宝町
約10分後、彼女は宝町駅のホームに降り立った。龍平もこっそり後を追う。スラム街の饐えた匂いがホームに漂っている。改札口を出て、女は躊躇なく階段を登り2番出口から地上に出た。階段には反吐の痕のような黒いシミがそこかしこにどんよりとくすぼっていた。
地上に出ると、そこには龍平が今までに見たことのない異様な世界が在った。ごちゃごちゃと行き交う人の中にまともな者は一人も居ない。何日も風呂に入っていないような人が何かに酔ってふらふらと徘徊していた。まるで鬼の彷徨する異界のようである。
龍平はその世界の臭気に圧倒されながら、彼女の雰囲気とあまりにもかけ離れたこの世界に、彼女とどのようなつながりがあるのかと不思議に思った。この貴婦人が発するオーラに対し、あまりにも賤しい街であった。ところが、彼女は怯むどころか我が町の様にこの澱んだ空気の中を進んでいく。彼も少し遅れて後を追う。この街と彼女のつながりは、あのサングラスの奥の微笑みが明らかにするに違いない。そしてそのほほ笑みにこそ龍平は引きずり込まれているのであった。
身を隠すものなど無い。もし彼女が振り向けばすぐに見つかるだろう。しかし、彼女は振り向きそうな素振りも毛ほども見せず、只管足早に進んでいくのだった。暫くすると、彼女は小さな脇道に逸れた。その刹那、微かに後ろを振り返ったような気もしたが、彼女は気にする様子もなくその脇道に消えていった。龍平も続いて右に折れる。それはまるで夢の中のような路地で両脇に木造の長屋が続いており、小さな子どもがビニールプールで行水などもしていた。小便臭いスラムの世界から、急に落ち着いた日常の営みのある町並みに様変わりし、龍平は落ち着くどころかとても遠いところまで来てしまったように感じた。女は相変わらず10メートルほど先を進み続けている。暫く行くと堀に掛かる橋があり、その向こうに、道を塞ぐように大きな門が現れた。正面の観音扉とその横の木戸は開け放たれている。女は木戸をくぐり抜け、門の中に消えた。
続いて龍平も門の中に入った。するとそこは、まるで江戸時代にタイムスリップしたかのような花街であった。道の両側に間口の狭い木造の料亭が並び、それぞれに店の名を記した灯りが灯っている。通りにはそこそこの数の人間がぶらぶらと歩いている。龍平が女を見逃すまいと先を急ごうとすると、一軒の店の内から声がかかった。
「お兄さん、ちょっと見たって。この子綺麗やろ。」
ぎょっとしてそちらを覗くと、玄関の上がり框に胸元の開いたドレスを来た女性が座って、媚のある微笑みで此方を見ている。
「お兄さん、この子サービスええよ。上がったって。」
脇にいるエプロン掛けの年かさの女性がすかさず声をかける。
龍平は驚いて踵を返した。初な彼でもそこが何を目的とした街かを瞬時に理解することができた。
なんだ。ここはなんなんだ。ここは日本なのか。いや、現代なのか。まさかタイムスリップしたんじゃないだろうな。元の世界に戻れるだろうか。彼は踵を返した。
急いで大門を出ると、そこには平穏な下町風景がひろがっていた。最前とは逆向きに道を戻ると、あの小便臭いゲットーに出る。そしてまた左に曲がると地下鉄の駅があるはずだ。漸く一息ついて、龍平は後ろを振り返ってみた。今見たものは幻で振り向くともうなにもかもが消えてなくなっているのではないかと期待した。
が、やはりそこには今彼が踏み入ったばかりの花街が紛れも無く存在しているのであった。龍平はあまりのショックにサングラスの女を捨て、懐かしい現実の世界へ逃げ帰った。