第十四話 妻にならなくて、いいの?
カイエンの瞳に映った私は、少しだけ緊張した顔をしていた。
彼は私の言葉に、ゆっくりと微笑む。
「リュシー、ありがとう。でも」
(でも?)
カイエンは喜んでくれるかと思っていた。
ノアと一緒に、生活することができるのだ。離れて暮らさなくて良くなるのだから、嬉しいはず。
なのに──?
「それは、リュシーの心からの願い? それとも……ノアや俺を思っての、決心?」
その問いに、即答ができなかった。
「ここまで待ったんだ。君が俺を好きだと──自分で感じるまで、待つよ」
「カイエン……あの、えぇと」
「大丈夫。結果的にもしも、俺に対してそう感じることができなくても、ノアの父親として、できる限りのことはするし、会いにも来るから」
彼はそう言うと、私を促して立たせる。
「今夜はもう遅い。また明日──おやすみ、リュシー」
カイエンの言葉に、私は頷くと部屋に向かった。
(私の──気持ち)
***
「ね、寝過ごした……!」
昨日あれから考え込んでしまい、寝付くのが明け方になってしまったからか。
目が覚めたら、お昼過ぎだった。
(どうして誰も、起こしに来なかったの?!)
いつもであれば、誰かしらが朝の支度の手伝いに部屋に来る。
(とりあえず支度しなきゃ)
枕元のベルを鳴らしつつ、のそりと起きあがる。
すぐに侍女のアリサが現れた。
「お嬢さま、お目覚めですか。紅茶をご用意致しますね」
「ありがとう。ねぇ……どうして今朝は誰も起こしに来なかったの?」
「ああ! カイエン殿下が、昨夜遅かったから起こさないように、と」
「カイエンが?」
「はい。今朝早いお時間に、補佐官の方々と出かけられる際に、私共におっしゃられました」
「そうなのね。カイエンはどちらへ?」
「農場をもう一度見て、使っている農薬について話を聞きたい、と」
(なるほど。昨日ウモモ林で話したから、気になったのね)
「旦那様が、案内にジョッセルさんをつけられました」
ジョッセルは、我が家に住み込みの農業研究家だ。
彼がついているなら、安心だ。
アリサが淹れてくれた紅茶を飲み、朝の支度を終える。
「お嬢さま」
「あら、オセバの声ね。どうぞ」
「失礼致します。旦那様がお呼びです」
「お父さまが? 何かしら」
急ぎ、執務室へと向かう。
「お父さま、リュシアです」
「ああ、入りなさい」
お父さまの机には、多くの手紙が重なっていた。
「先ほど、グランメザン市場の代表者が届けに来た」
その手紙の束を、オセバが私に手渡す。
(なに……これ)
それは、グランメザン市場に出店している商人からの、苦情の束だった。
「──第二王子と名乗る男が、勝手に店頭の果物を食べては文句を言って金を払わない。第二王子の従者だと名乗る男が、店先のお菓子を勝手に開封して食べ散らかしては金を払わない。第二王子だと名乗る……」
全て昨日のことらしく、本当かはわからないが第二王子と名乗られては、平民では手が出せないとのことだった。
(それはそうよね……)
現行犯で捕まえたとしても、もしも本当に第二王子だった場合、王族への不敬罪と取られる可能性だってある。
「お父さま……」
「さすがにこれはやり過ぎだ。アレは一体何をしに、我が領地に来たのか」
お父さまが怒っているのが分かる。
それはそうだ。
大事な領民、大事な市場で、好き勝手をされたのだから。
私だって、今すぐにでもヴェルナーの首に縄をかけて、領地中を馬で引きずり回してやりたい気持ちだ。
「第二王子には、すぐにでも王都にお帰り頂く。無事に王都に辿り着くかは、アレの運次第だが」
(これは、絶対に王都まで生きて帰れないだろうな)
「リュシーは、今日一日は別館でノアと過ごしていなさい」
「ええ。そうするわ」
ヴェルナーとはもう二度と、会うことはないだろう。
そんなことを思いながら、私は別館に向かうために前庭へと出た。
(えっ、なんでいるの?!)
前庭は別館へと続いているから、許可なく立ち入りはできなくなっている。
それなのに。
「……ヴェルナー殿下。どうしてこちらに?」
何故、ここにヴェルナーがいるのだろうか。
私の声に、にたりと笑みを浮かべる。
(カイエンと同じ黒髪に赤い瞳。それなのにどうしてこんなにも、受ける印象が違うのか)
「別に。兄上だってここを散策してただろ。だったら私が入っても、問題はなかろう」
「許可はだしておりません」
「は? 私は王族だぞ? お前ごときが、私に指図するというのか」
「ここは、アストレア辺境伯領主の屋敷です」
「だからなんだと──そうか。私の気を引こうとしているのか」
「なにを……」
そのとき。
ヴェルナーの向こうに、ノアの姿が見えてしまった。
(だめ! ノア、こっちに来てはだめ!)
私の心の声とは裏腹に、ノアはこちらへと近付こうとする。
「お母さま! カイエンさんと一緒なの?」
「あぁ?!」
ノアの声に、ヴェルナーが振り向く。
後ろ姿を見て、ノアはヴェルナーとカイエンを見間違えたのだ。
「ノアっ! すぐに別館に戻りなさいっ!」
「……へぇ」
ヴェルナーを押しのけ、ノアへと駆け寄ろうとした瞬間。
私の腕をヴェルナーが掴む。
「なに、を……」
「あの目、王家の色だな」
「離し……」
ヴェルナーが私を引き寄せ、抱きしめてきた。
「面白い。息子がいたか……」
その声に、体が硬直する。
(だめ。この男に引っ張られてはだめよ……!)
ヴェルナーの下卑た笑い声が、耳元で響く。
この男の指先が、私の腰を撫でる。
(気持ち……悪……っ)
吐きそうになる気持ちを必死に抑え、奥歯を噛み締めた。
「リュシア。私の妻になれ」
「馬鹿なことをっ!」
どうにかヴェルナーの腕の中から抜けようと藻掻くが、力が強くて身動きがとれない。
ヴェルナーの肩越しに見えるノアは、この男の気迫に驚き、座り込んでしまっている。
(あぁ、ノア。ごめんなさい……。怖いわよね……。すぐに助けに)
「馬鹿なことか? 断るなら……お前の息子は、これから安眠できなくなるだろうな」
「ふ、ざけ……っ」
「ふざけてなど、ないさ。お前の大切な人間を、少しずつ消していったっていいんだぞ」
この男を。王妃を。ホーツグリル公爵を。
そいつら全てを消さないと、ノアを守れない。
お腹の奥底から、熱い何かが這い上がってくる。
「お前が私の妻になれば、このアストレア辺境伯は私の言いなりだ」
けれど、私の怒りとは反対に、ヴェルナーの腕の強すぎる力に、気が遠くなりそうになる。
(息が……苦しい……)
「おか……お母さまーっ!」
私の異変を感じ取ったノアが、泣き叫ぶ。
その声が、庭中に響く。
(あぁ、ノア……ごめん。誰か……誰かノアを守って……)
「リュシー!」
声が、聞こえた。
それと同時に、大きな音がして、体がふわりと宙に浮く。
浮いたまま、優しく抱きしめられた。
(この、声は──)
ぼんやりと遠くなる意識の元、見えたのは。
殴り飛ばされたヴェルナー。そして、私を抱きしめる優しいガーネットの瞳。
「てめぇ……! この場でたたっ斬ってやる!」
その瞳の優しさとは反対に、聞いたことのないような、カイエンの地を這うような低い声。
「ノアを……おねが……」
「リュシー!」
そのまま、私の意識は遠ざかった。




