絶望は告げる
直接的なものではありませんが残酷な描写があります
気を付けてお読みください
◇ ◇ ◇
母さんにはどれだけ返しきれない恩があるんだろう。
自分で思い返してみてもぼくという存在はよくできた人物ではなかったと思う。
あの夢を見た次の日なんてそれはもう酷いものだった。いまでこそ大人になって、朝起きた時に涙を流したり、気怠さが身体から抜けないくらいに収まったけれど、昔はそれとは比べ物にならなかった。
たぶん自分が自分であるということの確信が持てなくなったのだろう。もちろん子供の時だ。そんな風にはっきりと言語化できていたわけではない。それでも朝起きると言いようのないような不安に襲われる時が何度もあった。
泣きじゃくって縋りつくぼくをいつまでも優しくなだめていてくれたのは母さんだ。
長いときは一日中泣いていた。なぜだか分からないけれど涙が止まらなかった。それでも母さんはぼくを優しく包み込んでくれていた。
幼稚園や小学校に上がった時もそうだった。弁当の用意や、必要なものの支度まで全て手伝ってくれていた。
元々父さんがこの村にいることはあまりなかった。
軍人だった父さんは王都で有事に備えなくてはならなかった。だからあまりこの村に帰ってくることはなかった。
年に数回帰ってくるだけで、それ以外はぼくと母さんの二人でこの広い宿屋に住んでいた。
朝、早くから仕事を始める。夜遅くぼくが寝付いたあとも次の日の支度をする。母さんはずっと一人で頑張っていた。
父さんが死んだときだって母さんはぼくを慰めてくれていた。
一番泣いてしまいたいのは自分だろうにずっと気丈に振舞ってぼくを守ろうとしてくれた。
それでも母さんだって一人の人間だった。強くなんてなかった。
父さんが死んでから数か月して、母さんは倒れた。
医者が言うには疲労だったそうだ。母さんは入院することになった。
その間ぼくはヴァルトおじさんの家に預けられた。
毎日ぼくは母さんの病室に通った。
母さんはいつも笑って、ぼくを出迎えてくれた。
でもぼくは聞いたんだ。開こうとした病室の扉から漏れてきた母さんのほほを涙が伝う音を。
母さんだって泣きたかったんだ。
ぼくのせいで泣けなかっただけで。
悲しみを外に吐き出す時間が必要だったんだ。
母さんはぼくが見ていることに全く気付かずに、父さんがくれたという小さなエメラルドがはめ込まれた結婚指輪を大切そうに胸に抱きながら泣いていた。
それを見ているとぼくまで胸が締め付けられて、部屋に入ることが出来なかった。
涙があふれて止まらなくて、そのまま病室から走り去ってしまった。
十年以上たった今だってそのことはぼくの胸の中に深く刻まれている。
あの日ぼくは決めたんだ。
母さんをぼくが支えるって。
だから。
だから、母さんが危険な目に遭っているのならぼくが助けなくてはいけない。
父さんの分までぼくがしっかりしないといけない。
◇ ◇ ◇
村の中心に向かう道はいつもとは全く違う顔をのぞかせていた。
ハミングするように流れていた小川も以前は魚たちが遊ぶ様子が見えるくらいに澄み切っていたのに、今では土交じりで魚どころか底すら見えない。
道路わきを彩っていた、名もなき雑草たちが咲かせる控えめな花たちも大勢の人が一度にここを走り抜けたせいでぐちゃぐちゃに踏み荒らされていた。
まだここまで敵の兵士は来ていないというのに日常が残っていないということは否が応でも感じざるをえなかった。
視界に映るすべてのものが壊れている気がした。
あと二、三か月もしたら収穫されるはずだった麦は青い色のままなぎ倒されていて、もう二度と立ち上がることはないんのだろう。
いつもは夕暮れのこの時間なら村まで少し距離のあるこの場所まで空っぽの胃をくすぐるいい匂いがしてくるはずなのに、今漂ってくるのは火薬の匂いと木が焼ける焦げ臭い匂いだけだ。
だんだん暗くなってきているのに村の方だけは明るい。立ち上る火の手が異常を知らしめるように明々と村を包んでいる。
吸い込む空気がぱさついて息がしづらくなる。
村の中心に行けば行くほど硝煙の匂いは強くなっていく。どんどん明るくなっていく。
守り神のようにそびえたつクスノキを右に、頼りない木製の門をくぐる。
そこは地獄のような光景だった。
いつもは荷物を運ぶ馬車がとおり、路肩では奥様方がなにやらおかしそうに話をしている。そんな景色が見られるはずの大通りは無残な姿になっていた。
道の両脇に立ち並ぶ露店の売り物はばらばらに散乱し、中には燃えている家もあった。これが戦場になった村なんだ。
それらはぼくにそう強く意識させた。
それでもまだこの先に敵が出ることが出来ていないのは衛士たちの必死の食い止めによるものだろう。
中心の外れにあるこの場所にも幸いまだ兵士は現れていない。
「ようやく追いついた。先を行き過ぎだ、トーリ」
後ろから肩に手をのせられ振り向くとそこにはナオトがいた。
ここまで全力疾走していきて、無様に膝に手をつき荒い呼吸をするぼくと違い、ナオトは涼しいとまでは言わないがさほど堪えた様子をしていなかった。
さすが訓練の賜物と言ったところだろうか。下り坂を下ってくるだけなら、これほどの長さを走ったとしても体力切れなどまったく起こさないようだ。ナオトは暑さで汗がにじんでいる以外はいつもと変わらない表情をしていた。
けれどそれも村の惨状を見るまでの話だ。
「何だよこれ」
辺りを見回したナオトがそう漏らした。その声に混じるものは恐怖だけではなかった。
ただ呆けているだけのぼくとは違い、ナオトは唇をかみしめている。
衛士としてこの村を守れなかったことを悔いているのだろう。
ぼくはナオトと違い何かを守れるだけの力はない。
けれど、それでも。
「母さんを助けに行かないと」
膝から手を放してぼくは呼吸を整える。
普段こんなに走ることなどないせいで足も震えだしている。けれど、母さんを見つけるまでは歩みを止めることは出来ない。
「おい、トーリ!」
立ち尽くすナオトを放り出し、ぼくはまた駆けだした。
走りながら横目に建物を見ていく。やはり中心に、いや、西へ行けばいくほど被害はひどくなっている。
定期的に地面を揺るがすような大きな音がしている。おそらく大砲かなにかを使っているのだろう。そして大砲の弾が命中したのだろう。
家が無残に上から押しつぶされている。そういう家がだんだん増えてくる。
そしてだんだん見てはいけないものが増えてくる。
死の匂いが立ち込めてくる。
飛び散った赤。瓦礫から除く小さな腕。
吐き気がする。怖さで涙がにじんでくる。
ぼくはどうすることも出来なくて、彼らにしてあげられることは何もなくて、目を逸らしたまま走り抜ける。
隙あらば嫌な予感がぼくの頭の中を支配しようとしてくる。
母さんはもう死んでいるんじゃないか。
そんなことが不意に浮かんでくる。湧いてしまった嫌な想像を消すために頭を振る。
そんなはずはない。
母さんが死ぬなんて、そんなはずはない。
信じて走り続ける。
そしてぼくは女神像の広場までたどり着いた。
誰からも敬われ、美しい姿見せてくれていた女神像は太ももの辺りからぽっきりと折れて、見るに堪えない姿になってしまった。
時折人の掛け声や、鉄がぶつかり合う鈍い音が聞こえてくる。
もう戦場が近いのだろう。
まだ母さんの姿は見えない。
「どこだ。どこにいるんだ、母さん」
焦りだけが募っていく。焦ったところでどうしようもないことは分かっている。
頭ではそう分かっているのだけれども、心がいうことを聞いてくれない。
早く見つけなきゃ。そう思う気持ちだけが膨れ上がっていく。
もっと西の方を目指そうとして女神像の横を走り抜ける。
いや、走り抜けようとした。
けれどできなかった。
粉々になった女神の下から緑色の光が漏れていたから。
緑色の小さな宝石がついた銀色の指輪が見えたから。
覚えている。
それは。
それは父さんが母さんに贈った指輪と同じものだ。
一歩、崩れ落ちた女神に近づく。
ああ、いやだ。見たら絶対後悔する。
周りの音が遠くなって自分の心臓がうるさい。
頭が、痛い。
手が見えている。
瓦礫をどかす。
顔が見える。
顔が見えてしまう。
分かっていた。気づいていた。だから、近づきたくなかった。
「母さんっっっ!!!!」
本当の絶望が顔をのぞかせる。




