―なお、セーブデータは存在しません―・上
博士論文にまつわるすべてが終わった頃。
郁人は久我教授と一対一で向き合っていた。
事務局に呼ばれ、大量の書類と、就業規則の説明、ゆめを扶養にするための手続きの説明を受けた後、実際に四月から授業をどう進めていくのかという裏側の話だ。
学生の指導の話など、今までと違う立場になったことを静かに郁人は実感する。
「沢木くん。
……今、指導を面倒くさいとか、自分の研究だけやっていたいと思っているだろう?」
にやりと、意地悪く笑いながら教授が言う。
「……そんなことはありません」
正直すぎることは社会人として問題があるだろうと判断し、少しの間を置いた後、答えた。
「あはは! 君はそう言いながらも口より目が正直だ。
何年君と付き合ってきたと思っているんだ。
君の性格は理解したうえで、その上で大学にいてくれると助かると思ったから君に声を掛けた」
「……そうですか」
少しの気まずさを覚えながら、それでもそう言うしかない。
「でもね、自分以外の研究を見たり、指導をすることは巡り巡って自分の研究のためになったりするんだ。
学生は思わぬ視点を持っていたりするからね。
きっとこの経験は研究者としての君の役に立つ。
一緒に頑張ろう」
「……はい」
ゆめがすんなりと戻ってこれるようにするためにも、郁人は学部全体の教授たちとも密に打ち合わせを交わした。
学生の時には省いても問題なかった部分が、負荷として確かに存在する。
だが、それが働くということなのだろう。
後悔はない。
進んだ先で考えるのが、今までの人生の選び方だった。
これからも、それは変わらない。
◇
夜。
珍しく自分から父に電話をする。
学費と家賃を払ってくれていた父に、無事に博士課程を終えることができる報告と、就職の報告をするためだった。
『郁人もやっと学生卒業かぁ~。
いやあ、長かったね。
彼女と同棲しているんだっけ、家賃はもういいの?』
相変わらずお金を出したがる父。
母はそれを“愛をお金で買いたがる人”なんて言っていた。
「社会人になるから問題ない。
今までありがとうございました」
『えー、他人行儀だな。
オレは君の父親なんだから、それくらいずっと払っていけるよ?』
「さすがに、社会人になってまで親に頼る考えはない。
そもそも自分の家庭をもっているのにそれはないだろう」
淡々とした郁人の言葉に、彼の父は聞いてない!と大げさに驚いた。
『え、何、結婚したの?
パパに報告はー?』
郁人が無言で切ろうとしたのを察知して、大慌てでごめん冗談!と電話の向こうの父が騒ぐ。
さすがにその電話口のにぎやかさが漏れ聞こえたのか、ゆめが不思議そうな顔をしてこちらを見ていた。
「……昨年十月に結婚して、今年六月に子どもが生まれる」
『は? 君デキちゃったの』
父が言い終わる前に郁人は電話を切った。
すぐさま電話がかけ直されてくる。
「……報告は終わった。
今度こそ切る」
『待ってって!
それ有希子さんは知っているんだよね?』
「……妊娠に気が付いたのが母だった」
郁人の言葉に、はぁーだのうーんだのと間延びした声が聞こえる。
父を見ていると感情を言語化することの必要性をあまり感じない。
正直、無駄が多い。
『まぁ、彼女が最初に気付くくらいの関係性が築けていたってことだから、単純なデキ婚とは違うか。
ねえ、その嫁さんに会わせてよ!』
「……せめて授かり婚と言って欲しい。
それに元々結婚するつもりだったから問題ない。
会う会わないは彼女の体調次第だ」
ゆめの体調と、彼女の会ってもいいという意思がセットであることは言うまでもない。
『それもそうか。
じゃあ、また紹介してくれる日を楽しみにしているね。
会う時には結婚祝い持っていくから!』
騒がしい余韻を残したまま、電話が切れた。
「……なんだか、賑やかな方なんですね」
「……疲れた」
論文に追われても一言も言わなかったその単語を、郁人は零した。
そんな郁人の様子を見て、ゆめはクスクスとおかしそうに笑った。
その笑顔が見られるだけで、郁人は満足だった。
テーブルの上のスマートフォンからバイブの音が響く。
また父がかけ直してきたのかと思ったけれど、画面を見た郁人の目が僅かに大きくなる。
着信は、今度は義父だった。
「はい」
『こんばんは、ゆめの父です。
今電話しても大丈夫かな?』
同じ明るい系統の父でも、こうも違うのか。
先ほどの余韻が消え切らない郁人は、思わず比較してしまう。
「問題ありません」
『良かった。
郁人くん論文お疲れ様です。
ゆめから、君の頑張りは聞いているよ。
ゆめ本人からは体調も変わりないって聞いているけれど、問題はない?』
「はい、私から見ても、今のところは問題がないように思います」
程よい距離感を保ってくれているのを感じられて、実の父よりも話しやすい。
『実は、今度の連休に京都へ行けたらいいねなんて妻と話していたんだけど……。
……ちょっと今回は、郁人くんに別のお願いができたんだ』
少しだけ言いよどむ様子を疑問に思いながらも、郁人は続きを促す。
『……僕と、鹿児島の陸くんのところに、一緒に行ってもらえないかな……』
◇
連休前の金曜日に、京都まで来てくれたゆめの両親と郁人の両親の六人で食事をした。
本当は父に声を掛けたくはなかったのだが、ゆめがせっかくならと声を上げてくれたので渋々呼んだ。
母も、「呼んだのね」の一言だけだったけれど、ほんの少し面倒くさいという空気を出していた。
先斗町のちょっと良い店を父の名で予約してくれた上に、費用も全額出してくれたので文句はない。
そのまま、ゆめの両親を家へと招待し、リビングで申し訳ないが一泊してもらった。
詳しい話は飛行機で、とゆめの父がこっそり耳打ちしてきたので、郁人もまだ状況は飲み込めていない。
ただ、ゆめが母子二人になることで色々な話ができるだろうと思い、同行を決めた。
翌日。
ゆめの作った朝食を四人で食べた後に二人で伊丹空港へと向かう。
移動中、自分の分の交通費は出すと話したが、断られてしまった。
今回は僕の誘いだからと言うことと、お金はこれから生まれる孫に使って欲しいと言われたら、これ以上は何も言えなかった。
空港に着き、ラウンジに入ったところで初めて、ゆめの父が鹿児島行きの理由について口を開いた。
「……実は、陸くんから電話でね。
九月に孫が生まれることを聞いたんだ」
「……それは、……おめでとうございます」
おめでたい話なのに、どこかゆめの父の顔に影がある。
彼らは自分たちと違って、順番が前後しているわけでもない。
待望の知らせだろうに、何があるんだろうかと静かに話の続きを待つ。
「郁人くんとゆめの子と、同級生だね」
笑う笑顔は嬉しそうだ。
「……別に、子どもに病気が見つかったとか、そういうことではないんだ。
ただ……九月に生まれる孫は二人。
つまり、双子なんだよ」
郁人は何も言わず、頷く。
三つ子の子が、双子を産む。
珍しいけれど、無くはないのだろう。
「……ただ、まながね。
つわりが酷くて、入院しているらしいんだ。
その話をしてきたときの、陸くんの様子が少々気になってね」
ああ、なるほど。
この旅の理由を理解して、再度頷く。
「過保護って思われるかもしれないけれど、陸くんも大事な僕の息子だからね。
もちろん郁人くんもその一人だ。
……今の彼を一人にしておくのは心配でね。
彼に会いに行くなら、僕と郁人くんしかいないって思ったんだ」
巻き込んでごめんね、と義父が笑う。
郁人はゆっくりと首を横に振った。
「……私でお役に立てるとは、思えませんが」
人の感情に寄り添うことは、得意ではない。
冷たいと言われたことも、数えきれないほどある。
こういう場面には、彼の弟の方が向いていそうだ。
「いや、何もしなくていいんだよ。
郁人くんは、ただ傍にいてくれるだけでいい。
それだけで……十分だよ」
飛行機は、定刻通りに鹿児島へと飛び立ち、昼過ぎには鹿児島へと着いた。
たどり着いた先は、市内の個人病院だった。
義父が受付で名前を言うと、面会の札が渡された。
産婦人科の入院病棟は、赤ちゃんの泣き声で溢れていた。
その泣き声を聞きながら、奥の個室へと歩いていく。
名札を確認して、部屋をノックすると扉を開けて陸が出てくる。
「……お義父さん……郁人さんまで来てくださったんですね。
わざわざ遠いところ、ありがとうございます」
にこりと、人好きのする柔らかい笑顔を浮かべて彼が礼を述べる。
その言葉を聞いた瞬間は、いつもの彼に思えた。
「まなも喜ぶと思います。
ちょっとまだ、起き上がるのは難しいと思うのですが……。
彼女、必死で二人分育てていて、すごいですよね。
僕も喜びが二倍で……今から楽しみで!
つい、職場でもしゃべりそうになって慌ててやめました!」
あはは、と笑う顔が、あまりにきれいだった。
これは作っている人の笑顔だ。
困ったような笑顔を浮かべて、義父が郁人の顔を見る。
郁人は、頷きで応えた。
「……私まで入るとまなさんが気を遣うでしょうから。
どうぞ、お義父さんと陸さんは病室に」
郁人が遠慮して部屋の外で待つと伝えるが、陸が気にしないでと引っ張っていく。
気にするかどうかは、本来陸が判断することではない。
それくらい、いつもなら彼の方がよく気が付いて動くはずなのに。
まなに申し訳ないと思いながらも、振りほどくのもまた失礼かと思い、されるがままだった。
病室内は驚くほど静かだった。
扉を閉じると、廊下の賑やかさが遮断される。
小さな物音一つが響きそうで、足音すら気にして歩く。
この病院全体が、女性的なデザインになっていて、待合から椅子が猫足ソファーだなとは思っていたが、病室はもっとその傾向が強い。
幸い、ベッド周りには天蓋があり、直接まなの様子が見えないようになっていた。
カーテンの中には入らないような位置で立ち止まり、まなの視界に入らないようにする。
「まな、お義父さんと郁人さんが来てくれたよ」
甘い、優しい声。
なのにそれを怖いと感じてしまった。
「まな、陸くんもおめでとう。
直接それを言いに来たよ。
……まなは無理にしゃべらないでいいからね」
同じように優しい声なのに、義父の声は怖くはなかった。
陸が何か話すよりも前に、まなの弱弱しい、力の入っていない小さな声が聞こえた。
「……お父さんも……郁人さんも、ありがとう。
ちょっと今……たくさんしゃべれなくて。
……気を遣わせて、ごめんなさい。
ゆめは、大丈夫?」
郁人が距離を保っていてくれていることを、まなは察しているようだった。
「ゆめは幸い、つわりは軽めでした。
今はつわりも落ち着いて、食欲が増えて困っていると言っています」
郁人が答えると、義父も笑う。
「そうそう。
昨日一緒に夕飯を食べた時なんて、おなかの子のぶんまで食べつくす!って勢いでおいしそうに食べていたよ」
その言葉に、まなが安心したように息を吐く。
陸が笑顔のまま、手だけが白くなるほど握りしめられているのが見えた。
きっと、自分のことよりもゆめを気にしているまなの姿が痛いんだろう。
郁人がそれを指摘することはなかった。
今ここで言葉にしたところで、気まずさを産むだけで何も変わらないだろうと判断した。
「まな。
陸くんが傍にいてくれて、良かった。
この生活は、ずっと続くものではないからね。
必ず、終わりは来る」
「……うん」
陸の肩が、小さく震えた。
その言葉はまなに言っているようで、実は陸の方に向けられているようだった。
「……陸くん。
……今日は、お父さんと、郁人さんと、……もう家に帰っていいよ。
私、……疲れちゃったから、休んでいいかな……」
疲労の滲む声。
だが、きっと本質はそこにない。
付きっ切りの夫に休んで欲しいのだろう。
だが、陸はそれを正しく受け止めきれない。
「……え?
俺、邪魔だった……?
俺がいると、ゆっくり休めなかった?
……何が、だめだった……?」
震える声で、重ねて確認する。
義父は陸には何も言わず、ただ陸の肩を叩いた。
そしてそのまま、まなに「明日、帰る前にもう一度くるね」と声を掛ける。
まなは、「ありがとう」と答えると、こみ上げてきた吐き気に耐えるようなくぐもった声を出した。
陸は駆け寄ろうとして、でも先ほどの言葉が頭に残っているのか、止めた。
彼女の洗濯物らしき荷物の入った袋を掲げ、
「何かあったらメッセージ送って。
……何もなくても、……送って」と声を掛ける。
それはまなに負担なんじゃないか、と静かに思ったが、これも指摘することはなかった。
義父の心配は、まったく的外れではなかった。
陸に感じるものは、違和感なんて生易しいものではない。
彼は、もう――正常な判断の輪郭を失い掛けている。




