5
その日の放課後、奈月が俺のクラスにやって来た。
さっさと帰ろうと鞄を引っかけて教室の扉を出たところで、寒い廊下に立っているその姿を目にして、俺は舌打ちしそうになった。
俺が奈月のクラスに顔を出すことはよくあっても、あちらのほうから来たことなんて、数えるくらいしかないっていうのに。なんでまたよりにもよって、今日この時に。
「どしたの」
奈月の前に立って訊ねる俺の口調は、自分でもわかるくらいにはっきりと、冷たいほど素っ気なかった。こちらを見上げてくる奈月の目が少し困惑したように瞬いて、俺はそこから視線を逸らす。
「本屋に一緒に行くって言ってくれてたでしょ? 今日、どうかなと思って」
遠慮がちにそう言って、「ごめん、突然だったかな」と奈月が申し訳なさそうに謝った。
でもそれは、謝るようなことじゃない。塾に行ってもあまり数学の点が伸びなくて悩む奈月に、じゃあいっそ中学生レベルくらいまで遡って順番にやってみたらいいんじゃないの、というアドバイスをしたのは俺だ。そうすれば自分がどういうところが苦手なのかわかるし、どこで躓いているのかもわかる。簡単な問題をスラスラ解ければ、自信に繋がる。それはいい方法かも、と目を輝かせた奈月に、じゃあ今度参考書を選ぶのに付き合うよ、と約束したのも俺自身。
いつでもいいから、と請け負ったあの時は、こんなにも突然状況が変わるとは思ってもいなかった。本屋に寄るだけってのもつまらないし、ついでにあちこちの店を奈月と廻ってみるのも面白そうだな、と楽しみにしていたくらいなのだが。
「悪い、今日は無理だ」
「そうなんだ……ううん、いきなり誘いに来た私が悪いんだよ。じゃあ、いつならいい?」
「…………」
笑みを浮かべて予定を訊ねる奈月の顔を、黙って見返した。
それから顔を上げ、立っている奈月の後ろの廊下へと目をやった。ばらばらと教室から出て昇降口へと向かう生徒たちの姿に混じって、一人の人物がまっすぐこちらに近づいてくる。
俺はそちらを見ながら、口を開いた。
「──たぶん、ずっと無理だと思う」
「え。そんなに忙しい?」
「俺じゃなくて、奈月が無理だ」
俺がそう言うと、奈月はきょとんとした顔になった。私? と問い返して怪訝そうに眉を寄せる。
その肩に、ぽんと大きな手が置かれた。
「奈月」
奈月が振り返り、背後に立つ長身の男の姿を認め、驚いて目を見開く。
「……たもっちゃん?」
「ちょっと、話があるんだ」
保は、奈月にそう言ってから、ちらっとこちらを見た。俺は表情を変えずにその視線を受け止め、それから、窓の外へと顔を向けた。
窓ガラスの向こうで、冬の空は薄暗く曇り、強く吹きつける木枯らしが茶色の葉っぱを宙に舞わせている。
「なに?」
奈月の声はさらりとして、特に含んでいるものはないように聞こえた。保に対する感情はとても一言で表せられないくらいに複雑なのだろうけど、奈月はそれをそのまま顔や態度に出す人間じゃない。何も知らないやつからは、普通の友人同士、としか見えないだろう。
良くも悪くも、奈月は感情を抑え込むのが上手だ。だから周囲からは、わりと誤解されやすい。その上人見知りだから、友達を作るのも不得手。幼い頃からずっとそばにいた保は、そういう意味でも奈月にとって特別な人間だっただろう。
「ここじゃ話せない。一緒に武道場まで来てくれないか。今日は部活がなくて誰もいないから」
保の言葉に、奈月はほんのちょっとだけ顔を顰めた。少しためらってから、俺のほうを向く。
「じゃあ、穂積くんも一緒に」
その目にわずかな懇願の色が浮かんでいるのを見て取って、俺はなんだか笑いそうになってしまった。ちっとも笑いたい気分ではないけど、それ以外にどうしたらいいのかわからなかったのだ。いつもいつも、適当に愛想笑いで受け流しているから、こんな時に全力でしっぺ返しをされる羽目になる。
「俺は無理だよ」
「だったら、今度、穂積くんの都合のいい時で」
保の「話」とやらを聞くのは三人で、ということにしたいらしい。奈月は奈月で、保と二人きりになるのは決まりが悪いとか、居たたまれないとか、そんな気持ちもあるんだろうか。あるいは、現在の保が彼女持ちだから、という理由かもしれない。奈月はホント、そういうところで真面目だから。
皮肉な話だよな。保と三人でいた時、奈月が自分から俺に寄ってくることはなかった。今になって、奈月は保と話す場に俺の存在を求めている。
でも、目の前で保と奈月のやり取りを見せつけられるのは御免だ。俺はきっともう、保しか目に入らない奈月の姿を見ても、楽しいなんて思えない。今も、これからも。
「ずっと無理って言ったろ? 俺はもうお前たちには関わらない」
「え──」
奈月が口をまるく開けて、俺の顔を見る。
俺は唇を上げ、彼女に向かって笑いかけた。微笑になってるといいんだけど。
「じゃあね、奈月」
そう言って、茫然としている奈月と、怒ったような顔をしている保を置いて、足早にその場から立ち去った。
***
学校を出たものの、まっすぐ家に帰る気にはなれなかった。
かといって、寄り道をする気にもならない。しょうがないので、近くの公園に入ることにした。
何もせずにぼーっとしているのも間抜けだし、あの高校生ちょっと危ないぞと通報されてもイヤなので、欲しくもない缶コーヒーを自販機で買ってベンチに座る。
吹きさらしの公園には、人っ子一人いなかった。子供の姿がない遊具も、イチャつくカップルのいない小さな噴水も、誰からも見捨てられたようで寂しげに映る。
寒気は厳しく、じっとしているだけで、あっという間に身体は冷えた。ただ一つだけ、ぽかぽかとした熱をもつホットコーヒーの缶を手の中で転がして、目線を落とす。
……今頃、あの二人は何を話してんのかね。
紆余曲折の末結ばれて、明るいハッピーエンドでも迎えてるんだろうか。保はあの愛想のない顔で、奈月に何を言うのだろう。謝罪か、弁解か、それとも愛の告白か。あるいはそれさえもすっ飛ばして、実力行使で自分の本当の気持ちってやつを伝えるつもりか。
奈月は、それをどんな顔して聞くんだろ。
映画の中のヒロインは、さんざんじれったい思いをさせられたことをちょっとだけ責めて、でも泣いて、やっぱり最後には幸せそうに笑ってたんだっけ。
奈月のことだから、保を責めるようなことは言わないのかな。落ち着いて話を聞いて、理解を示すのか? いや、でも、それはいくらなんでも保に甘すぎるだろう。ああでも、奈月はあれで感激しやすいところもあるし、泣きだしちゃったりすることはあるかもな。それで……
「……はは」
虚ろな笑いが口から出た。
バカじゃないのか、俺。そんなこと考えたって、しょうがないじゃん。あれこれ勝手に想像してぐるぐると余計なことばっかり考えてどうすんだ。お節介というよりは、出歯亀根性ってやつじゃないか。自分にはそういうの、ほとんどないと思ってたんだけどな。
──俺はただの第三者、あくまでも傍観者に過ぎないんだから。
ずっと最初からそうだった。俺自身、その立ち位置で満足していたはず。保と奈月の二人と、俺。いつでも離れることが出来る気楽な立場だ。それを選んでいたのは自分。はじめから。
……はじめから、そうだった、はずなのに。
いつの間に、変化してた? 本当に傍観者を貫くのだったら、俺は保があのマネージャーと付き合いはじめた時に、奈月からも距離を置くべきだった。保に恋する奈月を見るのが好きだっただけなら、その恋が破れた時に、奈月に対してもすっかり興味を失っていたはずだった。
ちっともこちらを見ない奈月。俺はそれを楽しんでいたんじゃなかったのか。
いつから、彼女の視線を独り占めしたいと思うようになったんだろう。
奈月の心がまだ保に向いていることを知って、どうしようもなく自分の中の何かが傷ついたのは、どうしてだったんだろう。
手の中の缶コーヒーに、ぽつりと水滴が落ちた。
最初、雪でも降りはじめたのかと思った。まだ時期は早いけど、この寒さと、どんよりとした空模様から、白いものが舞ってもおかしくない。
でも、次に自分の親指に落ちた水滴は、ちっとも冷たくなかった。
「……ウソだろ」
自分でも唖然として、思わず声が出た。
熱い滴は雨でも雪でもなくて、自分の目から零れ落ちている。それに気づいて、心の底から驚いた。まさかウソだろ、この俺が。今までずっと薄っぺらい人間関係しか築けずに、人を好きになるっていうのがどういうことだかもわからなかった、この俺が。
泣いちゃってるよ。
冗談だろ、と正直思った。だってもう高校二年生だぞ。決して初心なほうじゃない。そこそこ経験だってある。今まで付き合ってきた女の子たちと別れても、まったくなんとも思わなかったのに。
たったひとつの失恋くらいで泣くのか。誰かを好きになるっていうのは、こんなにも心臓が鷲掴みにされているように苦しいものだったのか。体中が痛くて痛くて、今にも叫びだしそうになるくらい。
「……っ」
強く奥歯を喰いしばっても、目から涙が零れ落ちていくのは止められなかった。缶を握る手が震えている。
ああくそ、信じらんない。みっともない。情けない。たかが女の子が一人、別の男のものになるだけ。他に星の数ほど女はいるじゃないか。付き合って、と言ってきた子に、うんと返せばそれでいいだけ。彼女なんて、すぐに出来る。
──けど、奈月は一人しかいないんだ。
友達の延長線上の「彼女」はすぐに出来ても、それはイコール「好きな子」にはならない。
何度も繰り返した挙句、ようやくそんな基本的なことを知る俺は、もしかしたら正真正銘のアホなのかもしれない。
自分に踏み込まれることを忌避し、浅く広くしか人と関わろうとしない。俺はそういうろくでもない人間のまま一生を送るのかと、半ば諦め、半ば怯えて、考えていた。いつかは誰かを特別な存在に思うようになれるのかもしれないと、交際を申し込まれては了承し、そのたび「やっぱり違う」と放り出す。こんなことを、もしかしたらこれからもずっと続けていくのかと。
でも、そんなことなかった。俺だってちゃんと、人を好きになることが出来ていた。自分で気づかないうちに、こんなにも。
俺のように器用にはなれない奈月。でも、俺にないものをたくさん持っている奈月。一途に保だけを見つめる奈月が好きだったのは、面白かったからじゃなくて、どうしても心惹かれずにいられなかったからだ。
不純なものが混じらない、その綺麗で透明な横顔に。
奈月がいいんだ。奈月しかダメなんだ。奈月だけを、ずっと見ていたいんだ。
……だったら。
まだ温もりの残る缶コーヒーをベンチの上に置いた。
拳でぐいっと目許を拭い、決然と立ち上がる。
だったら、こんなことしてる場合じゃないよな。
保がどんな話をして、二人がどうなっていようと、知るもんか。
傍観するのはもうやめた。
結果なんてどうでもいい。俺も奈月に、言いたいことを言おう。奈月の心が他のほうに向いていても、ちゃんと俺の気持ちを伝えた上で、きっぱりとフラれてこよう。
そうしなきゃ、俺のはじめての恋心は、着地点を見失って空に浮いたままだ。
俺は地を蹴って、走り出した。
穂積くんも一緒に、と言った時の、奈月の心細そうな瞳を思い出す。奈月は俺のことをまっすぐに見てた。確かにあの時、彼女は俺を必要としていたのに、俺はそこから目を逸らした。振りほどいて、突き放した。
ごめん、奈月。俺ってサイテーだったよな。
がむしゃらに全力で走った。通りすがりの人が、何事かと目を丸くして俺を見る。ああホント、みっともない。誰かを好きになるって、ちっともカッコよくない。ただひたすら、見苦しく足掻くだけ。
もう逃げない。降りない。諦めない。かわさない。
──だから、もう一度。
***
「なんだ、来たのか」
学校の校門まで辿り着いたところで、保と会った。
隣に、奈月の姿はない。保はまるで誰かを待ち構えるようにして、校門にもたれて立っていた。この寒いのに、上着もなしで、白い息を吐きだしながら。
公園から学校までずっと走って、肩で息をしている俺を見ても、別段驚きもしない。ちょっと忌々しそうな顔はしたけれど、どこかほっとしたように目つきを和らげて、俺の頭からつま先までをざっと検分するように眺めた。
「惜しいな。このまま来なけりゃ、何が何でも割り込んでやろうと思ってたんだが」
ほんの少し残念そうにため息をつく。
「──奈月は?」
「武道場。一応屋根はあるとはいえ、外だからな。凍える前に行ってやれよ」
「は……?」
意味が判らず、俺は立ち尽くしたが、保のほうにはまったく説明する意思がないらしい。ふてくされたような表情はしているが、これまでのように眉を吊り上げて怒ってはいなかった。
「奈月と、話……したんだろ?」
「したよ。ま、どう返されるかはわかってたんだけどな。これもケジメだと思って。お前は知らないだろうが、奈月は結構おっかねえぞ」
肩を竦めて言いながら、こりこりと指で頬を掻く。寒さで──にしては、気のせいか、左の頬だけがやけにくっきりと赤かった。
「言ったろ。奈月のことは俺がよく知ってる」
「……言ってたね。俺みたいなやつを、奈月が選ぶわけないって」
「ついさっきまでの穂積なら、な」
そう言ってから、あーあ、といろんなものを空中に投げるような声を出した。
「つくづく、自分のバカさ加減がイヤになるよなあ。きっと俺にはまだ、女の子と付き合う、なんてのは早いんだ。しばらく剣道一筋でいくことにする」
大人になるって案外ムツカシイな、と独り言のように呟き、校門から身体を離して歩き出す。脇を通り過ぎがてら、俺の背中をどんと突き飛ばすようにして校門の内側へと押した。
「くそったれ」
ぼそりと悪態をついて、遠ざかる背中は、もうこちらを振り返ることはなかった。
***
武道場に行くと、奈月は入口に通じる階段の二段目のところにちょこんと腰かけていた。
ぐるぐる首に巻きつけたマフラーに鼻のところまで埋め、手袋をした両手で頬杖を突いている。部活がないから、建物は施錠されて入れないのだろう。確かに屋根はあるけど、薄汚れた下駄箱くらいしか風を遮るものがないその場所は、かなり寒そうだった。
「……奈月」
「遅い」
ゆっくり近寄っていって声をかけると、こちらを向いた奈月はぷうと頬を膨らませて文句を言った。遅いって……ひょっとして、俺のこと待ってたのか?
「風邪ひいちゃうぞ。いつまでこんなところに座り込んでるつもりだったんだよ」
「本当だよ。いつまでいるつもりだったんだろ。穂積くんが来なかったら、明日の朝、凍死体で発見されてたかもね」
口を尖らせ、わりと笑えない冗談を言う。どこまで本気なのかはわからないが、少なくとも、俺が来るまでここにいよう、という気持ちではあったらしい。
「…………」
なんか、胸が上擦ってきた。鼓動がうるさいくらい鳴っている。
なんだこれ。もしかして、俺、期待しちゃっていいのか?
ちょっと迷ってから、足を動かし、奈月の隣に腰を下ろした。奈月の口から拒絶の言葉は出ない。制服越しに伝わるコンクリートの階段はハンパなく冷たくて氷のようだったが、そんなことも気にならなかった。
「──保の話、聞いた?」
俺の問いに、奈月がこっくりと頷く。普段とあまり変わらないその顔からは、彼女が何を思っているのかは読み取れない。
「見て」
おもむろに、奈月が自分の右の手袋を外した。パーの状態にした掌を、俺に向ける。
真っ赤だ。
「……どしたの、これ」
「たもっちゃんを殴ったら、こうなった。どう考えても、あっちより私の被害のほうが大きい。たもっちゃんて、どこもかしこも頑丈にできてて、ちょっとムカつく」
「…………」
確かに、保の頬よりも、奈月の掌のほうが痛そう。
「殴ったの?」
「殴ったね」
奈月はもしかして俺と会話をする気がないのだろうか。質問に対する一言だけの答えからは、どうしてそういうことになったのか、という過程がすっぽりと抜け落ちていて、おまけに当の本人はそれきりむっとした顔で前を向き、口を結んでしまっている。
「でも、奈月はまだ、保のことが好きだって」
そう言いかけた途端、奈月がすごい勢いでくるっとこっちを振り向いて、眉を上げた。
「私、そんなこと言ってない」
「ウソだ、言った」
「言ってない。ちっちゃい頃からたもっちゃんのことが好きだった、とは言ったけど」
「その気持ちを捨てたり忘れたりすることは出来ない、って」
「当たり前でしょ?!」
奈月が怒鳴った。
はじめて、声を荒げるところを見た。奈月って怒ることもあるんだ、と頭の一部は冷静に思うものの、実を言うと俺も動揺して、度を失いかけていた。
奈月の目に、うっすらと涙が浮かんでいたからだ。
うわ、すごい破壊力。好きな子の泣くところって、こんなにも胸に響くもんか。新しい発見だ。いやでも本当のところ、これはキツい。土下座して謝りたい衝動に駆られる。
「ずっと、十年以上、好きだったんだから。その気持ちを、ぽんとあっさり忘れてしまうことなんてできない。それくらい、大事なものだった。それをどうして捨ててしまわなきゃいけないの? 時間をかけて心の下のほうまで埋めていって、いつか自分の一部になればいいなと思うのは、いけないこと? でもそれは、『たもっちゃんのことをまだ好き』っていうのとは違う。まったく違う。今さらたもっちゃんに何を言われても、私にはもうそれは終わったことだから無理、って返したのは、そんなに変?」
「……そっか」
一気に投げつけられた言葉に、俺は静かに頷いた。
そうか、そうだよな。奈月にとって、保への気持ちは十年以上かけて培ってきた、ものすごく重くて、尊くて、大切なものなんだ。たとえそれが破れても、だからって簡単に放り捨てることは出来ない、と考えるのは当たり前のことだった。
つらくても、しんどくても、奈月はそうやって自分の気持ちと向き合い、受け止め、乗り越えて、いつか穏やかな思い出に変わるよう、少しずつ頑張っていたんだ。
保に一直線の思慕を向ける奈月を、なんて幼いのかと俺は思ったけど。
とんでもない思い上がりだ。
奈月は、俺なんかよりもずっと大人だった。
奈月を見ていると、俺は自分が自分で思っていたよりも、ぜんぜん大人じゃなかったことを思い知らされる。そして自分が知っていると思っていたよりも、ぜんぜんいろんなことを知らなかった、ということも。
やっぱり、奈月はすごい。
本当に、眩しい。
「奈月、俺と付き合って」
もう一度、その言葉を口にした。以前のように、断られること前提じゃない。実際に前と同じように速攻で断られたら、きっと地の底まで落ち込むだろうけど、言わずにはいられなかった。
奈月は今度は、間髪入れずに「付き合わない」と返してはこなかった。耳を赤くして、けれど眉は上げたまま、口をへの字にして俺を睨みつけた。
「なんで?」
「…………」
そう来たか。
奈月はどうやらまだ怒っているらしい。勝手なことばかり言う、保にも俺にも。無理はないと思うので、俺は奈月と正面から向き合い、真面目に、そして正直に言った。
「理由はない。ただ、好きだから」
「…………」
今度は奈月が口を噤む番だ。掌と耳だけでなく、顔全体が赤く染まった。
すん、と軽く鼻を啜って、俺を見る。
「私、もう、穂積くんのこと、苦手じゃないよ」
「うん」
「今の自分に、新しい気持ちがあるのもわかってる」
「うん」
「……でも、もう少し、待って。私、まだ、完全に気持ちの整理がついてない」
「うん。待つよ」
そう言って、今度はちゃんと微笑んだ。
きっと俺は、待てると思う。
待ってる間に、自分ももうちょっとマシなやつになろうと思う。
奈月に認めてもらえるように頑張ろうと、素直に思う。
……それに、これからどう奈月を口説いていくか、考えるだけでも楽しそうだ。
「じゃあ、帰ろうか。本当に風邪をひきそうだしね」
階段から立ち上がりながら手を差し出すと、奈月は目をぱちぱちと瞬いてその手を見て、それから俺を見上げた。
俺はにこっと笑った。
「手を繋いで帰ろ」
「…………」
奈月が両手を組み合わせて、隠すように胸元に押し当てる。
「やだ」
「なんで?」
「恥ずかしいから。それにまだ付き合ってるわけじゃないのに」
「それとこれとは別でしょ? だってこんなに寒いんだから、あったかくしないと指が凍傷になっちゃうでしょ? 奈月は手袋があるからいいけど、俺は何も持ってないんだよ? 言ってみれば、人助けじゃない?」
「…………」
畳み掛けると、奈月は「……もう」とため息と共に言いながら、それでも、手袋を取った自分の右手を俺の手の上に載せ、立ち上がった。
ぎゅっと握って、二人で歩き出す。
「穂積くんは、『友達』とも、こういうことするの?」
赤い顔を下に向けながら、ぼそぼそと奈月が言う。
「しない。俺、他人と必要以上に近づくの好きじゃないし」
「そういうところが偏屈で了見が狭いって……」
「女の子と手を繋いで堂々と道を歩くなんて、今までにしたことない。恥ずかしいじゃん」
「今は恥ずかしくないの?」
「それよりも嬉しい。奈月は特別だから」
「…………」
奈月は黙ってしまった。
重ねている手から、ほっこりとした熱が伝わる。
俺は今までに感じたことのない幸福をしみじみと味わいながら、前を向いて足を踏み出した。
完結しました。ありがとうございました!