□一人遊びテクニック
ファッキン数日前の自分。
などと中指を立てたところでしょうがない。
実際こうして生き延びてしまったのだから、ここは覚悟を決めて、せめて形だけでも殊勝な人間とやらを目指さなければならないのが世の常だろう。
最初に結論だけ説明すると、なぜか私の人生があそこで終わることはなかった。
それどころか今の私は、魔王様の生贄であり客人でありペットであり……
一言で説明するにしきれない、なにがなんだかよく分からない待遇だ。
おそらく現在、この城の中で私の立ち位置を正確に把握している知的生命体は、誰一人として存在しないことだろう。
なにせ当事者の私と元凶の魔王様がそれを把握していないのだから、むしろ理解されてたまるかコンチクショウ。
本来であれば、ここに至る経緯をまず初めに書き連ねようかとも思ったのだが。
よくよく考えてみれば、日記の一ページ目からそんなことを書いたのでは色々と重いし、なにより後から読み返すであろう未来の私に優しくない。
そんなわけで、事の次第はしばらく先まで割愛させてもらうことにする。
さて、前置きはこれくらいにして。
とりあえず日記を書くにあたり、私は大きな問題を一つ抱えていた。
――日記とはいったい何を書けばいいのか?
私は文字を読み書きするのが嫌いではない。
むしろ好きな方だと答えて差し支えないくらいだ。
趣味らしい趣味もなく、しいて言うなら屋敷でのメイド業務が趣味だった私にとって、公文書偽造の仕事が一番性に合っていた。
同僚のメイドからは理解されなかったが、辞書と首ったけになりながら文章を理解し読み解いていく作業は、不思議と私の心を落ち着けるのである。
だがしかし、それが日記となると話が変わってしまう。
何を書けばいいかが定型文化されている代筆作業と比べると、自由度が高すぎてどこから着手したものか。こと日記に関してニワカの名を欲しいままにする私の頭では、さっぱり見当もつかないのだ。
正直に告白すると、馬車で黄昏モードで何かを悟っていたときの私は、「セレブな人間はなんか日記とかこまめに書いているものだ」くらいの感覚でしか物を考えていなかった。
日記に何を書くのが正解かなど、おおよそ文化人カースト最下層に生息する私には知る由もないのである。
実際こうして分厚い日記帳の一ページ目を前に、随分と長い時間考えこんではいるものの、どうにもこうにも筆が進まない。
このままでは壺のインクが乾燥する様をジッと眺めて見ているだけの、至極一般的な文官と同程度の生き物になってしまう。
しかし、ここは魔族の領土の奥深く。
どころか、彼の魔王様がおわします魔王城の中心地。
ついでに言えば、私が居座っているこの客間のすぐ目の前が魔王様の寝室だ。
ようするに、現在の環境では日記について誰か他の人間に尋ねることすらままならないのである。
とは言え、これでは埒が明かない。
まずは日記とは如何なる存在であるのか。その根源について思考を巡らせてみるとしよう。
どうやって日記を書くのか、ではなく何のために日記を書くのか。
人はなぜ日記を付けるのか。
わざわざ見える形で記憶を保存するのだから、それはきっと後から読み返すためなのだろう。
そして他者に見せつけたいのなら、最初から手紙にして届ければいいわけで。
わざわざ冊子状にして棚に保管するのだから、それはきっと人の目を盗んで自分一人でこっそりと楽しむためのものなのだろう。
なるほど。つまり日記とは、書いて楽しく読んでなお楽しい、究極の一人遊びテクニックということか。
そう悟った瞬間、なんか訳が分からない全能感が胸にこみ上げてきて、私は無意識にキラリン☆と半眼を輝かせた。
なんだろう、この人類史の禁忌に触れたかのような高揚感は。
特に“一人遊びテクニック”という言い回しが、どうしてだか私の琴線をいたく刺激するのだ。
一人遊びでテクニックとは……
なんとも業の深いわかりみを感じる……
私はフンスと鼻息を鳴らして興奮を抑えると、三つ編みを揺らして胸をウキウキさせながら日記帳にかぶりつく。
よし。それでは知りえた世界の真理に従って、私はこれから存分に一人遊びするとしよう。
えっと、羽根ペンの先を整えてっと。
……
いや待て、重要なことを忘れていた。この城には魔王様がいるではないか。
いざインク壺にペンを突き入れようとしたところで、私はあたり前の事実を思い出して愕然とした。
私が日記帳とペンとインクを所望したことは、あの参謀殿を通じて魔王様の耳にも届いているハズ。
あの愉悦と快楽の化身様が、私が一人遊びしていると知って行動を起こさないはずがない。
だとすれば、あの魔王様なら絶対に探そうとするに決まっている。
最初は興味のない風を装いながら、私がある程度一人遊びの経験を積んだところで突然部屋に押し入って来るのは明白。そして私の他人に見せられない恥ずかしいところをイヤらしく視姦した挙句、それをネタに嬉々として私を辱めるのだ。
チクショウ、なんという変態。
いくら人類を恐怖の淵に追い込んだ魔王様とはいえ、やって良いことと悪いことがあるだろうに。
それならいっそ、本を部屋以外のどこか目に付かない場所に隠してしまうか?
私はそう思って部屋の周りを透視してみたが、すぐに絶望顔で三つ編みを振る。
否、それだけは絶対にダメだ。ただでさえ私はこの城唯一の人間(かつペット)、なにをどうしても目立ってしまう。
部屋の外に隠すというだけでも発見のリスクが上がるというのに、持ち運びの危険まで増やしてしまい完全な逆効果だ。
くそっ。まさか人目を忍んで一人遊びするのがここまで難しい行為だったとは。
かと言って、一度スると決めた以上、意地でも一人遊びしなければ私というキャラクターの沽券に関わる。
どうすればいい。私はいったいどうすればいいのだ!!
私が力強く机を叩くと、待ちぼうけを受けた羽根ペンが悲しく転がった。
そして揺れる羽根ペンを見下ろしながら、私は己に言い聞かせるようにゆっくりと深呼吸を繰り返す。
よし、ひとまず落ち着くんだ私。
焦るんじゃない、私は一人遊びがしたいだけなんだ。
だとすれば考え方を変えてみよう。見られちゃってもいいさと考えるんだ。
すっかりカサが減ってしまったインク壺を眺めながら、私は荒ぶる心を必死に沈めた。
どうあがいても魔王様に見られるという未来を覆せないのであれば、もう最初から魔王様に見られる前提で一人遊びすればいいじゃないか。
日記というテイを崩すことなく、それでいて自分ではなく魔王様が楽しめるエンターテイメント性のある読み物を提供する。
目的が自分ではなく他人を楽しませるものに変わるだけで、結局のところヤることはヤるのだから、その本質は何も変わらない。どころか、むしろ人に見てもらえて興奮するまであるのではなかろうか?
我ながらの妙案に、私は思わずほくそ笑む。
だとすれば、この日記の方向性も自ずと見えてくるというもの。
これが読み物であるというならば、そしてその読み手が魔王様だというのならば、まず記録することは登場人物たちの名前と経歴の整理だ。
城を練り歩いて出会った人々のことを、あることないこと連なり建てる。
そうしていけば、色々と足りない私の頭でもそれほど苦労せずページを埋めることができるし、あの部下の名前を覚えない系上司の魔王様にとってもちょうどいい健忘録となるだろう。
ならば、このまま座して思考を巡らすほど愚かなことはない。この白紙の日記帳ともしばしのお別れだ。
……まあ、まだ愛着が沸くほど向き合ってもいなかったのだけれど。
私は一応申し訳なさそうに本を閉じ、ペンやインク壺と一緒に引き出しにしまってから、身の丈より大分大きな椅子から飛び降りた。
さて、それではまず一番に誰に会いに行くべきか。
そんなことを考えながらも、結局結論は一つしかないことを私は知っている。
日記の一行目に書くが相応しく、
日記の一行目に書かれていなければ決して許されず、
日記の一行目に書いておけばとりあえず機嫌を良くしてくれる扱いやすい存在。
つまり我らが主こと、愉悦と快楽と単細胞の化身である魔王様のところだ。
私は着ているドレスの襟を正すと、かつて自分が仕えていた領主の部屋より三倍は広く豪勢な客間から飛び出した。