―演算資源不足のため、処理落ち秒読みです―
月曜日、郁人と並んで久我教授の前にゆめは座っていた。
まっすぐに教授を見つめながら、事実を淡々と語った。
「出産は来年六月中頃になります。
なので、四月から休学を考えています」
「……わかりました。
保坂さん……いや、沢木さんは研究計画を改めて僕と話し合おう。
休学まででどこまで進めて、どこで止めるのか。
ちゃんと戻ってこれるようにするためにも、しっかり決めよう」
「はい」
事務的なことを話し終えると、教授が一つ大きなため息をついた。
「いや……ついため息ついちゃったけど、悪い意味じゃないんだ。
なんか、ね……驚いたよ。
だけど、うん、君は良い研究者になると思ってる。
席は残す。
必ず戻ってこよう」
教授の温かい言葉に、研究者としても諦めたくない自分が顔を出す。
席があるからと甘えるのではなく、戻ってきたら求められる以上のものを残せるような研究者になりたい。
ゆめが頷いたのを見て、教授はちらりと郁人へと目を向けた。
「……大丈夫だと思っているけれど、論文に家庭の事情は考慮しないからね」
「はい。問題ありません」
「かといって、彼女を放置するのも違う。
君は苦しい立場になるだろうが、それは君の選択だ」
「はい」
淡々と、いつもの調子の郁人の声。
その返事を聞くと、教授は満足そうに「期待している」と言いながら郁人の肩を叩いた。
夕方のみんなが一段落して、自然とお菓子を広げながらおしゃべりを始めた時間。
ゆめはそっと立ち上がった。
「実は、皆さんにお伝えしておかなければならないことがあります」
雑談をしていたみんなの言葉が、ぴたりと止まる。
数人分の視線がいっきに集まる感覚に、緊張で手のひらがじんわりと湿った。
「私事で恐縮なんですが……。
入籍して、名字が変わることになりました」
「は?」
「え?」
「まじで?」
みんなが各々の口から気の抜けた声を発し、そして平然としている郁人の方を見る。
学部生まで、驚きで郁人を見つめていた。
どれだけ視線が集まっても、郁人はいつも通りだった。
「それに伴って、来年度は休学する予定です」
みんなの顔が、まさかという色に変わる。
気まずさはあるが、事実なので逃げるわけにもいかない。
「……妊娠がわかったので、体調と研究の両方を考えての判断です」
みんなの視線が、さらに郁人へと突き刺さった。
「沢木さん……」
佐伯さんが、ため息をつきながらちくりと一言。
「研究室内恋愛だろうがなんだろうが、研究に影響がないならいいかと思っていましたが。
思いきりゆめちゃん抜けるの、研究室に損害与えていますからね!?
共同研究どうするんですか! 進み具合に絶対差が出ますよ!」
研究という言葉を言われて、初めて郁人の視線が横に逸れた。
「あれだけ周りに女が面倒くさいって空気を出して。
この研究室に女性がほぼ来ない原因を作った沢木さんが……」
村瀬さんの言葉は、どちらかというと面白い現象に出くわした研究者のようだった。
「沢木郁人も、ただの男ってことですね」
淡々と高城さんが纏めた。
「……否定できない」
みんなの視線を受け続けた郁人が、絞り出すような小さな声で呟く。
珍しい郁人の姿に、良いところ取りしやがってーとみんなが一斉にいじりにいく。
「沢木さんが二人になるのも紛らわしいし、ゆめちゃんは今まで通りゆめちゃんで。
保坂さんって呼んでいた人たちも、各自“ゆめちゃん”にアップデートするように!」
佐伯さんの宣言に、みんなが頷く。
研究室は、休憩のほんの少しの間だけ、祝福とつっこみの温かい空気が満ちた。
◇
季節が冬に近づくに連れ、研究室は空気が変わる。
それぞれの論文に追われ、時間と己との戦いになる。
ゆめも昨年経験した、論文という大きな山場。
卒論は郁人の監修を受け、何度も議論でぶつかりあった。
その中で「卒論だからといって、自分で理解している不足部分を放置したまま完成として良いのか」という本質的な問いまで生まれた。
あの郁人が、自分の学生生活の集大成となる博士論文に手を抜くはずがない。
むしろより厳しい条件をつけて、締め上げているだろう。
「郁人、今日は少し帰って休んだら?」
家にはシャワーを浴びに帰る程度で、寝泊まりもほぼ研究室。
去年はゆめも一緒にそんな毎日を過ごした。
今年は論文もないし、妊娠初期で無理をしないと決めたから寝るのは家のベッドのみ。
そんな状態なのに、ゆめの体調は細かく心配するし、妊婦健診にも必ず付き添ってくれていた。
妊婦健診の後に、郁人にそう声を掛ける。
予想通り、彼は首を縦に振らなかった。
「まだ研究室でやりたいことがある。
子どもも順調だと医者も言っていたし、ゆめが問題ないならそちらを優先したい」
「身体には、気をつけて」
「ああ」
二人で学校に戻ると、また研究にそれぞれが没頭する。
今日も、帰り道はゆめ一人だった。
◇
十二月に入ると、研究室はより追い詰められた空気が増し、雑談の声がほぼ消える。
疲労の浮かんだ表情で、休憩も各々が自分の研究のペースに合わせて取るので重ならなくなっていく。
郁人も淡々と手を動かし続けた。
器具の操作は、丁寧なだけでなく速くて正確だった。
一通り仮定通りの結果が得られ、そのデータを纏めていく。
研究は順調なのに、どこか満足感がなかった。
「沢木くん、進捗確認がしたい。
キリの良いところで声を掛けて欲しい」
教授の言葉に頷いて席を立った。
現時点でのまとめを持って、教授のチェックを受ける。
じっくりと時間を掛けて読み込んだ後に、教授は満足そうに頷いた。
「うん、問題ないね。
実験結果もほぼ理想的だ。
さすが、沢木くん。
うちで一番丁寧な操作ができるからこその結果だ」
「ありがとうございます」
「このまま続けたら、良い論文になると思う」
教授のその評価にも、本当にそれで良いのかという疑問がついて回る。
この程度で良いと思われている位置に、自分が置かれているのか。
もっと準備に時間を掛けて、質疑応答にどんなものが来たとしても、対応し尽くせるような仕上がりにしたい。
「ここまでできていて、実験もとりあえずは落ち着いているだろう?
今日はちゃんと家に帰って、彼女を安心させてあげなさい」
久我教授の言葉に、一瞬だけ手が止まった。
この未達成感を抱えたまま、家に帰らないといけないのかと思うと課題を投げ出して帰るようで気持ちが悪い。
あまり嬉しくはない提案だったが、ここで断ったら帰れるはずなのに帰らない夫になってしまう。
家庭をないがしろにしていると思われるのは、問題だ。
それは、彼女を守ると決めた自分の選択を、自分で否定することになる。
自分を無理矢理納得させ、久しぶりに家で夕食を摂り、そしてゆめと眠った。
帰宅したときの、安心したようなゆめの笑みを見て、これで良かったんだと自分に言い聞かせた。
ゆめにそっと口付けても。
心は、論文のことから離れなかった。
ここで満足していいのかどうかを判断する材料が、もう自分の中にしか残っていなかった。
気がついたら超えていた年。
新年のあいさつもそこそこに、ただひたすら自分の論文を読み込み、足りないところを探していく
実験を新たに加える余地は、もうなかった
考えつく限りの質疑応答に備えて、答えられるだけの材料も用意した
過去の自分をとりあえず黙らせることができる材料はそろえたつもりだ。
それでも安心だと言えるような出来にどうしても思えずに、さらに読み込む。
窓の外から差し込む朝日が、目に痛かった。
これ以上、思いつけないのが悔しい。
これが、今の自分の限界なのか。
赤いペン書きが目立つ、たたき台にしていた方の原稿を眺めながら。
――ここまでだと静かに納得した。
そのとき、背後で小さく布の擦れる音がした。
振り返ると、ゆめが寝室の入り口に立っていた。
眠れなかったのか、あるいは目が覚めただけなのかはわからない。
何も言わずに、ただそこにいる。
郁人は何も説明しなかった。
ゆめも、何も尋ねなかった。
それで十分だと、今は思えた。
◇
提出期限を迎えるギリギリまで、ずっと見つめてきた。
その論文データを、郁人は無言で送信する。
確認のメールが返ってきたのを見て、やっと肩の力が抜けていった。
椅子に静かに座りながら、それでも終わったという実感はない。
理論が弱いと思うところも、もう自分の中では見つけられない。
家に戻り、それから何をしたのかもあまり覚えていなかった。
ゆめと何か会話をしたはずなのに、内容が朧気だ。
気がついた時には、ベッドの中だった。
コートを脱いだだけの服のまま。
泥のように眠っていた。
ゆめは、起こさなかった。
ただ、限界まで走り続けた夫の姿を、ありのまま受け止めただけだった。
◇
郁人が久しぶりに、彼のスマートフォンにしてはかわいらしいアイコンで表示されているアプリを開く。
画面の中のイラストの赤ちゃんが、こっちを見て笑っている。
出産予定日を登録すると、今の赤ちゃんの様子やアドバイスが貰える、妊娠管理アプリ。
夫婦で共有できるそのアプリを、ゆめに言われるまま登録するだけ登録して、起動はほとんどしていなかった。
赤ちゃんから出た吹き出しが、パパへのアドバイスを語る。
妊娠五ヶ月。
体調が良かったら戌の日のお参りに行くと良いかも!みたいな軽いアドバイスを、そういうものなのかと見つめた。
神社に三人でお参りをする。
戌の日だけあって、多くの家族が集まり、安産祈願を受けていた。
初穂料を納め、渡されたセットを見つめる。
内容物のひとつである腹帯の巻き方について、ゆめと母が会話しているのをぼんやりと聞いていた。
「郁人」
母が彼に声を掛ける。
視線だけ母に向けると、いつもより少し厳しい目をしてこちらを見ていた。
「安定期は、絶対に大丈夫な時期ではありません」
郁人が頷く。
それを確認して、さらに続けた。
「ゆめさんを、無理させないよう配慮しなさい」
もう一度、郁人は頷く。
それだけ言うと、母はもう何も言わなかった。
帰り道、郁人はゆめの手を取り、ゆっくりと歩調を合わせて歩いた。




