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― 王子候補はピペット片手に現れた ―


京大三回生の後期。

一・二回生で一般教養を含めた様々な単位を取り終え、いよいよ本格的に、個々の研究テーマに沿った研究室へ配属される時期が来た。


ゆめはドキドキしながら、そっとその研究室の扉をノックした。


扉を開けた瞬間、まず視界に飛び込んできたのは、机の上に散乱する書類だった。

あちらこちらに雑に置かれた論文雑誌。

何となく、それぞれの場所があるんだろうなとわかる位置に置かれたマグカップ。


更に奥へとつながる扉があり、そこから先はどうなっているのかはこちらからではわからなかった。

おそらく、繊細な研究は奥で行われているのだろう。


(うわぁ……。わたしの家とどっちが汚いかな……)


手前の部屋にいた先輩の一人が、「君が新しい三回生?」と表情を明るくして声を掛けてくる。

奥の扉が開き、そこから出てきた別の先輩も「うわぁ、可愛い子が来た!」と嬉しそうに声を掛けてくれた。

可愛いという言葉が正しいかどうかはゆめにはわからないが、女というだけでやさしくしてもらえる場面は今までにも何度も経験した。

やはり全体的には女子の少ない環境であることが、一因なのだろうと静かに思う。

それでも、やさしくしてもらえることは悪い気はしない。

ゆめは、いつものように笑顔で挨拶をしようとした。


その時、ガチャリと奥の扉が開き、中から数人の男性が出てきた。


「お、来たね! 紹介はまだかな?

 保坂夢さん。

 うちの大学は成績優秀者が多いけれど、その中でもトップクラスに優秀な学生さんだ。

 研究室に新しい視点が入り、さらに発展することを願っているよ」


教授の紹介に、ゆめが恐縮しつつも頭を下げる。


「保坂夢です。

 まだまだ勉強が足らない一学生ですが、一生懸命こちらで学ばせてください。

 よろしくお願いいたします」


ゆめが言い終わったところで皆が拍手で迎えてくれる。

それぞれが自己紹介を終え、さっそく歓迎の飲み会を……などの話が出たところで、教授が誰かを探すように周りを見渡す。

ゆめは不思議に思いながら一緒につい、周りを見渡した。


この研究室には男性の先輩が三名。

……と、ゆめは一瞬、そう思った。


だが、教授の視線はまだ宙を彷徨っている。


「あれ……沢木くんは?」


「あー……」

先ほどゆめをかわいいと評価してくれた、人のよさそうな先輩……佐伯さんが苦笑を浮かべて頭をかく。


「たぶん、というか絶対まだ奥ですね」

村瀬さんが、特に気にした様子もなく答える。

その様子がいつものことだと如実に語っていた。


高城さんは何も言わず、視線を静かに扉の奥に向けた。


教授は、小さくため息をつきながら「相変わらずだなぁ」とだけ呟いた。


ゆめの視線に気が付いた佐伯さんが笑顔で教えてくれる。


「うちには、博士課程の先輩がもう一人。

 沢木郁人。

 この研究室で、一番繊細に手が動く人間だよ」


一番、という評価に少しだけ含みを感じながら、ゆめは奥の扉を見つめる。


――さっきから、あそこだけ別世界だ。


「……わたしが、開けたらまずいですか?」


「うんにゃ?

 物理的にはまずくない。

 保坂さんはもう研究室の一員だしね」


「……ただ、なぁ……。

 沢木さんだからなぁ……」


村瀬さんの言葉に、高城さんも教授までもがこくりと頷く。


問題がないのなら、挨拶すべきと判断したゆめはそっと扉を開いた。



奥には、白衣を着て真剣な表情でピペットを操作する一人の男性。


長めの前髪が、手元を見ている彼の目元を隠していて表情は読み取れなかった。



「扉、開けたらすぐ閉めて」


淡々と告げられた言葉は、決して大きな声ではなかったのによく通った。

慌ててゆめは扉を閉める。


中には二人きり。


「今回こちらの研究室に入りました、保坂夢です。

 よろしくお願いします」


「沢木郁人。

 ……よろしく」


一瞥をくれることもなく、黙々と自分の作業を続けている。

ピペットを置き、メモを取ろうとした彼の手元からペンが転がり落ちた。

乱雑に積み上げられたレポート用紙の上に置いていれば、そうなる。


ゆめは床に転がったペンを拾い、彼の作業の邪魔にならない位置から、そっと手渡した。


「ありがとう」


一瞬だけ視線が交わったような、気のせいのような。


それが沢木郁人という人物との出会いだった。



◇


研究室配属が決まった週末、さっそく歓迎会が開かれる。

隣の研究室も同日だと言っていたことから、今日を歓迎会に選んでいる研究室は多いのだろう。

予約を取るのに少しだけ苦労したよ、なんて佐伯さんが笑っていた。


ゆめは学校を出ると一旦家に帰ってから支度を整える。

大好きな茶色とピンクの組み合わせ。

歩くたびにふわりと広がる、学校には不向きな動きのある茶色いスカート。

襟にはレースが縫い付けられた、フェミニンなパステルピンクのブラウス。

首元には同色のリボンを結ぶデザインが可愛い。

バッグはこれまた学生に人気のある、ハートのバックルがポイントのブランドのもの。

七月の誕生日に父から贈られたものである。

仕上げとばかりに丁寧にコテで縦に巻いた毛先は、最高のでき栄えだった。


――うん、完璧。


ストラップ付きのサンダルに足を通すと、弾むような足取りで出かけて行った。


もちろん……学校で来ていた大人しめなスカートやブラウスは椅子の上に放り出したまま……。



◇


夜の新京極通りは、週末なのもあって観光客や若者で溢れかえっていた。

スマートフォンで場所を確認しながら歩いていると、時々人にぶつかりそうになる。

何度目かのぶつかりかけた時に、すっと人波との間に人影が入り込んだ。


驚いて顔を上げると、そこには沢木郁人が立っていた。


「危ないから、確認するなら隅に行くことを勧める。

 場所はもうわかっているから、着いてきて」


ゆめが何か言う前に、すでに歩き出した彼。

慌てて、頭一つ分高い、彼の少し跳ねた黒髪を追いかけた。



二人一緒にお店に入ると、すでに佐伯さんと高城さんは座って待っていた。

ひらりと手を振られ、ゆめは笑顔で同じように振り返す。


そして、佐伯さんはゆめの後ろに立っていた沢木郁人を見て少しだけ固まった。


「え。沢木さん、そのままで来たんですか?」


郁人の格好は、研究室の時と一つも変わらなかった。

ただ白衣を脱いだだけ。


ゆめも改めて彼を見てみると、シャツに少しのしわを見つけてしまう。


(わたし的には、普段なら上着でごまかして無視しちゃうようなしわだけど……こういう場ではちょっとアレよね)


「んー……、ただの飲み会だろ?」


何か問題でも、と言いたげな表情で佐伯さんを見つめる。


「いやいや、ゆめちゃんの歓迎会だよ!?

 ゆめちゃん、こんなかわいい恰好してきてくれているのに、それはない!」


矛先がこちらに飛んできて、ゆめはとりあえずにこりと笑おうとした。


郁人の視線がゆめへと向く。


上から下へ。

ほんの少し気まずい時間。


「……こういう服、研究には向かないから。

 着てこないで正解」


ぽかん、とした表情。

ゆめは言われた意味を飲み込むまでに時間が掛かった。


かわいいとか、似合っているとか、そういう言葉を求めていたわけではなかったはずなのに、心の何かが少しだけしぼんでいく。


(……場違いなのは――)


(沢木さんじゃなくて……わたしなのかな……)



その後、久我教授と村瀬さんも合流し、一旦は和やかなムードへと流れていった。



乾杯の挨拶を佐伯さんがしてくれた後、皆でビールジョッキを合わせる。


普通に飲み干すゆめをみて、教授が嬉しそうに笑った。


「いやー。久しぶりの研究室の女の子、華やかでいいね」


それに佐伯さんも続く。


「本当ですよ!

 かわいくて、やさしくて、そして成績もうちの中でも優秀なんでしょ?」


「反則だよね」


村瀬さんもにこやかに笑う。

何も言わないけれど、高城さんも穏やかに頷いてくれた。



「成績が良いのと、良い研究結果が出せるかは、別だろ」


一瞬、空気が止まる。

店のざわめきだけが、その瞬間大きく聞こえた。


「実験も研究も、手を抜かないやつが強い。

 点数じゃない」


佐伯さんをはじめとした周りが、ゆめにフォローを入れようと慌てる空気を感じながら。

ゆめの心は驚くほど凪いでいた。


(うん……その通り。成績だけじゃ、だめ)


成績しか取り柄のなかったゆめにとって、耳に痛い言葉。


子どもの時。

三人の中でほんの少し成績が良かった。

そこから成績を落とすことが怖くて、必死に勉強し続けてきた。


その後は誰かが郁人の言い方を窘め、そしてゆめへとフォローの言葉を入れていたような気がするが、ゆめの記憶にはあまり残っていない。


ただ淡々と、ジョッキを傾ける郁人の変わらない表情だけが印象に残っていた。



店を出ると、教授と別れて五人で歩き出す。

近くのゲームセンターの前で、寄っていかね?と佐伯さんが声を掛ける。

村瀬さんや高城さんもそれに続いて行った。

男子がこういうところを好むのは情報としては知っていたけれど、今まで女子との付き合いの方が多かったうえに、プリントシールも撮ったことのないゆめには初めての場所でドキドキした。


入口にある大きなクレーンゲームの機械の中に、気だるい表情をしたクマのぬいぐるみが横になっていた。


――かわいい。


こういうの、彼氏がさっと取ってくれたりするのが理想だな、なんて思いながら見ていると、そのゲーム機に郁人がそっと近づいた。


「そのクマ、取るんですか?」


ゆめの言葉に静かに首を横に振る。

他のプレイしている人たちの様子を横目で確認して、一言。


「これ……ワンプレイで掛かる金額考えたら……。

 店でぬいぐるみを購入した方が、確実だし安く済みそうだな」


あんまりな言い方で、この店でその発言はまずいだろうけれど、郁人らしいとは思った。


ゆめは自然と口角が上がる。

少なくとも、嘘は言わない人だと感じて。



◇


季節は、冷たい風の吹く秋から冬へと移ろいだ。

山の方はきれいな赤や黄色が目立つ。

京都内の数々の名所の紅葉を伝えるニュースが流れるこの時期になって、ゆめはかなり研究室のメンバーとも打ち解けてきていると思っていた。

自身の研究も、培養室の一部を借りて始めたばかりだ。


資料室兼休憩室で、PCに向かって資料をまとめる佐伯さんの傍にコーヒーを置く。

他のメンバーで欲しいと言ってくれた高城さんの傍にも一つ。

それぞれの砂糖の量やコーヒーフレッシュの有無なども把握した。


「ゆめちゃんありがとー!

 ゆめちゃんが淹れてくれるってだけで、他の研究室のやつに羨ましがられちゃってさー!

 おれ、この研究室で良かったよ!」


緩んだ表情を浮かべて言われる言葉に、喜んでいいのか悪いのかわからずに曖昧な笑顔を返す。


その時、扉の開く音がして郁人が顔を出す。


「沢木さん、今コーヒー淹れていたんですけど、飲みますか?」

ゆめの言葉に、ありがとうとだけ返す。

簡易キッチンの前に行き、カゴから郁人のカップを取り出した。

黒一色のシンプルなカップ。


コーヒーを注いでいると、向こうで郁人と佐伯さんの話す声が聞こえた。

何の気なしにそれを聞いていると、段々と話がゆめのことになり、どきりとする。


「佐伯。お前、女が来たからってデレデレしすぎだ。

 だから嫌だったんだよ、女が研究室に来るの」


冷たさはなく、どちらかというと事実をそこに置くかのような、郁人の声。

対する佐伯さんの言葉にも、心がすっと冷えていく。


「わかっていますよ。

 研究室内恋愛なんて、おれはごめんです」


黒のカップを持ったまま、少しだけ立ち竦んでしまった。


佐伯さんの言葉も、郁人の言葉も理解できるものだった。


理解してしまったからこそ、胸に重たいものが溜まっていく。



(研究室に馴染んできたと思っていたのは、独りよがりなわたしの勘違いだった。)


(わたしは、最初から……歓迎されていない。)



研究室にゆめが来たこと。

それが、沢木郁人にとって――人生を揺るがす大きな誤算だった。




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