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―同棲ではありません(本人談)―


大学四回生になり、学校生活における研究室の割合はずっと増えた。

空きコマはすべて研究室に向かう。


初夏の風がやさしく吹き抜ける。

ゆめは大教室での授業を受けた後、研究室へと歩いていた。

同じように、向こうから歩いてくる人影に気が付くと、立ち止まって手を振った。


「やぁ、さっきぶり。

 ゆめちゃんも研究室?」


「はい、お昼休みを挟んで二コマ連続で空いたので、じっくりと研究に向き合うつもりです」


佐伯さんと並んで歩く。

彼が意識してゆめの歩幅に合わせて歩いてくれていることに気が付くと、慣れているなぁと意味もなく感心した。


「なんか一人でいるゆめちゃん見るの、久しぶりな気がする」


「え!」


佐伯さんの言葉に、ドキリとする。


「いつも沢木さんに付き添っているからさ。

 疲れない?」


心配から出た言葉だということは、わかっていた。


沢木さんは、自分にも他人にも厳しい。

それは事実。

いい加減なことをしないし、手を抜かない。

だからこそ、一緒にいる側にも同じ姿勢を求められる。


――大変でしょう、という言葉の意味は、きっとそういうことなのだろう。


けれど、それは“削られる”という感覚とは違った。


合わせているつもりはない。

引っ張られているわけでもない。


ただ、同じ速度で歩いているだけだ。


楽ではない。

でも、不満もなかった。


「問題ありません。

 勉強になります」


「そっか」


それ以上彼は何も言わなかった。


二人の間を、緑のにおいを含んだ風が通り抜ける。


どんなに心配されたとしても。

もう、一人には戻れない。



◇


研究室を出るのは、いつも通りゆめと郁人が最後だった。


鍵を閉めると、廊下を並んで歩く。


他の研究室も灯りがまだついているところもあり、真剣さが伺えた。


「今日、何食べる?」


何でもない風に聞かれる。

その言葉に、少しだけ頭を悩ませる。


自炊はしない。

時間効率が悪いから。


安めのファミレスか、お弁当か、スーパーの総菜か。


「明日、一コマ目から授業だよな」


「……覚えていてくれたんですね」


「見えたから」


何でもないことのように郁人は言うと、提案ではなく確認のように続けた。


「なら、そっちの家の方が講義棟には近いな」


それを当たり前のように言われることに、わずかに心が温かくなる。


「では、近くのスーパーでお惣菜買ってから行きましょうか」


ゆめの言葉に頷くと、再び前を向いて歩き始める。

歩幅の違いでゆめが遅れ始めると、再び振り向いて手首を掴んで歩き出した。



いつの間にか、どちらの家の方が便利かで居場所を選ぶようになってしまった。


言葉にしてはいないのに、二人一緒を前提に。


前提だからこそ、そこを確認しないままにして、ここまで来てしまった。


便利だから。

そう言ってしまえば、それで済む。


授業の時間割と、研究室までの距離。

移動時間と、荷物の量。

どちらの家に行く方が無駄が少ないか。


全部、説明はつく。


――それでも。


「今日は一人で帰る」という選択肢が思い浮かばなくなっていることには、気が付いていた。



彼に踏み込みすぎている。


もう戻れなくなっている、という自覚だけが、静かに胸の奥に残った。


◇


スーパーで割引シールの貼られた総菜をいくつか手に取り、飲み物とついでに明日のパンも買って家へと帰る。


エコバッグは何も言わなくても郁人が持ってくれていた。


玄関を開けて部屋に入る。

一人暮らし用の小さなキッチンを抜けたら、すぐにベッドルーム兼リビングの1Kの部屋。


リビングがある郁人の家に比べると少し小さいけど、その分掃除範囲は小さいから良い。

掃除に熱心ではないからこそ、いかに楽できるかは大事だった。


ベッドと壁の間に、洗濯物の山が二つ。

片方は郁人のもので、片方はゆめ。


畳んで片付けてもどうせすぐに広げる、という郁人の意見には全面的に賛成した。


コップは、無くはないけれどほとんど家では使わない。


生活の価値観が同じことが、楽だった。



二人で食卓替わりのローテーブルに買ってきたものを広げると、手を合わせて食事をする。

話題はだいたい研究のことだった。


「今度の学会、沢木さんメインで発表するんですよね?」


「ああ、今日そんな話あったな。

 久我教授も一緒だし、そんなに心配していない」


普通なら不安になるだろうところを、何でもないように言えるのが彼の強みだ。


(学会の間、一人の生活になるのかな……)


もう二人でいることが当たり前になりすぎて、一人での生活をあまり思い出せない。


それを察したのか察していないのか、彼が続けた。


「行くならお前も一緒だろ、たぶん」


当たり前のようなその言葉に、また心が温かくなる。


シャワーの後、改めて授業のテキストを開いていると、それを見た郁人が何かを探すように、彼のエリアとなっている床の書類やテキスト類をひっくり返す。


「どうしたんですか?」


「……いや、その授業わかりやすく纏めたプリントがあったはずなんだが……見当たらない」


「沢木さんの家の方とか?」


「もしくは研究室だな……」


まぁいいか、と彼がため息を付く。


ゆめにも覚えがあった。

生活が混ざりすぎて、どっちがどっちだったかわからなくなる。


同じように、郁人も隣で論文雑誌を開く。


静かな時間を共有した後、どちらからともなく顔を寄せた。


触れるだけのキスをしたあと。

静かに二人ベッドへと向かい、再度唇を重ねた。


ゆめの手首を握る力は、すぐに振りほどけるほど緩い。

けれど、それを振りほどくつもりなど、微塵もなかった。


彼の体温が、心地よかった。


(……ああ、わたし)


(……彼が、好きなんだ)


拒めたはずの手を拒まなかった。


見ないふりをしていた、好きだという事実。


その夜、はじめてゆめは直視した。



朝。

カーテン越しの柔らかい光が瞼を刺激する。

薄く目を開けると、思ったよりも近い郁人の顔と、その状況に慌てて少し距離を取った。


気まずくならないように、そっと抜け出して身支度を整える。


起きてきた彼は、信じられないくらいいつも通りだった。


じっと彼の顔を見つめるゆめに、自分の飲んでいたペットボトルのコーヒーが欲しかったのかと勝手に解釈して蓋を開けて寄越す。


それを受け取りながら、ゆめの心は少ししぼむ。

いつもと同じ朝なのに、自分だけが取り残されているような気がした。


昨夜のことを、なかったことにしたいわけじゃない。


でも、意味があったのかどうかを自分一人で決めてしまうのも、少し怖かった。


触れたのも。

許したのも。

拒まなかったのも。


全部、自分の選択だったはずなのに。


それが共有されていない気がして、胸の奥が、静かに冷えた。


(……夜のこと、わたしだけの出来事だったのかな)


身体の違和感さえなければ、夢だったと言われたら信じてしまいそうだった。



◇



夜。

シャワーを浴びてタオルを巻いたままのゆめは、衣服の山を丁寧に崩していく。

その様子を見ていた郁人が、「ああ」と理解した声を上げる。


「たぶん、あっちの家の方だろ」


「……そうかも。

 両方の家に置くためにパジャマ二枚用意したのに、両方ともあっちに持っていっちゃった……」


「俺もある。どっちがどっちかわからなくなるけど、大きく困ってはいない。

 むしろ効率化されたと思う。

 現に水道光熱費は昨年と比べて三割減だ」


郁人の言葉に、ゆめの表情も明るくなる。


「ですよね!

 わたしも光熱費抑えられていて、いい感じです!」


コインランドリーでの洗濯も、二人分纏めて洗えるから実質半額だ。


上手に生活を回せていると、二人は満足そうに頷いた。


◇


季節が変わっても、生活も関係も大きくは変わらなかった。


キスや身体を重ねる回数が増えても、明確に言語化はしない。


夏に受けた院への入試も、問題なく合格した。

郁人は心配した様子もなく、結果を聞いても当然だという顔で頷いた。


実家に帰ったのはお盆と正月の、ほんの数日だけだった。

実家から戻る日も、二人で示し合わせて帰宅する。


好きだと気が付いてしまったからか、そんな些細な事が嬉しいと思ってしまった。



卒業研究も大詰めの初冬。

論文を最初に見てくれたのも彼だった。

気になった点を的確に上げてくれるので、勉強にもなるし純粋にすごいと思った。


教授に提出するときには、沢木くんの事前チェックが入っているなら大丈夫だろうと笑われた。


研究室の人たちは何も言わない。

けれど、きっと二人の間に何かがあることには気が付いている。


言わないのは、“研究に支障がないから”という理由なのだと、ゆめは思った。



◇


卒論発表会も無事に終わり、あとは卒業式を待つだけとなった。

ゆめは院進学後を見据えて、研究室に丸一日籠る生活を続けていた。

郁人も同じような生活をしているので、一緒にいない時間の方が短い。


「卒業式なんですが……父が来てくれることになりました。

 わたしの家に泊まると思います。

 ……父と一緒に一週間は実家に戻る予定なので、その間留守にします」


さみしい、という言葉を飲み込んで、できるだけ声に滲まないように意識して伝える。

郁人は、いつも通りの表情で、了解とだけ答えた。



卒業式の前日。

ゆめは自室のクローゼットを開けて、少し考えた。


郁人のシャツ。

サイズの違う部屋着。

彼の使っている研究資料などのテキスト類。


持って帰ると、また持ってこないといけない。

それが、面倒だった。


テキスト類はあってもそこまでおかしくない。


問題は衣服だ。


結局、それらを自分の衣服とまとめて奥に押し込んだ。



父が泊まった夜。

ローテーブルで夕ご飯を食べていた時のことだった。


ほんの少し、きしむような嫌な音がした。


次の瞬間、大きな音と共に、クローゼットの中のものが雪崩出てきた。



「…………」


「…………」


父娘の間に沈黙が落ちる。


飛び出した服の中には、明らかに男物とわかる衣服が一式、ゆめの服と混ざっていた。


どれも、見覚えがあり過ぎた。


慌ててその服を抱きしめる。

隠せるはずもないのに。


もう一つ、隠し忘れを思い出して慌てて洗面所へ駆け込んだ。


そこには、コップに入った歯ブラシが鎮座したままだった。

ご丁寧に二本並んで。


色も、わかりやすく赤と青。


慌てるゆめの後ろから、困ったような、苦笑交じりの父の声。


「……いつか、ちゃんと連れてきてね」


怒られなかったことに、ほっとした。


同時に、彼について説明する言葉を持たない事実が、胸の奥に重たく残った。



その夜、メッセージアプリを起動して郁人の名前をタップする。


怒られなかったことよりも、説明できなかったことの方がずっと引っかかっていた。


『ほさか ゆめ:ごめんなさい。

 クローゼットが事故りました。

 父に、沢木さんの服が見られてしまいました。

 特に怒られてはいませんが、いつか連れてきてとだけ言われました。


 一応、共有するべきと思ったのでお伝えしておきます。

 すみませんでした』


既読はすぐについた。

だけれど、返事はすぐには来なかった。


困らせてしまっただろうことを予想して、さらに気持ちが沈む。



翌朝。

メッセージの通知が来ていることにほっとしながら、アプリを開いた。


『沢木郁人:卒業おめでとう。

 それから、連絡の件は了解した。

 帰ってきたらまた話そう』


軽く扱われなかった文面に、ほっとしながらも何を言われるのかと不安にもなる。


願わくは、関係を終わらせる方向ではありませんように、と静かに祈りながら。

その日、無事卒業した。



実家から戻ってきた夜。

ゆめの部屋のクローゼットを開き、考え込むように見つめる郁人の姿があった。


ゆめは嫌な緊張感に包まれながらも、何も言わずに見つめていた。


「今日はもう遅い。

判断が鈍る時間に結論を出すのは、危険だ」


ゆめが頷いたのを確認すると、さらに郁人は、独り言のように呟いた。


「中途半端な状態で話すのは、非効率だな」


その言葉の意味を考える前に、郁人はいつもと同じように距離を詰めてきた。


触れる唇も、指先の温度も、何一つ変わらない。


それだけで、胸の奥がふっと緩んだ。


――少なくとも。

今すぐ、離れたいわけじゃないんだろう。


そう思えてしまう自分に、少しだけ自己嫌悪を覚えながら。


それでも、彼を拒むことはできなかった。



疲労の滲む微睡みの時間。

ゆっくりと彼の手が、ゆめの頬を撫でた。


その指先が、まるで何かを伝えようとしているようだと感じながら、ゆめは意識を手放した。




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