大海原家食堂広間 2
多香乃が、カートを押してしずかに食堂広間のドアを開ける。
「お出かけになられましたか?」
年配男性のしぶい声とともに、執事の大江 正房が食堂広間の一角の庭につづく廊下から顔を出した。
多香乃がふり向く。
目を丸くして大江の姿を凝視した。
「大江さん、大海原家にもどっていらし……?」
「や、これはまだ早かったですか。失礼いたしました」
大江がそそくさと廊下のほうにもどる。
食堂広間の大きな窓から見える庭の茂みのまえを、大柄な正装の姿が去っていくのが見えた。
多香乃は、大柄なスーツの姿をぼうぜんと見送った。
「……もどっていらしたというわけではない? どういう」
多香乃が、ゆっくりと告に目線を移した。
「僕としては、これアラビア語かペルシャ語じゃないかと思うんだよね。アラビア語とペルシャ語の見分け方って、一つしかしらないんだけど」
告はタブレット画面をながめながら味噌汁を飲んだ。
なめこのヌルヌルを舌に感じる。
「……どういうことですか、告さん」
多香乃が眉をよせる。
告は味噌汁の茶碗をテーブルに置き、おひたしを口にした。
タブレット画面をスクロールする。
「ペルシャ語って、もともとパピプペポの発音を表記する文字がなかったんだけど、近年になって既存の文字に点を一つ加えた文字をつくって、それで表記できるようにしたんだよね」
「告さん……」
多香乃の眉間のしわが険しくなる。
告はだし巻き卵を箸で分けた。
ゆっくりと口にする。
「パピプペポがないのに、“ペルシャ” って呼び名はどうしてたんだっていうと、これは他称で自分たちは “イラン” って言ってたから何の問題もなかったわけで」
「説明していただけますか、告さん」
告はだし巻き卵をモグモグと口にした。
「告さん」
多香乃の声音が低くなる。
「このパピプペポをあらわす文字がアラビア語にはないから、まあこれがあればかんたんに区別がつけられるんだけど」
「……告さん」
多香乃が睨む。
「だし巻き卵おいしいよ」
告は答えた。
「説明をさきにしてください」
「確率的にはアラビア語だと思ったほうが可能性あるかなって。今回のはあきらかに日本人が書いた見よう見まねのやつだし」
告はふっくらと炊けたご飯を口にした。
「なんで見よう見まねって……」
「多香乃さん、教会の出勤時間は大丈夫?」
多香乃がエプロンのポケットに入れたスマホをとりだす。
時間の表示を見て、パタパタとカートの取手をつかみドアを開けた。
「またあしたねー」
告は味噌汁を飲みながらそう声をかけた。
「失礼いたしました」
五分後。
執事の大江があらためて庭に通じるドアから現れ、一礼した。
想定外のことがあろうが何だろうが、身につけた正装がきちんと決まっているのはさすがだ。
「べつに戻ることなかったよ、大江さん。そのまま多香乃さんに朝食運んでもらえばよかったのに」
告はデザートのヨーグルトを口にした。
「ご当主さまとおなじテーブルでいただくわけにはいきません。お台所の使用人用テーブルでいただきます」
大江がそう返事をする。
「僕、一人で食べるのさみしいんだけど」
「ご幼少のころからお一人ではありませんか」
大江が言う。
「いっぺんでいいから大勢の家族で肉のとり合いして口汚く罵倒しあって食べてみたくない?」
「……何を見た影響てすか」
大江が白い眉をひそめる。
「このまえかけた間違い電話。小さい子が出たんで、間違えましたすみませんって切ろうとしたら、“今日焼き肉なの”って言われて、うしろから小学校高学年くらいの男子女子の罵り合う声が」
ヨーグルト用のスプーンが、陶器の器でカチャカチャと音を立てる。
「八十島さまにお願いしては」
「警察官だから一般人ムダに罵倒したら立場がヤバい」
告はため息をついた。
食べ終わった器にスプーンをカランと置く。
「多香乃さんのあの毒舌っぷりなら、いっしょにお食事すれば 何かおもしろい罵倒がくるかと思ったんだけど」
告は、椅子の背もたれに背中をあずけた。
おもむろに壁の時計を見る。
「まあいいや。出かけてくるね」
「お気をつけて」
大江が一礼した。




