第十話 私、もしかして口説かれてますか?
私の元に駆け寄ってきたノアを、膝立ちで受け止める。
「お母さま……、おきゃくさま?」
「俺はカイエンという名だ」
後ろに立っていたカイエンは、私の肩に顎を乗せるノアの目線にあわせしゃがみ込むと、そう名乗った。
その声が、少しだけ掠れている。
「カイエンさん」
小さくそう呟くと、ノアは私から下り、カイエンの前に立つ。
そうして、習ったばかりの貴族の挨拶をしてみせた。
「僕はノア・アストレアです」
そのしっかりとした挨拶に、思わず顔がほころんでしまう。
(違う! ノアの挨拶に、ほっこりしている場合じゃないのよ!)
「リュシーの騎士さんかな?」
「そう! 僕はお母さまを守るんです」
「お母さま、ね」
何かを言いたげに私をちらりと見るカイエンに、私は両手を挙げて降参の意を示した。
「カイエン、全部話すわ」
私の言葉に、カイエンは頷く。
「カイエンさん、僕とおんなじおめめだね」
「ああ……。一緒だな」
カイエンは柔らかく笑い、ノアの頭を優しく撫でた。
「ノア、お母さまはカイエンとお話があるの。カイエンには、あとで遊んで貰いましょう」
「うん! カイエンさん、また後でね!」
「サリー、ノアをお願いね。皆で中庭に」
「はい。ノア坊ちゃま、中庭で私と遊びましょう」
「うん! 僕、色探しゲームしたい」
そう言いながら、サリーと手を繋ぎ中庭に向かうノアを、後ろから見送る。
私はカイエンを促し、近くの使用人にお茶を頼むと、同じように中庭に向かった。
「あの瞳の色。あれは王家の色だ」
「ええ。間違いなくあの子──ノアは、あなたの子よ」
紅茶を淹れ、使用人が下がると、カイエンはおもむろに口を開く。
ノアを見られてしまった以上、誤魔化すことも、これ以上隠すこともできない。
彼の視線の先には、サリーと遊ぶノアがいた。
(それに、今屋敷にはヴェルナーがいる。なら、カイエンには知っていて貰う方が、結果的には良いのかもしれない)
私は、彼と離婚したあとに、妊娠していることが判明したこと、領地で生んで、家族皆でノアを育てていることを話した。
「なんで……黙ってた」
カイエンの声は、震えている。
もしかしたら、血を分けた自分の子に、何もできなかったからだろうか。
でもノアを、王位継承権争いに巻き込ませるわけにはいかない。
事実、ヴェルナーが王太子の座を狙っているのだ。
「ノアを継承権争いに巻き込みたくなかったの」
「継承権争い、って……。俺と君の子なら、俺の次に王位継承者となるだろう。争うことなんてない」
「でも、カイエンはこのあと、結婚するでしょう?」
私の言葉に、カイエンが黙る。
やっぱりそうなのね。ヴェルナーの言ってたことはともかくとしても、彼には政治的に後ろ盾となる、結婚が必要だ。
けれどすぐにカイエンは、不思議そうな顔で私を見る。
「いや、リュシー。結婚したら、問題がなくなるじゃないか」
「問題がなくなる?! むしろ問題は大きくなるでしょう」
「どうしてだよ。俺は息子を諦めないといけないのか?」
「何を言ってるの?! 私はノアを手放さないわよ!」
「誰が手放せっていった! 結婚すれば、俺はノアとリュシーを……」
そこまで言って、カイエンは言葉を止めた。
(え? 私とノアを……?)
カイエンは立ち上がり、私の前に跪く。
「ちょ、ちょっと。カイエン、何して」
「リュシー。リュシア。──リュシア・アストレア」
「は、はい……」
その真剣な瞳に、思わず姿勢を正してしまう。
「俺は、君の不在を嘆かない日は、一日たりともなかった」
(まって、まって?!)
「契約結婚を求められたときも、君の心を無理に引き留めたくはないと思って受けたが」
「え……」
カイエンは、私の手をそっと取る。
その手が、震えていた。
「この四年、君を危険に晒す奴らの排除を進め、ようやくあと少しのところまできたんだ」
そうして、その手に口づけをした。
(カイエンの唇が触れた場所が、なんだか……熱い)
彼は、まるでガラス細工のように壊れそうな声で、私に告げる。
「リュシー。どうか、もう一度俺の手を取ってくれないか」
見上げてくるガーネットの赤い瞳。
それは、ノアの色と同じでいて、それでいて全然違う。
熱い、熱い、視線。
私はどうして、今までこの瞳に気付かなかったのだろうか。
「返事は……今、すぐには……」
「俺のこと、信用できないか?」
少しだけ寂しそうに言うカイエンに、驚いてしまう。
「私、カイエンのことを、信用しなかったことなんて、一度もないわよ」
そう告げると、彼はくしゃりと笑った。
「そうか──そうか……」
「ただ、私はカイエンのことをその──男性として……まだ」
(そりゃ、カイエンと別れた直後は、少し寂しいなって思ったり、久しぶりに会ったカイエンに少しドキドキしたけど……)
四年前よりも、格好良くなったカイエンを見たから、単純にそう感じたんだろう。カイエンの優しさは、昔と変わらない。家族になったときと変わらなかった。
(……あれ?)
カイエンの言い方だと、まるで結婚してたときから、私を好きだったような──。いやぁ、まさかね。完全なる政略結婚に、好きだの愛だのって。
「リュシー。少しずつで構わない。改めて俺を夫にしても良いか、考えてくれないか? もちろんノアのことも、全力で守る」
私が黙っていると、カイエンは言葉を続ける。
このままじゃ、私はノアを連れて王宮に戻ることになるの?
まだ、農業の研究もしたいし、ノアだって王宮の陰謀とかに巻き込みたくない。
「で、でも! カイエンを夫にする、ってことは、私は王太子妃にまた戻るってことでしょ?」
「ああ。でも、もう危険分子の残りは、今回処断できそうだし」
「ぶ、物騒な……!」
「だから、安心して再婚しよう」
「いや、あの、もしかして四年前、問題なく離婚できたのって……」
「リュシーの命を狙う、愚かどもがいたからな。君の命を守るために、と泣く泣く別れたんだよ。辺境伯とルーファスは知ってるはずだが」
(私は、知らなかったけど?!)
「そ、それに新しい結婚相手!」
両手で人の形を作って、結婚相手を示す。
彼は、小首を傾げ、口を開いた。
「さっきから、リュシーが言ってる『結婚相手』ってなんなんだ?」
「え、そりゃカイエンの後ろ盾になる、政治的にも見た目的にも完璧な令嬢との」
しどろもどろに言えば、カイエンが笑い出した。
「なに?! なんで笑うのよ。もう! 私だって、カイエンのことを心配して」
「今言った条件って、さ」
(私が言った条件?)
「リュシー、君に当てはまるって……思わない?」
(私とカイエンが結婚したら、我がアストレア辺境伯家は、カイエンの後ろ盾になる。確かに後ろ盾としては、強い)
何と言っても、国一番の軍事力があるのだ。
「でも、見た目的には」
「俺にとって、リュシー以外は路傍の石にしか、見えないけど」
「それはないでしょ」
きっぱりと言い切れば、カイエンは楽しげに笑う。
「本当さ。現に、この四年──いや、リュシーと結婚する前までだって、浮いた噂はもちろん、実際に触れ合った女なんていない」
「ショルグ侯爵令嬢は?」
「誰だそれ」
(あ、やっぱり)
「さっきヴェルナー殿下に聞いたんだけど」
「あいつと話したのか? まさか、二人きりじゃないだろうな」
「え、二人きりだけど」
「あいつ……今すぐ消す」
私の言葉に、カイエンが立ち上がり腰の剣を引き抜こうとする。
「ちょっと! ノアがいる場所で剣なんか抜かないで!」
「……すまん」
大人しく座り直すカイエンは、まるで犬のようだ。
(昔から、私の言葉はしっかりと聞いてくれたのよね)
「いやでも、本当にあいつは危険なんだ。リュシー頼むから、二度とあいつと二人きりにならないでくれ」
「わかったわ、約束する。でも、さっきも偶然なのよ。ここへの近道のつもりで、うっかり、殿下のいる部屋の前を通っちゃって」
大きく溜め息を吐くと、カイエンは手で額を支える。
「リュシー。再婚して欲しいという気持ちはもちろん強い。だが今はまず、ヴェルナーから、君とノアを守ることが最優先だ」
その言葉に、私は否やを唱える必要などなかった。
「カイエン」
彼の瞳を真っ直ぐに見つめる。
「私とあなたの子、ノアをお願い」
カイエンは、優しく微笑んだ。