後日談 他の目線から見た御巣鷹の尾根
この作品は1998年5月より取材を行い、2008年11月に完成、2011年2月に「小説家になろう」様に投稿しました。
その際に読者より希望がありました主人公の人生を新たに起こして掲載しました。
2011年3月11日 長野県某所
地区で知り合った10歳年上の友人(仮名T氏)に呑みに誘われ、地元の居酒屋へ行きました。
まだ東日本大震災が発生して5時間。
誰もが居酒屋のテレビの津波映像を見て、その話題でもちきりだったが、まだ上空から惨状を映したものが少なく被害の全貌も知られておらず、ましてや福島第一原発が危機的状況だとは誰も想像しておらず、誰もが「大変なことになったね」位の認識でしかなく、まさか2万5千人も死傷者を出す大惨事になるなんて誰も考えてもいませんでした。
彼はカーマニアの私に次に買う車のアドバイスが欲しいと沢山のカタログを持参してきました。
彼に言わせると、今の国産車は優秀すぎてつまらないので外車が良いとの事でした。
そして話しているうちに80年代の話になり、80年代の国産車は楽しかったと話は盛り上がりました。
すると彼は、こうボソっと呟きました。
「あいつらも御巣鷹で死ななきゃどんなオッサンになってたかなあ。」
私は彼には御巣鷹の尾根の話を調べて書いたなんて一切話していなかったので驚き、私の小説のことを教えました。
すると、彼は私の肩を力強くポンと叩いて、握り締めました。
「お前な、見込まれて頼られてんだよ、あの山の連中によ!」
私は愛想笑いを浮かべ、返す言葉がありませんでした。
彼は私の目を見て言いました。
「あのよ、オレはマジで言ってんだ、じゃなかったら何でプロの小説家じゃないお前がここまで取材出来てるんだよ、大体、お前の目の前にいる奴はあの事故で友人2人亡くしてんだぞ?何でそんな偶然があるもんか、頼られてんだよお前は!俺たちが生きていたんだ、忘れないでくれよと!」
帰宅してからご遺族関係者用の写真名簿で確認すると、確かにT氏が証言した2名が存在し、私は酔いが一気に覚めてしまいました。
後日、御巣鷹の尾根が冬季閉鎖解除になってすぐ現地に確認しに行きました。
一人はT氏と東京で小学校から大学まで親友だったU氏、もう一人は中学の同級生だったO氏。
事務所で警察が作成した遺体発見現場と乗客名簿を確認し、シート位置と遺体発見現場を確認し、現地に登ると、U氏の墓標を生存者発見地点のスゲの沢にて確認。
O氏は警察のリストでは空白でした。
現場写真を撮影し、その事を後日T氏に報告に行くと「そうか、Uが居たか。」と呟いて、家の中に招いてくれました。
出されたのはビールとつまみと旧いアルバム。
「まさか今頃、まったく関係の無かった奴とあいつの話を肴に呑むとはなあ。」
U氏は東京の焼き鳥屋の長男で、店は弟に任せて家を飛び出し、大阪の繊維会社に就職し、お盆休暇で婚約者を連れて実家に挨拶に戻ったそうである。
彼は婚約者を先に大阪に帰らせ、T氏を含む友人達と飲み会で大いに盛り上がった後に帰ろうとしたが、そのまま二度と大阪に帰ることは無かった。
T氏はその後、U氏の家族と連携し友人と共に、私が当小説内で書いた客室乗務員のご遺族のように、夜な夜な情報収集に現場付近を走り回ったという。
T氏曰く、当時は他にも似たようなことをやったグループが多々居ただろうという。
因みに山梨でも私の知り合いの猟友会メンバーが事故当時ハム(民間無線)で情報を収集し、事故現場特定に奔走したとお伺いしたこともありました。
T氏はその後、U氏の検屍にも立ち会ったが、まるで只寝ているように無傷だったという。
生存者の近くだったので衝撃が少なかったようだが、もう少し救助が早ければ生きていたかもしれない、と残念そうに語られました。
T氏はアルバムの小学校の運動会の写真を指を差して説明をしてくれました。
「これはオレがUをブチ抜いてやった時の写真、オレは今はデブだが当時はスポーツマンだったんだぜ!」
すると後ろから何気に、
「何言ってんだコノヤロ!それはお前をぶち抜こうとしてる写真なんだよ!」とU氏の声が聞こえた気がしました。
大学の時のバイクでのツーリング写真。
当時はよく走りに行ったという。
T氏のガレージには、なんと今も当時のT氏の愛車、スズキ・ガンマ250と、U氏の愛車ホンダMVX250が保管してあった。
U氏の愛車は亡くなった時に引き取った遺品ということでした。
O氏に関しては墓標は見つかりませんでしたが、T氏の話では彼は遺体どころか遺品のひとつも発見されず、ご遺族に「何も見つからないのでは死んだ扱いして欲しくない」との事で現地の記録も無く、被害者名簿にも写真掲載を拒否したそうである。
最後にT氏はこう語りました。
「当時はあいつらもオレも26歳。今はもう立派なオヤジ。あと20年経てばまたあいつらと遊べるかなあ。」