第十七話:白紙の覇王
二条御所の空間は、すでに 場所 としての意味を成していなかった。
瓦礫は重力を無視して螺旋を描き、空に開いた巨大な 眼 からは、涙のように真っ白な墨が溢れ出している。
俺の隣では、右目に 理外の火 を宿した伊達政宗が、抜き放った刀を構えていた。
「……来るぞ、将軍。空気が変わった。これはもはや、人の世の風ではない」
政宗の言う通りだった。
空の裂け目から、ゆっくりと一人の男が降り立ってきた。
漆黒の南蛮胴。腰に差した二振りの名刀。
そして、全てを見通すような、あまりにも傲岸不遜な眼差し。
「(……信……長……)」
フランシスコの声を借りるまでもなく、俺の脳がその名を叫んでいた。
だが、それは俺が知る織田信長ではない。肌は陶器のように白く、その輪郭からは絶えず 文字 の欠片が剥がれ落ちている。
天の理が、この世界で最も強力な 天下人の定義 を借りて作り出した、義昭を消去するための具現体――。
『宣告:物語の収束を拒む毒。個体「足利義昭」よ。貴殿の綴る嘘は、既にこの器の容量を超えた』
信長の姿をした 白紙の覇王 が、静かに一歩を踏み出す。
彼が歩くたび、俺が苦労して書き換えた 足利幕府再興 の事実が、足元からパラパラと消え、元の荒廃した歴史へと引き戻されていく。
「ふざけるな……! 俺が、俺の命を削って書いた物語だ。勝手に結末を流させるか!」
俺は感情を失いかけた頭を強引に燃やし、残された 触覚 を代償に差し出した。
――手のひらに触れる筆の感触が消えた。
――玉座の冷たさも、風の抵抗も、もはや何も感じない。
俺は今、暗闇の中で 思考 だけで筆を動かす、純粋な 記述の呪い と化していた。
『白紙の覇王が纏う「信長の姿」は、かつて俺が本能寺で救い損ねた未練の幻なり。その虚飾を剥ぎ、彼を「ただの無垢な紙」へと還せ』
俺は、自身の存在そのものを黒いインクに変え、覇王の全身にぶちまけるイメージで 嘘 を刻んだ。
直後、信長の姿をした刺客が、激しく点滅した。
『エラー:不整合……。定義「織田信長」が、記述者によって「白紙」へと上書きされています……。存在の維持が不可能です』
「今だ、政宗!」
俺の声なき叫びに、独眼竜が応える。
「承知ッ! その空っぽの器、俺が断ち切ってくれるわ!」
政宗の 真実の孔 から放たれた黒い炎が、覇王の胸元を貫いた。
光と闇、嘘と真実が混ざり合い、二条御所を凄まじい衝撃波が襲う。
衝撃が収まった時、覇王の姿は消えていた。
だが、俺の視界に浮かぶ警告は、より絶望的な色を帯びていた。
『緊急事態:世界の核に致命的な亀裂。……全領域の「初期化」まで、残り三百秒』
勝ったのではない。
俺が天の刺客を消したことで、世界を支えていた 背表紙 が壊れたのだ。
「(……上等だ。白紙に戻るのが先か、俺がすべてを書き上げるのが先か……)」
俺は、もはや形すら失い始めた指先で、虚空に最後の大博打となる 一行 を書き始めた。




