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―エラーではありません(本人談)―


いつも通りだと思った朝。

昨夜の余韻を引きずったまま、パンに口を付けたところで言われた言葉に、ゆめは目を瞬いた。


「――卒業旅行、ですか?」


「そう。進学祝いも兼ねて」


淡々と告げる声はいつも通りなのに、その内容はまったくいつも通りではなかった。


「……どちらに行く予定なんですか?」


当然の質問として、ゆめは尋ねた。

開けてほしいと言われた二泊三日で行ける距離は、ある程度は限られる。


「首都圏」


その言葉に、どきりとする。

父に連れてきてと言われた話をした後だ。


まさか実家……?と考えたが、すぐにその仮説を打ち消す。

未定義の関係でそれはないだろう。


「わかりました。

 ……ちなみに、予算は……」


「……今回は、いらない」


驚いて彼の顔を覗き込む。


ほんの少しだけ、目線が外へと外れているような気がした。

だが、すぐに真正面から見つめられる。


「お祝いだから」


「……わかりました……ありがとうございます。

 予定、開けるように研究も調整しておきます」


「ああ」


ゆめは静かにパンを口に運んだ。

先ほどまで感じていた香ばしい小麦の風味が、途端にあまり感じられなくなった。


合理的な彼にしては、非合理な提案。

違和感を少し感じながらも、期待してしまう心を止められずにいた。



◇


羽田空港から浜松町、東京、そして長い通路を移動して京葉線乗り場に来た時には、さすがにゆめにも目的地がわかったような気がした。


だが、あまりに彼に不釣り合いすぎてまさか、と何度も打ち消す。


(幕張メッセで、何か研究に関連したイベントでもあったのかな)


思い当たることは特になく、首を捻りながらも彼の案内を信じて移動をする。


舞浜を過ぎて、海浜幕張駅で降りた時には、やっぱり幕張メッセ?と聞きたくなったが、彼が伝えてくるのを静かに待つ。


スーツケースを引きながら移動した先にたどり着いたホテルは、ただのビジネスホテルよりは、ワンランク上の雰囲気を持った外観だった。


郁人はためらいもなくそこへと入っていく。


慌ててゆめも追いながら、ここの代金を彼一人に負担させてしまって良いものかと不安になった。


渡されたルームキーで開いた部屋は、予想よりも広く、そしてオーシャンビューの特典付きだった。


「……思ったより、いい部屋ですね」


「近いところは埋まってた。

 一番無駄を省いたら、ここになった」


無駄、という言葉に首を傾げる。


(……いやいや、わたしの知っている“無駄”と、言葉の定義が違いませんか?)


彼が取った部屋はこの一つで、当たり前のように二人一緒だった。


そっと窓辺に近付くと、陽の光を細かく反射する海が見える。


きらきらと砂金のように輝くその景色に見とれていると、いつの間にか隣に郁人が立っていた。


当たり前のように距離が縮まり、唇が触れる。


何事もなかったかのように離れると、大浴場もあるらしいと施設案内を差し出してくる。

それをちらりと覗き込みながら、大浴場で一人の時間を過ごすよりも、郁人と一緒にいたいと思ってしまった。

ゆめは、静かに首を振る。


「わたしは、この部屋のお風呂がいいです」


「そうか」


「沢木さんは、遠慮なく行かれてください」


「いや、お前が必要ないのなら、別にいい」


ゆめは、行動の決定権が自分の反応にゆだねられているような、奇妙な感覚に陥っていた。



夕食を近くの飲食店で摂った後、部屋へと戻りシャワーを浴びる。

二人ベッドに並んで横になり、ゆっくりと口付けられた後、当然そういう流れになると思っていたのに、彼はあっさりと離れる。

そのことに少し驚いて彼の顔を見つめると、ぽつりと「明日、早いから」と言われた。

その言葉に、かぁっとゆめの頬に朱が走る。


まるで、物足りなげに彼を見ていたようで。


恥ずかしさで隠れたくなるが、同じ寝台の上。

隠すためには布団を顔まで引き上げるしかなかった。


「苦しい」


横から文句が聞こえてくるが、無視をして眠りにつくことだけを最優先事項にした。



翌朝。

アラームで二人目を覚ますと、ホテルの最上階のレストランで朝食バイキングを食べる。

朝一の時間帯で、最上階から見える海はまだうっすらと暗く、夜明け前の灯りと朝日の気配が入り混じったなんとも言えない美しさを醸し出していた。


勝手に郁人は和食が好きそうと思っていたが、盛られたお皿に並ぶのは、その場で焼いて貰えるオムレツとカリカリに焼かれたベーコン、根菜のポタージュと野菜とキノコの炒めものなど、いかにもな和食とは少しずれていた。


ゆめは自分の持ってきた白米と味噌汁、ほうれん草の白和えと納豆、焼き鮭を見つめる。


「沢木さん、勝手にこういう和食が好きなのかと思っていました」


手を合わせた後、納豆を混ぜながらゆめが言うと、郁人は少しだけ考えるように間を置いてから「ここではこれが美味しそうだったから」と答えた。


「……つまり、これが好き、というよりここならでは、みたいな限定品に惹かれる方ですか?」


「そう」


あっさりと頷く姿が、彼らしいなと少し笑えた。


食事を終えると急いで支度を整えた。

服装については特に指定がなかったので、自分のかわいいを優先した。

慌てて髪をコテで巻いていると、その様子を郁人が不思議そうに見つめる。


ふと、郁人の服装を見て気が付いた。

彼は普段の服と同じで、シンプルで地味めな恰好ではあるが、服にしわはない。


コインランドリー仕上げではないその服に、彼なりのおしゃれを感じた。


昨日から――ううん、“卒業旅行”を口にしたその時から、どこか郁人が変だ。


ゆめが満足した仕上がりになると、二人で部屋を出た。



緩く左手を掴まれながら、向かった先はシャトルバス乗り場。



――行先は、夢の国。



もう、隠しようのないその行動に、ゆめの方が緊張してきてしまった。


平静を装いながら、バスへと乗り込む。

二人掛けの席に座ると、窓の外には海が見えた。


バスの中の他の乗客の、浮かれた楽しそうな声を聞きながら。


いつも通りの表情で、全然いつも通りじゃない行動をする彼の横顔をそっと見つめた。



◇


入場ゲート前は、予想通りのたくさんの人でいっぱいだった。

はぐれないために握られた手首から感じる彼の体温に、小さく息を飲み込んだ。


本当に、ここに着いてしまった。


憧れの夢の国デートと一番遠い場所にいそうな人が、平然とした顔をして隣に立っている。


これから起こることを頭の中で勝手に想像してしまう。


今まで夢だと言いながら、半分おふざけの入っていた自分の言葉が頭を何度もよぎる。

その時にぼやけた輪郭のまま想像していた“王子役”が、隣の無表情に見える男性の姿に変わっていく。


(……いや、さすがにそこまでは彼はしないか)


列に並び、やがて園内へと足を踏み入れる。


ゲート前でもすでに夢の鱗片を感じていたが、中は夢の国にふさわしい別世界だった。


行き交うほとんどの人々の頭には、トレードマークであるねずみの耳のカチューシャから、ウサギやネコ、イヌのキャラクターを模したものなど、園内で売られる様々なアイテムが乗っていた。


この場所で、みんな魔法にかかってしまったみたいと思いながらそれを眺める。


周りをきょろきょろと見まわしているからか、少し遅れがちなゆめの歩みに合わせるように、郁人が足を緩める。


そのほんの少しの変化に、気が付いてしまった。



入口近くのワゴンの売店には、小さな人だかりができていた。

そこにねずみの耳が売られているのを見て、ゆめが声を掛ける。


「ねずみの耳、一緒に着けませんか?」


絶対に断られると思いながら、先ほどの空想の“王子”の頭に着いていたのを思い出して言ってしまった。


「うっ……」という息を詰めるような声が聞こえたような気がして、ゆめが「冗談です」とそれを取り消そうとした矢先に、彼の手がねずみの耳へと伸びる。


それを信じられないような目で見つめながら、ノーマルのねずみの耳と、リボンのついたねずみの耳の二つを買う。


ゆめが慌てて財布を出そうとするも、断られてしまった。


さすがに自分のわがままで振り回してしまっている罪悪感が募ってしまい、お昼ご飯は出させてくださいとだけ伝える。


支払いを終えた彼は、ほんの少しのためらいの後、自分の頭にそれを着けた。


「……前髪が落ちてこないから、案外悪くない」


いや、そんなことはないだろうという突っ込みを全力でゆめは我慢した。


この人は、今全力で、ゆめの彼氏になろうとしてくれている。



スマートフォンのマップを見つめながら、乗りたいものについて尋ねられる。


アトラクションよりも、この雰囲気が好きなゆめにとっては、決まった“絶対に乗りたい”はない。


それを伝えると、待ち時間を考慮しながらいくつかのアトラクションを郁人が選び、並んだ。



パーク内に見えるシンデレラ城。

憧れのお城が見えるこの世界の中に、郁人と一緒にいる。


それだけで、最初は緊張感でぎこちなかったゆめの表情が、魔法にかかって緩んでいく。


楽しそうな笑顔を浮かべるゆめの姿を見つめる郁人の顔は、いつも通り。


だけど。


二人並んで歩くとき。

アトラクションに並んでいるとき。

パレードを見つめているときですら、ゆめへと視線を向ける回数が多い。


レストランで夢の国らしいメニューを頼んで、二人で食べる。

ねずみ型に盛られたライスや、可愛く飾り切りされた野菜を無表情で齧る彼の姿が、どこか可愛い。



待ち時間が長いからか、あっという間に時間が溶けていく。


空いていたベンチに並んで座って、シンデレラ城を眺めながら、ゆめは何度か口の中のものを飲み込む。


春の温かい風が、応援するように彼女の背中側から吹き抜けた。



手を握って、開いて。


そして、彼の瞳をじっと見つめながら、ゆめは言葉を絞り出した。


「わたし、夢の国で年上のやさしい男性に告白されるのが夢だったんです」


「……知ってる」



「ここまできて、告白はしてくれないんですか?」


「……っ!」


声が、震えそうになるのをこらえながら、何とかそれを言葉にした。


郁人はゆめから目を反らさずに、まっすぐに見つめた。


絞り出すような、小さな声ではあったが、それは確かに聞こえた。


「……好き、だ」



「……知っています」


ゆめの口角が上がる。


郁人が、ゆめの左手を両手で包み込む。



「……ゆめ。

 結婚しよう」



「――っ!」


その後に続けられた言葉は完全に予想外で、ゆめの目が丸く開かれる。


行先がここだと確定したとき。


告白してもらえるんだとは思った。



まさか、プロポーズをしてもらえるとは、想像もしていなかった。


でも。

もう郁人のいない生活は、考えられなかった。


「はい」



ゆめが断るなんて、微塵も想像していなかっただろうこの男のいつも通りの表情に、笑いがこみ上げてくる。



「……郁人さん。

……ううん、……郁人」


ゆめが、彼の胸元へそっと身体を寄せる。


一瞬だけ、郁人の動きが止まった。


静かに抱きとめるように、硬直の解けた郁人がゆっくりと腕をまわす。


「……わたしも、郁人が好きです」


「……知ってる」


声はいつもと同じ平坦なのに、ほんの一瞬だけ彼の頬が赤く染まった。


目が合うと、彼が顔を寄せる。


いつもと同じ温度のキスが落とされた。


この人は抱きしめるより、言葉より、キスの方が雄弁だ。



「……やっぱり、非合理だな」


その言いぐさに、笑ってしまう。


「でも、選びましたね。

 その“非合理”が、わたしの夢でした」


郁人は何も言わず、ただ右手を絡めてきただけだった。


初めてした恋人つなぎ。


その温もりを忘れないように少しだけ力を籠めると、同じように彼も握り返してくれた。



ゆめが、鞄の中からスマートフォンを取り出す。


「……一枚だけ、ダメですか?」


「……証拠を残すのは、合理的じゃない」


スマートフォンを引っ込めようとしたところで、言葉が被せられる。


「……だから、一枚だけ。

 誰にも見せない前提で……」


「……っ!」


ゆめの表情が、柔らかく綻ぶ。


「はい、お約束します」


そっとスマートフォンを掲げる。


自撮りなんて、したことがないから感覚がよくわからなかった。

インカメラの存在すら知らず、何となくでシャッターを切った。


満面の笑みを浮かべたゆめと、相変わらずの無表情の郁人。


確認した写真は、少しだけブレて、郁人は半分見切れていた。



それでもその一枚を、保存を掛けて大切にしまい込んだ。


「……これで満足か」


「はい」


ゆめはもう一度、心からの笑みを浮かべた。


その笑みに合わせて、ほんのわずか数ミリ、郁人の口角が上がる。


(……わたしが気が付かなかっただけで、この人は今までも笑っていたのかもしれない)


その小さな恋人への気付きが、彼をより好きにさせる。


立ち上がると、少しだけ手を揺らしながら、園内を歩いた。



やがて、閉園を告げるアナウンスが園内に流れた。


名残惜しそうに歩く人たちの流れに混じりながら、二人もゆっくりと出口へ向かう。


いつの間にか、ねずみの耳は外されていた。

夢の国の魔法は、静かに役目を終えたようだった。


それでも。


左手に絡められた指だけは、離れなかった。



シャトルバス乗り場の最後尾に並ぶ。


もう一度だけ振り返って、その光景を目に焼き付けると、そっと隣へと視線を移した。



ホテルの部屋に戻ると、郁人は迷いなく照明を点け、エアコンを調整する。


「シャワー、先に使っていい」


「ありがとうございます」


それだけのやり取り。

旅先だというのに、京都にいるような錯覚をするくらい、いつも通りだった。


シャワーを終えて戻ると、テーブルの上にはマグカップに淹れられたお茶が二つ並んでいた。


「食器洗いは、必要ないからな」


その言葉に、ゆめは小さく笑いながら「ありがとうございます」と告げる。


彼はシャワーから戻ってきた後に、簡単に明日の予定を確認してきた。


行きたいところは特に決まっていなかったので、「明日は郁人の行きたいところに」と伝える。

郁人は口元に手を当て、少しだけ考え込む仕草をした。


「……明日は、ゆっくりで」


それだけを告げると、いつものように自然と唇が重なった。



その日、初めて関係を定義した彼は。


一切の遠慮をしなかった。


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