第11話
西ヶ浦琥珀と箱根の旅館に泊まった、翌週の金曜日。
琥珀との仕事でやるべき課題を後回しにし続けていたため図書室で片付けた青葉は、普段より遅れて十八時頃に帰宅。家の扉を開けて「ただいま」と靴を見れば母親は帰っていた。
しかし返事がないので首を傾げながらリビングへ。
すると、リビングのテーブルに疲れ切った様子の母親――一葉がいて目を見開いた。テーブルに着いて項垂れ、両肘を突いて身体を支えながらぼんやりとテレビを見る目は細く。ここ最近残業続きということもあって疲れが溜まっているのか、青葉に気付くのも遅れていた。
「あ、おかえりなさい。今日は遅かったのね」
「図書室で課題を片づけてから帰ってきたので――それよりお母さん、大丈夫ですか? いや、大丈夫じゃなさそうですね。疲れてますね?」
疑問形にすると逃げられそうだと思ったので、青葉は鞄をその辺に放り捨てながら冷蔵庫を漁り、秘蔵のシュークリームと紙パックのカフェオレを取り出す。
青葉の言葉に、一葉は申し訳なさそうに目を逸らして弱々しい笑みを取り繕う。
「ここ最近、ちょっと仕事が忙しくて。ごめんね、すぐ夕飯の支度するから」
「夕飯の支度は私がしますから、お母さんは休んでください。はいこれ」
そう言って彼女の目の前に「糖分取れば少しは楽かも」と言ってシュークリームとカフェオレを置くと、一葉は目を輝かせた。「いや悪いわ」と提案のどちらも拒もうとする一葉だったが、青葉は眉を顰めて無言で睨み付け、一葉は肩を窄めながらそれを受け取った。
さて、青葉は適当に冷蔵庫を漁りながら早速夕飯の支度を始める。
「仕事が忙しいから残業してるんですか? それとも、お金が必要だから、仕事を見つけて残業してるんですか?」
青葉が率直に疑問を繰り出せば、返答には長い間があった。
それが何より雄弁な答えだった。
「まあ、やっぱり……借金は返したいじゃない?」
「私もバイトを始めましたし、ほら、お金だって振り込んだじゃないですか」
「そうだけどね、やっぱり十年での返済で話は進みそうで、動ける内に稼がないと厳しいから。それに訊いたところ……青葉もお友達のお手伝いなんでしょ? 長くは続かないと思うし、それに頼ってちゃ駄目だと思うから。お母さん、頑張らないと」
疲れた顔にどうにか笑みを浮かべる一葉。青葉は支度の手を止めてそれを眺めると、唇を弱々しく噛み締め――そのまま黙って夕食作りに戻った。
翌日の土曜日。青葉は琥珀に呼ばれてパーティに参加していた。
『西浦サイバーセキュリティ』の周年を記念するもので、取引先や出資者、提携事業といった様々な利害関係者がフォーマルな姿で歩き回っている。床にはラグジュアリーな模様付き絨毯が敷き詰められ、シルクのテーブルクロスを被せられた円卓があちこちに。それから料理が沢山乗せられて長方形の形に組み合わせられた長机が、何か所か。天井からは絢爛豪華なシャンデリアが幾つも吊り下げられ、大企業のパーティに相応しい様相だった。
あちこちでは社長や重役が名刺を交換させている中、制服でやってきた青葉は人目を惹きながら、隅っこの方で暗い顔をしながらもぐもぐと料理を食べていた。美味しい。
「どうかした?」
関係者との挨拶を済ませた琥珀が、いつの間にか傍に戻ってきていた。
ドレスも持っているだろうに構わず青葉と同じ制服姿の彼女は、戻ってくるや否やそう尋ねてくる。どうかしたとはどういうことかと間抜けな顔を向ければ、
「暗い顔してる。悩み事?」
全てお見通しの琥珀に、青葉は眉尻を下げて弱った笑みを返す。
借金の件を伝えるかどうか。伝えても何もならないのに、伝えたら彼女に協力してくれと頼んでいるように思われてしまうかもしれない。そう思って手を止めて黙っていると、琥珀はその手からフォークを奪い取り、お腹が空いたのか、皿の上の適当な料理を一つ食べた。
そして満足そうに「うん、美味い」とこぼすと、その綺麗な唇をぺろりと拭って、
「聞いて私に何ができるって約束はできないし、無理に聞き出す権利も私にはない。ただ、貴女には話して楽になるという権利はあるし、私にはそれに応える意思がある」
淡々と構造を整理して説いた後、琥珀は微笑を浮かべて青葉を見詰める。本当にこの人には敵わないな。青葉は先程は少し趣の違う弱った笑みを浮かべると、観念して瞑目した。
「実は――」
青葉は昨日の夜、母親が借金返済のために率先して残業をし続け、酷く疲れ切っていたこと。そして青葉の不定期で不安定な収入には依存できないから、貯金があって働ける今の内に頑張ろうとしており、今の青葉に止める手段があまりないことを吐き出した。
黙って真剣な顔で話を聞いていた琥珀は、聞き終えると難しい顔で唸った。
「――なるほど。そうよね、人生何があるか分からないものね」
そう、何が起きるか分からない。
青葉が琥珀に仕事を貰えたような僥倖もあれば、代わりに、例えば母が仕事を失うようなことがあるかもしれない。だから一葉の考え方には理があるとは思う。だが、それは理屈だ。感情はやはり、親が疲れ切った表情で元気なく黙っている姿を見るのは辛い。
そうなるくらいならいっそ――債務整理してくれた方が青葉は嬉しい。
だが、一葉がこの説得を聞き入れてくれるかは悩ましいところだ。
青葉が難しい顔で黙っていると、その横顔を見た琥珀が顎を摘まんで呟いた。
「……三千万か」
青葉は思わず目を丸くして琥珀を見て、目が合って数秒後、細めて苦笑した。
「一応申し上げておきますけど、受け取れませんからね」
すると琥珀は鼻白んだ後、取り繕うように大袈裟に睨み付けて腰に手を置いた。
「あのね、私が誰かに無償で三千万を奉仕するような人間に見える?」
「はい」
「即答したわねアンタ――……まあ、ちょっとは頭を過ったけどもだ。でも働いてどうにかしようって考えができる親子にそんな真似は失礼だし、そもそも健全じゃない」
どうやら本当にそんなことは考えていなかったようで、青葉は少し心苦しくなる。そしてどんどん気持ちが沈んで猫背になっていくが、そんな青葉をしばらく眺めた琥珀は、フンと鼻を鳴らす。そしてバチンと痺れるくらいの勢いで青葉の背中を叩いた。
「いっ――だぁ――! 何するんですか……!」
「ごめ、思ったより力入っちゃった。いや、活を入れようと思って」
琥珀は片手で拝んで軽く詫びると、半眼で皿を片手に背中を撫でる青葉へこう告げた。
「借りたものは返すべきだけど、どうにもならないことは世の中には沢山ある。だから債務整理って手続きがある訳だし、存在する仕組みを使うことを悪だとは思わない」
真面目な顔で背中を擦りながら背筋を伸ばし、傾聴する青葉を、琥珀は見詰める。そして少し曲がっているネクタイをピンと真っ直ぐ伸ばしてやると、最後に顔を掴む。そして柔らかい頬を柔らかい指でふにふにと揉んだ後、その目を真っ直ぐ自分に向けさせた。
「これは私、よくない風潮だと思うんだけどね」
「は、はい?」
「人って、特に日本人って、苦しんでいたら吟味せず何となくそれを正しいことと思い込んで、苦しさから逃げることを甘えだとかよくないことだとか言いがちだと思う」
思い当たる節が多くて、目を逸らせず恐る恐る頷く青葉。
琥珀はふっと笑うと、ポン、と一度軽く青葉の両肩を叩いて言い切った。
「そんなことはない」
言葉は続かない。尽くさない。たった一言。その言葉の力強さを信じているから。
青葉は呆けた顔で琥珀を見詰め――言葉から気持ちを受け取る。
つまり、何かあったら逃げていい。それは決して悪いことではないから。
「……最悪は、母の前で号泣してでも債務整理させようと思います」
そう告げる青葉の顔にはいつの間にか吹っ切れたような爽やかな笑みが宿っており、それを見た琥珀は満足そうに唇の端を吊り上げ、最後、青葉の手首を掴んだ。
「『今月の食費がヤバい』くらいだったら、出すし、受け取ってね」
三千万と比べて何だか一気に現実的で生々しい提案に、青葉は思わず声を出して笑った。
――さて、それからしばらく二人であちこちの料理を食べながら時間を潰していると、すっかり疲れ切った二人組のスーツの男たちがやってくる。知らない顔だが、知った顔に似ている。薄っすらと琥珀の面影がある、恐らく成人男性らしき二人は案の定、琥珀の家族らしい。
「琥珀、久しぶりだな。楽しんでるか?」
「――兄さん! 久しぶり。まあ、そこそこかな?」
琥珀は驚いたように目を丸くした後、幾らか柔らかい表情で軽く手を挙げた。
一人は百九十センチはあるだろうかという高身長に屈強な筋肉を纏った、短髪の美男子だ。二十代後半だろうか。もう一人は天然パーマに眼鏡をかけた線の細い、こちらも美形。一回り若そう。どうやら兄弟らしいが、まるで対照的な印象を受ける二人である。
兄姉がいるとは聞いていたが、まさかお会いすることがあるとは思わなかった。
青葉が目をパチクリさせていると、琥珀がそれに気付いて歩み寄ってきた二人を示す。
「厳つい筋肉ダルマが長男の黒曜――西ヶ浦黒曜。隣の眼鏡が次男の理央。どっちも私の兄」
二人は琥珀の紹介を受けると丁寧に青葉に腰を折って名刺を取り出した。
「お噂はかねがねお伺いしております。株式会社西浦サイバーセキュリティプロダクト開発部部長、兼、琥珀の兄の西ヶ浦黒曜と申します」
「同じくマーケティング事業部部長の西ヶ浦理央です」
順に名刺を渡された青葉は、狼狽えながら名刺の受け取り方を必死に思い出す。琥珀が薄く笑いながら隣でジェスチャーをしてくれるので、それに倣って一人ずつ受け取る。あまりにもこんな豪華なパーティに相応しくない庶民だが、二人は気を悪くした素振りも見せず、むしろ笑顔だった。青葉は返す名刺もないので、代わりにめいっぱい頭を下げる。
「琥珀さんとお付き合いさせていただいております、東条と申します」
ぺこりと頭を下げると、二人から「よろしくお願いいたします」と慇懃な挨拶が返ってきて、こちらの肩身が狭くなる。と、それを察したように「あんまり堅苦しくしないでやって」と琥珀が青葉の背に手を回しながら言うので、「おっと失礼」と二人は心持を改めた。
「もう少し砕けたトーンが望ましいでしょうか?」
「もう少しと言わず、もっと。こう、石を砂にする勢いで」
「よし女! 俺の料理も取って来てくれるか? ――これくらいで……」
黒曜がニヤリと冗談を一言呟いた瞬間、「馬鹿!」と理央が凄まじい勢いでバチンと黒曜の頭を叩く。それから「すみません、すみません!」と頻りに頭を下げるが、お陰様で青葉はケラケラと腹を抱えて笑うことができた。立派なアイスブレイクである。
「――冗談はさておき、二人は殆どゲスト側だ。深く考えず楽しんでくれ」
このパーティが始まる際、黒曜が登壇してこの場を『パートナー感謝の会』であると語った。そこに照らし合わせると、殆ど会社に関わっていない琥珀やその恋人である青葉が呼ばれたのは、当然ながら会社側の人間としてではないだろう。
「呼ばれたんだから当然でしょ。ホストになってたまるか」
琥珀が不遜な物言いをすれば「だな」と黒曜もニヤリと笑って返す。
「悪かったな招待して。折角だから妹の恋人に会いたかったんだ。来てくれて嬉しいよ」
「まあ、兄さん――部が顔役ならあの銭ゲバ母さんが関わってないだろうと思ってね」
「俺もそのつもりで呼んだんだけどな。どうやら来るらしいぞ」
黒曜は腰に手を置いて辟易と嘆息し、琥珀も「うげ」と顔を引き攣らせた。理央は何も言わないが険しい顔で虚空を見詰めていて――何だか随分と嫌われている母親である。
「ところで、姉さんは?」
ふと、琥珀が二人から視線を外して周囲を見回す。すると二人は眉を顰めて見詰め合った。二人の何だか難しそうな顔に、琥珀は首を傾げながら質問を重ねる。
「取締役会を通して副社長になったって聞いたけど、一応経営企画部の部長も兼任でしょ? 立場的には部長級相当かなって思ったんだけど。この会には関わってないの?」
再び視線を合わせた後、こういう繊細な作業は理央の仕事らしく、眼鏡を直して口を開く。
「キャパオーバーだと思ったから」
口を噤んで目を見開く琥珀。
安易なことを言えないのは、自分は何も責任を負わない立場だからか。
「僕はたまに阿子ちゃんと会うけれど、副社長に就任してから、日に日に口数が減って表情もおかしくなってきている。憔悴――と言っても差し支えないだろうね。疲弊しきっている」
その言葉に、琥珀は、そして青葉も自身の肉親を思い出して動揺を返す。各々思うところがあり、琥珀は悩ましそうに顔を手で覆い、青葉は唇を噛みながらそのやるせなさに共感する。
「そんな訳で少しでも休んでほしくてね、敢えて全く声は掛けていない。まあ話は耳に入っているだろうから、来たければ来たよ。いないということはそういうことだ」
琥珀はやるせない顔で少し黙った後、「そうね」と納得することにして頷いた。
――と、その時、黒曜が何気なく会場の様子を見回したその時だった。ギクッと露骨に肩を震わせて目を丸くした彼は、口元に拳を置いて咳払い。そして理央を肘で小突く。
「おい。専務だ」
「げ」
小声の黒曜に促されてチラリと視線の方を見た理央は頬を引き攣らせる。つられて青葉と琥珀もそちらを見ると――雑踏の中をゆったりと歩きながら、時折招待客に会釈をしている、スーツスタイルの若々しい女性。ずっと真顔なのがどこか不気味だが、しかし美人だ。どことなく黒曜や琥珀たちと似た気配のある顔立ちに青葉が勘付けば、裏付けるように琥珀が「うわ」と声を上げる。ここまで嫌われているということは――彼女こそが。
「俺達は退散する。他の招待者への挨拶もあるからな」
言い訳がましく言い残して二人そそくさと去っていき、琥珀は呆れた目でそれを見送る。
そしてその目を青葉に向けると、「逃げ――」と青葉の手を引っ張ろうとして、その皿にまだ料理が残っていることに気付く。すると葛藤するように目をぎゅっと絞って天井を仰いだ後、決断。フォークを掴んで大急ぎで胃の中に詰め込み始めた。逃げるべきなのか否か、どう判断すればいいのか分からない青葉はおろおろと琥珀を眺め、それからチラリと
しかし時すでに遅し、いつの間にか二人の前に悠々と一人の女性が立った。
琥珀と同じく焦げ茶色の髪をセミロングまで伸ばし、顔立ちは琥珀よりも幾らか先ほどの兄弟に近いか、柔らかさを感じる。しかし表情は琥珀よりずっと鋭く容赦がなさそうだ。口の中にパスタをパンパンに詰め込んだ琥珀は横目にそれを見ると、観念して咀嚼を始める。
「お久しぶりですね、琥珀さん。お元気そうで何よりです」
青葉の皿の上でパスタを食べ終え、唇の端を舌で拭った琥珀は冷たい目を返す。数度、この辺りの気温が下がったような緊張感に冷や汗を浮かべて見守る青葉の前で、琥珀は言った。
「…………こちらこそ、ご息災なようで何よりです。母さん……西ヶ浦縁璃専務」




