商人よな!」
二人の間に交わされた視線には、戦国という乱世を「武力」と「兵站」の両輪で生き抜く者同士の、絶対の信頼が刻まれていた。




