精霊と妖魔
「静かに! 想定したよりも少し早かったわね!」
紅緋が険しい顔をして空の一点を見つめている。その空間を紙袋を破く様にして僕の体の倍はあろうかという蜘蛛のような生物が這い出してきた。
その生物は頭胸部と腹部に分かれていて頭胸部からは4対の歩脚と1対の触肢、口からは鎌状の鋏角が出ている。
腹部は赤、黒、黄色の3色の体毛で覆われていて、背中の部分にはその体毛によってまるで人の叫んでいる顔の様な模様を浮かびあがらせている。
「な、何なのあれ!」
「だから! さっき言ったでしょ! あれがあたし達が戦う妖魔。まあ、下っ端の妖魔だけどね」
そう言うと右手のひらに炎のようなものを出した。
僕はあまりの異様な光景に身動きさえ出来なかったのだが、一つの疑問が脳裏をよぎった。
街外れではあるが此処はまだ人通りもある。なのに誰もこの光景を見て騒ぎ出す人もいない。一体どうなっているのかと他の人を見てみるとまるで時間が止まっているかのように人が動かない。いや! 微かだが動いている。スーパースローの動画を見ているかのようだ。
「何ボーッとしてるんだ! 下っ端の妖魔とはいえ咬まれると精神を支配されるぞ!」
「ええっ! そうなの⁉︎」
僕は慌てて物陰に隠れた。
「さてと、右手も暖まってきたし、そろそろかな」
そう言った紅緋の右手にあった炎がまるで短剣のように大きくなっている。その炎の短剣を逆手に持ち替えて蜘蛛の妖魔に向かって地面を蹴って飛び上がる。
「ハアァァァァッ!」
紅緋はその勢いのままに妖に体ごと突進して行く。蜘蛛の妖魔はそれを待ち構えるように口を開けて大きな鋏角を剥き出しにしている。
「紅緋! そのまま進むと咬まれるよ!」
「分かってる! ありがと!」
僕の声に応じた紅緋は蜘蛛の妖魔の鋏角の射程に入る瞬間に足で空中を二度蹴り腰の辺りを中心にして回転する。
そしてそのまま真下にある蜘蛛の妖魔の頭に炎の短剣を突き立てる。
物が焼き焦げる様な異臭と共に紅緋の短剣が妖魔の頭にめり込んでいく。
「唸れ! 炎紅刃!」
紅緋がそう叫ぶと短剣の炎は蜘蛛の妖魔の体を包み込み全てを焼き尽くした。
「……っと!」
蜘蛛の妖魔を倒した紅緋は空中で一回転して身軽に着地する。
「大丈夫? 紅緋?」
「どうってこと無いさ。あんなの軽く倒せるよ」
自信満々の笑顔で答える紅緋に僕はさっきの疑問をぶつけてみた。
「何だか周りの人達の様子がおかしいんだけど、動きが遅いし、こちらの事に気がついて無いようだし」
「あぁ、その事か。あたしら精霊がこの姿になっている時と妖魔が出た時に時間の進むスピードが変わるんだ。因みにこちらの時間の進むスピードは通常時間の一秒が二時間になるから他の人達にはあたしらの姿すら見えないと思うよ」
「そうなのか……それでみんなは紅緋や妖魔の存在に気づかないってことか」
「うん。そして気づかないままに妖魔に精神を支配される」
「えーっ! そうなの?」
「こっちの言葉で魔が差すっていうのがあるでしょ。全てがそうだとは言えないんだけど、妖魔に精神を支配されている事が多いんだよ」
「そうなんだ。でも妖魔が原因で事件、事故が起きるとしたら怖い話だね」
「まあ、そうならない為にあたしと未來が一緒に妖魔を退治するってこと」
「えーっ、僕も一緒なの?」
「もちろんそうだよ」
そう言って紅緋は右手を差し出す。
「というわけで、これからよろしく!」
僕は差し出された右手を見て、さっき炎の短剣が出現していた事を思い出して紅緋に尋ねてみた。
「えーと、紅緋の手を握って火傷なんてしないよね?」
「しないよ! 失礼な奴だな!」
少し拗ねたような顔をしている紅緋に僕は笑いながらその手をしっかりと握り返して言った。
「こちらこそよろしく!」