終 人質皇妃はお断りです
「皇国のためと陛下が仰るなら、人質の役はつとめます。でも、お飾り皇妃なんて、いやなの。だって、私が住むところ、食べるもの、着るもの、これからはすべて、ウェリス皇国の民の税でまかなわれることになるでしょう? だったら、そのぶん、私にも皇妃としての仕事を、ちゃんとさせてください。そうじゃないと、私、すてきな宮殿も、おいしいお料理やお菓子も、きれいなドレスも、ぜんぶ、心の底からたのしめないと思うから……いつも言葉にならない罪悪感と隣り合わせなんて、いや」
アイリーンが真剣に訴えると、シグルスは黒曜石の眸をやや見開いた。
けれどもすぐに、ふ、と、口許をゆるめる。
「やはりいいな、おまえは。――知っているかどうかしらんが、皇妃ってのは、かつては皇帝の共同統治者だったらしいぞ。なんならおまえ、やってみるか?」
「共同統治……?」
「そう。俺の、共同統治者。――たとえば俺は、おまえから預かった砂糖に、その他にもいろいろと役に立ちそうな薬も加えて、下町の医者に届けさせた。この皇国の最高権力者だからな、皇帝ってのは。そういうことも己の意志ひとつでできるわけだ。皇妃になれば、おまえにもそういうことが可能になる」
「っ、たとえば、もっと大規模に、皇都の難民たちがいつでも頼れるような施薬院みたいな施設をつくったりもできますか?」
アイリーンが思わず身を乗り出すようにしていうと、シグルスは一瞬驚き、それから頬をゆるめた。
「もちろん、できる」
「っ、では、そういう仕組みを国中に広げていくことも?」
「できるよ。ただ、思いつきを形に……政策にしていくためには、どうしたって官吏たちの理解と協力が要る。だが、逆に言えば、そういう細々としたことは官吏がやってくれるんだ。だから、俺たちの仕事というのは、民のため国のためになることを日々懸命に考え、思いついて、必要とあらば命じること、それだけだ」
父であるトレノエル辺境伯が、我が領地を富ませ、我が領民を守るために日々努めている姿を、アイリーンは見てきた。けれども女子であるアイリーンは、男兄弟たちのように、領地経営について学ぶ機会を与えてはもらえなかったのだ。
(陛下の、共同統治者……)
アイリーンは心の中でその言葉を反芻してみた。妙に胸がどきどきしていた。
「でも」
ふと不安になって、アイリーンはおずおずとシグルスを見た。
「でも、陛下……私は十二歳の、子供です」
(それでもいいのかしら……できる?)
アイリーンは思って、エメラルドの眸を不安にゆらゆらと揺らめかせた。シグルスは、くすん、と、肩をすくめる。
「そうだな。おまえは子供、できることなどたかが知れているだろう。たいして期待はしていない」
はっきりと言われて、やっぱり、と、アイリーンはくちびるを噛んだ。
すると不意に、シグルスの大きな手が、ぽん、と、アイリーンの頭に乗せられる。
「ちがうぞ。いまのはいい意味で言ったんだ。おまえにできることを、できるだけやってくれればいいってことさ。――無理も背伸びもしなくていいし、間違ったって、失敗したって、いいんだ。おまえは子供なんだから。特権だよ、子供の。フォローは俺たち大人がする。だからおまえは、気負わず、おまえらしくあればいい。おまえの、まだ曇りのないその眸でこの国を見て、澄んだ心で感じて、まだやわらかいままの頭で考えてくれればいい」
「いいの……? 私もいっしょに、この国のことを考えて……」
アイリーンはおずおずと訊いた。
「もちろん、いいさ。もとから明日以降、おまえには朝議にも出てもらうつもりだったし、常に俺の傍に置いておこうとも思っていた。――そういえば、父親の執務室が遊び場だったと言っていたな? なら、ちょうどいいだろう?」
「でも、私……女の子です」
女が政治に関わるなど、考えられないことだった。実家では父や男兄弟たちに従い、嫁いでは家で夫を待ち、彼を癒すのが女の仕事だ。子を産み、育てるのが役割だ、と、世間の常識はそんなもので、だからすこし難しい勉強をしているだけでも、白い目で見られてしまう。それが、女性というものではないのか。
けれども驚くアイリーンに、シグルスは何でもないことのように言った。
「気にすることか? 実際、南部では女性官吏の登用もはじめている。考えてもみろよ、国民の半分は女なんだぞ。それなのに男ばかりで、いい政ができると思うか?」
「でき……ないかも、しれません」
「だろう? 俺たち男にはどうしたって、女の気持ちがわからんところもあるからな。それで行き届かないことが出てくるのでは問題だ。――皇国全体でも、その辺りは変えていかなければならないと思ってはいるんだが……」
なんのこだわりもなく言うシグルスを、アイリーンはなんとも言えない気持ちで見詰めた。
うつけと噂されるこの人は、その実、とんでもない切れ者の為政者ではないのか。
そして、それ以上に、いっそ夢想家めいた、理想家なのかもしれない。変革者なのかもしれない。
高く掲げた理想へと、一歩一歩、力強く前進していこうとする人――……そんな人が、アイリーンの夫になったのだ。
(いつか、この方の隣に、ほんとうの意味でちゃんと並んで立てるようになれるかしら)
「わ、たし……」
政治なんて難しいことは、まだ、わからない。だって、アイリーンは子供だ。
けれども、わからないなら、学べばいいのだ。そしてシグルスは、アイリーンが心の赴くままに学ぼうとすることを、きっと、咎めたり笑ったりしないだろう――……そのことが、うれしい。
「とりあえず、あんたはこの国の女代表って顔をして、俺の隣に立っておけばいい」
「その……つとまりますか、私に?」
「あ? やってくれる気なんだろう? ――お飾りはいやだとか生意気を言う、俺のちいさな皇妃陛下」
シグルスは軽口めかして言って、に、と、笑った。
アイリーンは、きゅっと表情を引き締める。
(そうだわ、私自身がが望んだことなんだもの)
がんばろう、と、ちいさな手をこぶしのかたちに握りしめた。
「俺の朝はまだまだ不安定だ。なにしろ、庭園で皇帝を襲う奴がいるくらいだからな。悪いが落ち着くまでの間、俺に付き合ってくれ、アイリーン」
「はい……陛下」
「ああ、そうだ、さっきの砂糖の件だが……おまえの言うところの施薬院のような施設の必要性について、俺とグイド……側近との間で、考えねばならんという話になってな。本来はもっと根本的な難民対策も講じなければならないんだが、当座の救済処置も大事だ。――近々具体的な検討に入るが、いっしょにやるか?」
「っ、やりたいです! ぜひ、お手伝いさせてください。その……とても、微力だと思いますが」
「いいさ。むしろ最初から何もかも完璧にされちゃあ、俺の立つ瀬がない。たのむよ」
「はい……いっぱい勉強して、せいいっぱいがんばります」
アイリーンが言うと、シグルスはつやめく黒曜石の眸を眇め、アイリーンを見た。
「よろしく」
大きな手が、ぽん、と、頭に載せられる。
アイリーンは、自分の目の前に、いままでとはまったくちがう世界が広がろうとしていることを感じていた。




