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2/19

―新年会と汚部屋と、予定外の……―


新年は、何かが始まる区切りだと言われている。


けれど、少なくともわたしの生活は、いつも通りだった。


変わったのは――まなだけだ。


年末年始。

来年は長くは戻れないだろうからと、今年は冬休みいっぱいを実家で過ごすと決めた。


姉と共にこたつに入って暖を取っていると、突然大きなスーツケースと共にもう一人の姉であるまなが北海道へ行くと宣言した。


年末に見かけた、高校時代のまなの彼氏の姿を思い出し、そういうことかと心の中で納得する。


一週間後、彼氏と共に戻ってきた彼女は、“結婚”の言葉を両親に告げた。


とんとん拍子に結婚が決まる彼女の人生の激動は、傍から見ていても振れ幅の大きなものだった。


――人の人生って、どこでどう動くかわからない。


そのような実感をゆめに抱かせるには、十分すぎる観測結果だった。



◇


保坂家の中では怒涛の年末年始を終えて、京都へ戻ってきた時にはどこかほっとした。

部屋に入ると、自分の部屋らしくなく整理整頓されていた。

実家へ帰る前に、こちらに住む叔母が訪ねてきた結果である。

怒られながら片付けた部屋は、どこか無機質だった。


学校が始まると途端に忙しくなり、あっという間に部屋は“効率化”されていった。


研究室のドアに触れるたびに、少しだけ指先が冷たくなる。


あの時から、できるだけ大学にはシンプルな女を必要以上に感じさせないような服装を心掛けた。

機能性重視で、髪の毛もアップにして邪魔にならないように。


歓迎されていなくても、拒否はされていないのだから。


わたしはこの研究室に、恋愛をしにきているのではなく、研究をしにきている。

学べるところは学ばせてもらおうと、意識して一番実験操作が丁寧かつ知識にも富んでいる郁人の補助に就くようにした。


彼の傍にいる中で、彼の手元の繊細さが嫌というほど目に入る。

顕微鏡を覗きながらの細胞操作は、この手元の正確さが一番大切だ。


郁人がメモを取るためにペンを探そうと右手を器具から離したその瞬間に、邪魔にならない位置から差し出す。

次に使う器具も、実験内容とその操作内容を理解し、彼が言葉にする前に渡せるように心掛けた。


女であることは変えられないのだから、仕方がない。

ならばせめて、研究室のメンバーの一人としては、必要とされたかった。


だからわたしは、余計な感情を持たずにいようと決めた。

それが、正しい選択だと信じて。



その日は積もるほどの雪が降っていた。

授業は休講が相次いで、時間がぽっかりと空いたので研究室へと向かう。


せっかく学校まできたのだからそのまま帰りたくはなかった。


研究室のドアを開けると、室内には一人分の痕跡しかない。


同じことを考えたのであろう、沢木郁人がPCに向き合って静かにキーボードを叩いていた。


「おはようございます」


「おはよう」


一瞬だけこちらを見た後は、黙々と作業へと移る。

ゆめは早々に白衣を纏うと、奥の実験室の方へと引っ込んだ。


シャーレを出しながら頭の中で、まさか誰も来ないとかないよね?と不安になる。


そのまさかは的中し、雪の日にわざわざ学校まで出てきたのは、この研究室では二人だけだった。



実験がひと段落つき、ゆめが白衣を脱いで来る途中に購入したお昼ご飯を袋から取り出すと、同じタイミングでPCから離れた郁人が簡易キッチンでコーヒーを淹れようとする。


「沢木さん、わたしが淹れますよ」


その言葉に、ちらりとゆめの手元を見て、カップスープを作っている途中なのに気が付くと、首を振る。


「自分のことしていていい。

 コーヒーは二人分淹れておくから」


一瞬それでも先輩にさせるわけにはと思ったが、郁人は気にせずコーヒーを淹れ始めているので、「ありがとうございます」とだけ返した。


実験中は息が合ってきた自覚はあるのに、こういう場面ではどうしてもぎこちない。


郁人がゆめのクマ柄のカップにコーヒーを注ぐと、ゆめの傍の机に置く。


郁人も自分のお昼ご飯にコンビニのおにぎりとサラダを取り出すと、いただきますと告げた後黙々と食べ始めた。


「……わたし、違うところに行きますね。

 ……二人きりは、嫌でしょうから……」


ゆめの言葉に、郁人が少しだけ目を開いて彼女を見つめる。


「……なんで?」


引き止めでも否定でもない、純粋な疑問の言葉。


「……女、ですし」


「……ああ、なるほど」


一瞬だけ彼の目が伏せらせる。

そのしぐさは、思案するというより、頭の中にある事実を呼び出すための時間に思えた。


「別に好きとか嫌いとかで考えたことない。

研究の邪魔になるようだったら、とっくに外してる」


一つずつ並べられていく言葉に、ゆめの目も丸くなっていく。


「研究室の空気を乱さない。

手を抜かないし、器具や資料を丁寧に扱える。

 助手としても優秀。

 成績だけではだめなのは事実だが、お前は手を抜かない。

 基本を疎かにしない。

 ……いつも、助かってる」


そんな風に言われたのは、たぶん初めてだった。


「……ありがとうございます」


それだけを伝えると、郁人も頷き、食事へと戻る。


嫌われてはいない。

努力の方向は、間違っていなかった。


それだけで、十分だった。



食事を終えたあと、彼の空になったカップを受け取り、二人分を洗う。

流しに水を出してコップの泡を流すと、カゴへ入れる。


カップから手を離した瞬間に指先を握り込まれて、一瞬息が詰まった。


「冷たい」


冷水で冷えた指先を確認するように握られたその手は、そのままシンクへと導かれる。


温かいお湯が流れ出すと、そこに手を浸けられた。


「こんな雪の日に、真水で洗う必要はない」


淡々とした言葉に、それでもゆめの心は跳ねた。


わかっている、これはやさしさというより合理性だ。


実験器具の操作が、震える指先で誤らないようにするため。


ゆめ一人が、例え自分の震えで失敗したとしても。

自己責任という言葉で気にしない人だと思っていた。


(助手として、正確でいて欲しいから……?)


(……くだらない理由で失敗させたくないと思われるくらいには……必要とされている……?)


彼の想定外の行動に、ゆめの認識はまた一つ、静かに揺らいだ。



◇


新年会は、久我教授の都合で予定より少し遅れて始まった。


今日のゆめは、学校での彼女とほとんど変わらない服装だった。

シンプルなシャツに、シルエットがキレイなパンツスタイル。

学校の時よりもワントーン明るい、ラベンダー色のシャツだけが飲み会らしさを主張していた。


「あー、今日はいつも通りのゆめちゃんなんだね」


席に着くなり、佐伯さんが残念そうに零す。


「歓迎会の時の格好、かわいかったのに。

 前回見かけたってやつらから、可愛い女の子連れ歩いているって言われてちょー気持ちよかったのに!

 沢木さんがあんなこと言うから!」


本当に残念そうに言うので、ゆめは反応に困り曖昧に笑った。


「……研究室には、これが一番“ちょうどいい”ので」


それ以上はうまく言葉が紡げなかった。


「いや……あれは……」


ぽつりと、郁人が口を開いた。

弁解というより、補足事項を足すように。


「あの時は、ちゃんと使い分けができていると思ったから言っただけだ。

 研究室と、こういう場で」


しん、とテーブルの会話が止まる。


「それができているのは、悪くない」


それだけ言うと、郁人は水のグラスに口を付ける。



「……つまり、褒めていた?」


村瀬さんが今の話を取りまとめるように言葉にする。


「え、まじで?」


佐伯さんも驚きを隠せない顔で郁人を見る。


「褒めている、つもりだった」


「いや、あれは褒めてない!」


場に笑い声が響いていく。

ゆめはそのやり取りを、どこか遠くの出来事のように見つめていた。


――ああ、やっぱり。


嫌われていたわけじゃ、なかったんだ。



少しだけ、胸のつかえがとれて、身体が身軽になっていく。


教授が改めて、乾杯の音頭を取る。

開始が遅れた分、みんなのペースは自然と早かった。


「今日も寒いねー」


「雪がまた舞っていましたよ」


そんなたわいのない話をしながら、グラスはどんどん空になる。


「大丈夫だ」と思った、その瞬間がいちばん危ない。

みんなのペースが“普通”に見え始めた。


嫌われていなかった。

研究室の中に、ちゃんとゆめの場所はあった。


気が付いた時には、ふわふわとした浮遊感と、頬から首にかけてが熱い。


――あ、これ……。



飲み放題の魔力も手伝って、みんなのペースに合わせすぎてしまった。


ゆめがそう自覚した時には、もう正常な判断ができなかった。



教授が先に帰り、二次会に行こうと誘われるがまま、次の店でもひたすら目の前の郁人に合わせて飲んでしまう。


見慣れない名前に惹かれて、口へと運んだお酒は甘美だった。



浮遊感は取れるどころか増して、まっすぐ歩くために必死でバランスを取る。


普段はあまりしゃべらない高城さんまでも、大丈夫?と声を掛けてきた。


「ゆめちゃん、確か学校の方に住んでいるって言ってたよね。

 沢木さんと方向一緒なんじゃないですか?

 責任もって連れて帰ってくださいね!」


みんな口々に別れの挨拶をしてくるけれど、意味をあまり考えずに手を振り返した。


郁人がため息を付きながら、そっとゆめの左腕を支える。


「……家はどこ?」


「三階です」


「……わかった、もういい」


タクシー乗り場の方へ連れられ、気が付いたら知らないアパートの玄関だった。


ドアが開いた瞬間、玄関に座り込む。


冷蔵庫の開く音がして、目の前に水のペットボトルが差し出された。


「飲んで」


言われるがまま開けようとするけれど、うまく開けられず。

結局彼が蓋を外して手渡してくれた。


ゆっくりと、嚥下していく様子を、郁人はじっと見つめている。


「……自分の限界は、知るべきだ」


「はぁい」


少し愉快な気持ちで、答えながら笑顔になる。


そんなゆめの様子を、彼自身もそれなりに飲んでいるはずなのに、表情を変えることなく見つめる。


「……玄関じゃ寒いから、入って。

 ……散らかっているけど」


そういわれて靴を脱ごうとするけれど、ショートブーツなのにうまく脱げない。

ファスナーが掴めずにいると、横からすっと手伝ってくれた。


一度座り込むと立ち上がるのも一苦労で、彼の手を借りながらやっと立ち上がる。

支えられながら入った先の部屋は、まるで自分の部屋のようだった。


「あっちが、洗濯済みの山でー……。

 きっと脱衣所に……洗濯前の服を入れる袋がある。

 すぐに……洗わないものは……椅子の上」


「そう、合理的」


「はい、合理的です」


思わず、二人で顔を見合わせてしまう。


「水、もういいのか?」


ゆめの左手に握られたままのペットボトルに目を向けて、郁人が尋ねる。


「うん……もう飲めない……」


そう言って渡すと、残りを彼がすべて飲み干す。


「また欲しくなったら言ってくれ。

 持ってくる」


こくり、と頷くと安心したように頷き返される。


ただのやり取りなのに、いつもより距離が近い。


ここが彼の家だからだろうか。


寝室へと案内される。


周りの私物は少ないけれど、崩れた書類の山がいくつかあった。


「今日はそのベッド使え」


休める場所が見えて安心したからか、ぐらりとゆめの身体が揺れた。

慌てて彼の服にしがみつく。


「……もう休め。

 下手に動かない方がいい」


そう言いながら、彼の方から距離を詰める。

顔色を確かめるように覗き込まれた、その距離は息が触れそうなほど――近い。



一瞬、迷うような間。


そのまま、唇が触れた。


深くも長くもない、短い接触は、確かに二人の間に落とされた。


離れたあと、自分の行動に戸惑うように彼の眉が顰められた。


「……酔ってる、な」


それが理由だと言うような、小さな呟き。


ゆめは、何も言えなかった。


その理由を、肯定も否定もできなくて。



ただ、自分の想定条件から外れた事象が起こり始めている――

そんな予感だけは、はっきりと感じた。



翌朝。

カーテン越しの光が、研究室の朝よりもずっと静かだった。

朝日の照らす見慣れない部屋の景色に、一瞬で心臓が冷えた。

同時に、ここがどこであったのかも思い出す。


昨夜の、キスも。


夢だったのか現実だったのか。

それすらもあやふやで。


ただの酔いが招いた過ちか。


ゆめは確かめるためにベッドを降りると、しわのついたシャツをとりあえず撫でつけて整える。


そしてそのまま寝室のドアを開けた。



「おはよう、気分は?」


すぐさま飛んできた声は、やはり彼のものだった。


「おはようございます。

 昨夜は、ご迷惑をおかけしました」


「平気そうなら良かった。

 洗面に新しい歯ブラシとタオル置いているから、使えば?」


言われるがまま、洗面所を借りて軽く身支度を整える。

髪もぐちゃぐちゃになっていたので、簡単に櫛で梳いてごまかした。


リビングに入ると、ローテーブルの上にコンビニの袋が置いてあった。


「朝ごはん。

 俺は作ったりしないので、これで悪いが諦めてくれ」


「いえ……わたしも同じなので……。

 ありがとうございます」


ソファーに座る彼の横に座る。

一人暮らしでソファーがあるなんて贅沢だが、それでも二人掛けサイズで、二人座ると肩が触れた。


ゆめは朝食には手を伸ばさず、郁人の方へと向き直った。


郁人も、こちらを見つめる。


ゆめは一瞬だけ迷い、確かめるように視線を合わせた。


ゆめの方から、ゆっくりと顔を近づける。


逃げようと思えばいくらでも逃げられるその二人の距離を、少しかがめることで短くしたのは郁人の方だった。


ゆめが唇を重ねるまで、彼は逃げなかった。

そっと、支えるように肩に手を置かれる。



気のせいじゃなかった。


今は、お酒も抜けている。


――それなのに。


再現性は、確認されてしまった。


――そして、次に検証すべき条件が増えた。




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