第1話
ある仲夏の夜。自分を呼ぶ声がしたので、東条青葉は母の私室の扉を開けた。
「お母さん、呼びましたか? どうし――」
呼びに来るときは大抵、自分からこちらの部屋に来る。わざわざ来るように呼び掛けるとはよほどの要件なのだろう――そう考えていた青葉の目は扉を開けた瞬間に見開かれる。
「…………何をしているんですか?」
部屋では母が、引っ張り出してきた姿見の前で黒いセーラー服を着ていた。
青葉は今年の四月で十七歳になった。そんな青葉を母が産んだのは二十五歳だ。
つまり今、彼女は四十二歳だ。青葉と同様に艶のある真っ黒な髪を背中まで伸ばした彼女は、客観的に見ればとても若々しく、実際知人友人からはそう言われることも多いが、それでも流石にセーラー服はキツイ。キツ過ぎる。勘弁してくれと青葉は片手で頭を抱えた。
「高校のセーラー服を引っ張り出してみたんだけど、どう? まだいけそうかしら」
母――一葉は姿見の前でしゃらんと身を翻してスカートを揺らすと、満更でもなさそうな、得意げな表情で自らの胸に手を置いた。その脇から見える姿見の中では、母と瓜二つの顔立ちをした黒いロングヘアの娘が、出不精で病的に色白な顔を引き攣らせていた。
「いや普通に結構キツイですよ」
青葉が自分の二十五年後を想像しながら半眼で答えると、一葉は首を捻る。
「訊いてるのはウエストのことじゃないわよ?」
「伝えてるのもウエストのことじゃありませんよ?」
一葉は納得できないと言いたげに姿見を何度も確かめる。
何度見ても姿は変わらない。青葉は腕を組みながら母の奇行の理由を探る。
「制服なんて着てどうしたんですか?」
すると一葉は「それがね」と困ったように笑いながら指を立てた。
「掻い摘んで話すと、実はお母さん知り合いの経営する風俗で働こうと思って」
青葉は真顔で目をパチクリと開閉した後、無言で目を逸らして数秒思案。
そして変な汗がぶわっと出てきて、頭痛を堪えるように額を押さえながら目を泳がせた。
何を言っているんだこの人は。そう懸命に発言の意図を汲み取ろうとしたが、何をどう考えても急にそんなことを言い出す理由が分からずに、青葉は観念する。
「掻い摘まないでください。頭が追い付かないので詳細にお願いします」
「新宿駅から徒歩三分にある箱ヘル『美魔女カーニバル』ってお店よ」
「そっちは掻い摘んでください。経緯。経緯を詳らかにしてください」
「――借金、ですか?」
流石に見苦しかったので着替えてもらった青葉は、一葉を連れてリビングへ。
青葉の用意した麦茶で軽やかな氷を奏でながら、一葉は経緯を詳らかに語り出す。
「そうなの。ほら、私、二年前に離婚したじゃない?」
「あんまりそういうテンションで切り出す話ではないと思いますが……まあ、はい。お父さんの事業失敗ですよね。借金で迷惑をかけたくないとか言って出ていきましたね」
元々、東条家は三人家族だった。両親と、青葉の三人だ。
しかし青葉が中学二年生の頃、中小経営者だった父親が事業で大失敗。その際、会社は勿論のこと、個人としても多額の負債を抱え、迷惑をかけられないと言って父は出ていった。青葉はそこまでせんでもと引き止めたが、母はそんな自由なところが素敵だと言って見送った。
しかし、借金を抱えて出ていったはずの彼と、今の東条家の借金がどう繋がるのだろう。
青葉が父を懐かしんでいると、一葉は神妙に続けた。
「そのお父さんが先日蒸発したらしくて」
母親が美魔女で自分を売り出そうとしている以上の衝撃は滅多にない。
青葉は先ほどよりも落ち着きながらその衝撃を受け止めた後、小ボケを一つまみ。
「物理的な方ですか?」
「存在的な方で。それでね、その連絡が来てから思い出したんだけど」
そこでじっくりと言葉を溜める一葉。グラスを置き、肘を突いて手を組む。
まるで特務機関の偉い人のような風貌で、溜めに溜めてからこう言い放った。
「そういやお母さん、連帯保証人だった。と」
さて、首を吊る準備をしようか――などと冗談を言っている暇もない。
そんな暇はないけれども、それでも青葉は流石に片手で目を覆って俯くしかなかった。単なる個人ローンとは訳が違う。事業者が事業をするためにした借り入れだ。そりゃ血迷って風俗で働き始めるよなと納得すると同時に、あちゃー、という言葉が母親に追い打ちをかけてしまいそうなので、懸命にそれを呑み込んで、代わりに溜息を出した。
「……金額と、返済期日を教えてください」
どうやら一葉も相当動転しているらしく、よく見ると額に汗を浮かべながら強張った笑みを浮かべていた。特務機関の偉い人ポーズはいつの間にか頭を抱える仕草に。
「残額は三千万円、期限は半月後――貯金は五百万円ね」
気付けば青葉も血筋を感じさせる全く同じポーズで頭を抱えていた。
三千万の借金を、約二週間で。不足金額は二千五百万円。無理に決まっている。
すー、と歯の隙間から息を吸いながら身を起こす青葉。全く同時に一葉も顔を上げる。
「お母さんって美魔女だと思う?」
「いや若々しいですけども。早まらないでください」
確かにそれくらいの手しかすぐには思い浮かばないが、だからといって即決は覚悟が決まり過ぎだ。青葉は両手でどうどうと制止しながら自分自身も落ち着きを取り戻す。
深呼吸。背中に冷たいものを感じながらも、狼狽えていても仕方がないと話を進める。
「と、取り敢えずなんですが。期限、短過ぎませんか?」
青葉は建設的な会議を始めると、一葉は眉尻を下げながらもどうにか応じる。
「期限の利益の喪失って言ってね。本来は返済まで十年くらいの猶予があったんだけど、お父さんが滞納しまくったせいで『じゃあ一括で払えや』ってなってるのよ」
「そんな急に言われましても」
「まあ一応、お父さんが滞納しているって連絡は来てたんだけども」
「来てたんかい」
「払うと思ってたから」
「いやまあ、真面目な人でしたけど」
確かに、『家族に迷惑はかけない! 必ず俺が払うから!』と言って離婚していったパートナーの言葉をある程度信用するのは人としてやむを得ないところはある。というよりも、三千万という額を考えるともう少し早めに知らされていたところで結果は変わらない。
返済は無理の一言だ。少なくともこの期限では――と青葉が唸っていると、
「期限については、取り敢えず明日にでも弁護士に相談するから伸ばすことはできると思うの。財務状況を見て現実的に返済可能な額にしてくれる……はず」
「はず」
「ただ、最大百二十回払いにしたとして、月の請求額は二十五万円なのよね」
あまりの高額に規模感が掴めていなかった青葉は、その一言でがくっと頬杖を滑らせた。目を剥いて声を上擦らせながら、どうにもならない焦燥に背中を焦がされ叫ぶ。
「無理じゃないですか! 貯金切り崩しても二年くらいが限界じゃないですか⁉」
どちらにしても債務がこちらに来た時点で詰んでいるということだ。
どうやら同じくらい吹っ切れてしまった一葉は、ヘラヘラと笑いながら両手を開く。
「ところがギッチョン、お母さんが新宿で股を開けば~?」
「新宿で股を開く四十二歳年増女の出来上がりです。落ち着いてください」
どうしてこの人はこうも自分の身体を売りたがるのか。
青葉が半眼で何度目かも分からない制止をかけると、一葉は眉尻を下げながら苦笑して目を逸らす。何やら冗談でも暴走でもないらしく、青葉は真面目な調子にトーンダウン。どうしたのかと探るように優しく穏やかな視線を向けると、一葉は震える声でおどけて言った。
「やー、お母さんのミスだから、青葉には迷惑をかけたくなくて」
なるほど。青葉は一転して大真面目な表情で言葉を呑むと、少し顔を歪めた。
罪悪感――確かに父親のせいとはいえ、選んだのは母でその間に自分が産まれた。連帯保証人にならなければこうはならなかっただろう。
そしてもしも破産や個人再生といった手段を取れば、ローンで購入したマンションを筆頭に多くの財産が没収され、青葉の高校生活にも支障を来すかもしれない。
「自己破産とかも選択肢だけど、そうなるとどうしても青葉に面倒かけちゃうから。どうにか払う方向で頑張りたいの。それでまとまったお金となると……ねえ?」
実母が困り顔で笑いながらそんなことを言ってきて、その通りだ!と叫んで返せるほど親子関係が悪いわけでもない。愛されてきた分だけ、当然、青葉も一葉が大事だ。
「私がどうにかするから、青葉は心配しないで」
疲弊した笑みを浮かべる一葉に、青葉は唸り声を上げながら頭を掻く。
そしてうなじに手を巻き付けると、困り眉ながらも能天気な笑みで青葉はこう励ました。
「……まあ、お母さんに過失がないかと言われるとそんなことはないとは思いますが、家族じゃないですか。そんな水臭いこと言わないでくださいよ」
泣きそうな顔で肩を窄めて俯く一葉のグラスに、青葉はピッチャーから麦茶を注ぐ。色々と励ましの言葉を掛けたいが、それは突き詰めると『貴女はそんなに悪くない』に行き着く。
「正直、経営者のパートナーが借入するって話をして、そんな相手を選んだ人が、それを止めるっていうのも難しかったと思うんで。そう自分を責めないでください」
先ほどまで自分のセーラー服姿を見て満更でもなさそうに笑っていた母は、うぇーんと年甲斐もなくボロボロと泣きながら青葉へと駆け寄って抱き着いてくる。
「ごめぇぇん……本当にごめんなさい……」
いい歳した大人が、とは思うが。だからこそ危機感があったことだろう。
青葉は最悪破産してもいいだろうという楽天的な思考でそんな母を抱き締めて返す。
「おーよしよし、取り敢えずこっちでもどうにかできないか色々考えますんで。美魔女カーニバルはやめてくださいね。最悪は個人再生とかにしましょうよ」
すると一葉は悲痛な声を上げる。
「青葉の大学資金がぁ……!」
本当に自分のことばかり考えているのだと照れくさくなりつつ、青葉は、自分のことなど気にしなくていいのだと伝えるように、努めて軽い調子でこう笑った。
「行きたければ奨学金で行きますよ。気にしないでくださいな」




