第十五話:言霊(ことだま)の墓標
味も、匂いも、もはやこの世界には存在しない。
二条御所の冷たい空気さえ、俺の鼻腔を通り抜けるだけの無機質な記号に成り下がっていた。
「……あ……、……」
声帯は死に絶えた。だが、俺の傍らには新たな 筆 がある。
先ほどまで 審判者 として俺を消そうとしていた南蛮の男――フランシスコは、今や虚ろな瞳で俺の前に跪いていた。俺が彼の 十字架 を迷子の道標へと書き換えたことで、彼の魂は天の理から切り離され、俺の綴る物語の 余白 へと堕ちたのだ。
「……主よ。私は、何を書けばよいのですか」
男が発する声は、俺の意志を代弁する拡声機となった。
俺は震える左手で、フランシスコの白い法衣に直接、黒々とした文字を書き殴る。
『奥州の独眼竜が率いる兵たちは、皆、死を恐れぬ英霊なり。だが、彼らが仕えるべきは「天の神」ではなく、この現世を泥臭く生きる「人の主」である』
書いた瞬間、二条御所の庭にひび割れた空間から、異様な光景が広がった。
遥か奥州から進軍してきた伊達の軍勢が、京の境界線に足を踏み入れたのだ。彼らの身体からは天が授けた 神の光 が漏れ出していたが、俺の文字が法衣に刻まれるたび、その光はドロリとした重い 情念 へと変質していく。
「……ぐ、あああぁぁ!」
最前線で馬を駆る伊達政宗が、自らの右目を押さえて悶絶した。
天が彼に見せていた 魔王討伐の輝かしい筋書き が、俺の嘘によって 泥を這い、血を啜ってでも生き残る執念の記録 へと塗り替えられたからだ。
『警告:因果の強制連結。個体「伊達政宗」の運命を、足利義昭の余命と同期します』
脳裏に響く無機質な宣告。
代償はついに、他者の命まで俺の 嘘 に巻き込み始めた。政宗が生きながらえるためには、俺がこの崩壊しつつある世界を書き続けなければならない。逆に、俺が筆を置けば、政宗も、光秀も、この世界から跡形もなく消え去る。
「(……面白い。連れ添ってやるよ、地獄の果てまで)」
俺は、もはや感覚の失せた指先を噛み切り、流れる 黒い血 を墨としてフランシスコの背中にさらなる行を書き加えた。
『この地は、神の庭に非ず。足利義昭という男が夢見た、終わりなき嘘の舞台なり』
御所の空が、バリバリと音を立ててさらに大きく裂けた。
裂け目の向こう側には、血走った巨大な 眼 のような紋様が、こちらを覗き込んでいる。天の理を司る 運営 が、ついにその姿を、この狂った現世に現そうとしていた。
俺は残った右目で、その巨大な眼を真っ向から睨み返した。
味がなくとも、声がなくとも、この 胸の焼け付くような憎しみ だけは、まだ俺の所有物だ。




