第一章 北薩の泥濘、飢える鬼
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の外伝です
島津の家臣たちを描いていきます。
最初は新納忠元さんです。
元亀元年(一五七〇年)晩秋。
北薩摩と肥後の境に位置する大口城は、冷え冷えとした鉛色の霧に包まれていた。
空を突くようなシラスの断崖に穿たれた空堀には、数日前から降り続く冷雨が赤土混じりの泥水となって澱んでいる。その泥濘の底を、筵を被った足軽たちが青ざめた唇を震わせながら往来していた。
城内の一角、風雨を辛うじて凌ぐ粗末な板敷きから、朗々たる、されど低く地の底を這うような声が響いていた。
「武士の 鎧の袖を 濡らすらむ ただ一筋に 思い切る露」」
声の主は、四十半ばを越えた筋骨隆々の偉躯を、油の抜けた無地の小袖に包んでいた。
筋張った太い首、無数の刀傷が刻まれた浅黒い頬。ぎょろりと見開かれた眼光は、さながら仁王像が怒りを押し殺しているかのごとき威圧を放っている。
新納武蔵守忠元。
島津の北の防波堤、相良・菱刈の押さえとして大口城に立ち塞がる、家中随一の猛将である。
だが、その豪腕が握っているのは大身槍でも剛弓でもなく、一本の細身の矢立と、墨を吸わせた筆であった。
忠元の前には、十代前半の年若い士弟たち十数名が、冷水で悴んだ手を膝に揃え、背筋を凍りつかせて正座している。
「よいか。武士が戦場にて命を捨てるは、犬にでもできる雑作よ」
忠元は筆を板敷きに置き、静かに座中の少年たちを見回した。
「歌を解さぬ者に、人の心の綾は分からぬ。人の心の痛みが分からぬ者に、兵の命を預かる大将の器は持てぬ。槍を振るう前に筆を執れ。敵を討つ前に、己が何のために死に、何のために生きるのかを言の葉に刻め。それを怠る者を、儂は薩摩隼人とは認めん」
「は、ははっ!」
少年たちが平伏する。忠元は満足げに頷くと、破顔して豪快に笑った。
「よし、今日の座刀自はここまでじゃ! 腹が減っては歌も詠めまい。台所へ行って、雑炊の鍋を掻い潜ってまいれ!」
少年たちが安堵の声を上げて駆け出していく背中を見送った瞬間、忠元の顔から笑みが消えた。
鬼瓦のような渋面に戻った忠元は、板敷きの隅に控えていた老臣――平山彦四郎を手招きした。
「彦四郎。蔵の残りはどれほどじゃ」
低く濁った忠元の問いに、彦四郎は苦虫を噛み潰したように眉根を寄せ、手元の薄板を差し出した。
「申し上げます。兵糧米は残り二十日分。塩は底を突きかけており、兵たちの足腰に障りが出ております。何より……火薬の炭と硫黄はあれど、肝心の硝石と鉛が払底仕り候。鉄砲五十挺のうち、弾薬を込めて撃てるものは十挺にも満ちませぬ」
「またか」
忠元は忌々しげに額の古傷を掌で擦った。
「薩摩本国の内城へ送った補給の督促はどうなった」
「は。蔵役人より返答が参りました。『日向の伊東、大隅の肝付への備えで手一杯であり、北薩の山城へ回す余剰米も硝石もない。大口の地にて自給し、敵を食い止めよ』と……」
「へっ、畳の上で算盤しか弾けん蔵役人どもが!」
忠元は床板を拳で叩き割らんばかりに殴りつけた。
「自給せよじゃと? 昨年来の相良との小競り合いで、大口の田畑は焼け野原じゃ! 雑草と木の根を食ろうて敵の鉄砲を防げと申すか! 義久様も歳久様も、帳面の理屈ばかりが先立ち、泥水をすする前線の苦患が見えておらぬ!」
大口城は、薩摩・肥後・大隅を結ぶ結節点であり、ここが抜かれれば敵は一気に薩摩の腹元へと雪崩れ込む。まさに島津の急所だ。だが急所であるがゆえに孤立し、険しい山岳に阻まれて補給線は常に極細の糸のようだった。
兵が飢えれば、いくら忠元が「武士の魂」を説いたところで士気は崩壊する。
「いっそ、相良の陣へ夜襲を仕掛け、米を奪い取って参りましょうか」
彦四郎の捨て鉢な言葉に、忠元は鋭い眼光を飛ばした。
「戯れ言を抜かすな! 飢えた兵を夜戦に駆り出せば、無駄死にを増やすだけじゃ。儂が求めておるのは死に場所ではない。この城を保ち、若者らを生かして敵を押し返す確かな米と鉄じゃ!」
荒い息を吐く忠元の耳に、雨音に混じって、しめやかな足音が届いた。
城下の物見に出ていた小頭が音もなく滑り込んでくる。
「殿。妙な噂を耳にいたしました」
「妙な噂?」
「は。加久藤・飯野の商人や山伏どもの間で、密かに囁かれておる儀にございます。大隅の南端、肝付の包囲の中に放り込まれ、疾うに野垂れ死んだと思われていた蒲生の残党どもが、なぜか腐るほどの塩と干物、さらには見たこともない兵糧を山のように溜め込んでおると」
忠元は眉をひそめた。
「蒲生じゃと? 確か、四年前、高山城が落ちた折に、貴久様が厄介払いとして獅子目の荒野へ捨て置いた、あの妾腹の小倅のことか」
「左様にございます。名は楠千代丸……本家では又八様と呼ばれておる十二歳の童でございます」
「馬鹿を申せ」
彦四郎が鼻を鳴らした。
「十二歳の童と、滅びた蒲生の落人が、敵のど真ん中の荒れ地で生き残れるはずがなかろう。大姶良城の橋口勢に揉み潰され、草の露と消えたと聞いておるぞ」
「いえ……それが、消えるどころか、大姶良を押し返し、高須の港を押さえ、錦江湾の商人を手玉に取って巨利を得ておるとか。現に、飯野の陣屋には、高須から運ばれたという純白の塩が極秘に流れ込んでおりまする」
忠元は髭の生えた顎に手を当て、しばし沈黙した。
(楠千代丸……。蒲生範清の娘・楠御前が腹痛めて産んだ、あの童か)
忠元の脳裏に、かつて薩摩本国で耳にした風聞が蘇る。五歳にして石鹸なる奇妙な泥石を考案し、貴久公から直々に専売の利権をもぎ取ったという蒲生の怪童。
「彦四郎。大隅の獅子目とやらは、ここから遠いか」
「は? 霧島山系を越え、高隈の山懐を抜けねばなりませぬ。山伏の足でも三日はかかりますが……まさか、殿」
忠元の口元に、野獣のような獰猛な、それでいてどこか悪戯っぽい笑みが浮かんだ。
「本家の蔵役人が米を出さぬなら、他所から引っ張るまでのこと。大隅の捨て石が、どれほどの商売をしておるか、この新納武蔵守自ら、その喉元へ銭を投げ込んで確かめてやろうではないか」
二章へ続く




