第十八話:後世への注釈
三百秒。
天が下した 初期化 までの猶予は、一人の男が一生を振り返るには短すぎ、一行の嘘を書き残すには十分すぎる時間だった。
二条御所はもはや、天と地が混ざり合った無色の渦だ。
瓦礫は文字の欠片となって分解され、光秀も、家康も、これまで俺が救い、操ってきた人々は皆、深い眠りに落ちたようにその場に倒れ伏している。
「……は、……ぁ……」
感覚はない。感情もない。
俺という存在を繋ぎ止めていた 肉体 という名の器は、すでに霧散した。
今、この空間に漂っているのは、透明な意志の塊と、執念だけで宙に留まっている一本の筆だけだ。
「将軍。……いや、記述者よ」
唯一、右目の 理外の火 で正気を保っている伊達政宗が、消えゆく俺の輪郭を見つめていた。
「世界が白紙に戻るというなら、俺のこの命も、貴殿が綴った嘘も、すべて無かったことになるのか」
俺は、もはやフランシスコの声を借りる必要もなかった。
俺の意志は、直接政宗の脳裏に、そしてこの 崩壊しつつある世界システム へと直接刻み込まれる。
(……いや。白紙にはさせない。……俺が、この物語の『背表紙』になる)
俺は、自身の魂の最後の一滴を墨に変えた。
天の理が世界を消し去ろうとするなら、俺は世界の 注釈 になればいい。
人々の記憶の隅、歴史の教科書の行間、あるいは、誰も見ていない夜の闇の中。
そこに俺の嘘を、消えない 影 として染み込ませる。
『天の理は成らず。これよりこの世界は、足利義昭という「注釈」を伴い、不完全なまま永劫に続く。人々が絶望に沈む時、そこには必ず「嘘のような幸運」という名の、俺の書き込みが添えられるものとする』
書いた瞬間、空の 眼 が、断末魔のような光を放って弾け飛んだ。
世界を白紙に戻そうとする天の意志を、俺の執念が、黒い墨で無理やり塗り潰したのだ。
「……はは、……あはははは!」
政宗の笑い声が遠ざかる。
俺の視界から、すべての光が消えた。
――だが、それは絶望の闇ではなかった。
それは、どんな神も、どんな運命も立ち入ることのできない、俺だけの 書斎 の暗闇だ。
俺はもう、将軍ではない。
歴史という舞台に立つ役者でもない。
ただ、人々がふと立ち止まり、「もしかしたら、明日は良いことがあるかもしれない」と根拠のない嘘を自分につくとき。
その背後で、俺は今も筆を動かしている。
――歴史は、俺が守ってやる。
たとえそれが、世界で一番大きな「嘘」だとしても。
【第二部・完】
これにて、『追放された弱小将軍の俺、本能寺の変を「嘘」で上書きして天下を操る』、完結となります。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
義昭が命を削り、声を失い、姿を消してまで守り抜いた歴史。その結末を、作者として彼と共に走り抜けることができて幸せです。
もし、皆さんが明日に対してほんの少しの希望を感じた時、『ああ、これは義昭がどこかで筆を動かした結果かもしれないな』と、この物語を思い出していただければ、それに勝る喜びはありません。
応援、本当にありがとうございました!




