第3話 彼の部屋に、見覚えのある水筒がありました
実家には、五日いた。
エマの熱は、三日目に下がった。
四日目に、起き上がった。
五日目に、私の手を握って言った。
「お姉さま、ありがとう。
もう、大丈夫」
私は、エマの額にキスをして、馬車に乗った。
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帰路の馬車は、行きより静かだった。
護衛が三人ついていた。
公爵の、家紋入りのマント。
道中、宿の主人が深く頭を下げた。
私は、窓の外を見ていた。
森を越え、丘を越え、城が見えた。
灰色の石壁。
塔が四つ。
旗が一つ。
──ただいま、と。
呟きかけて、私は口を閉じた。
ただいま、を、誰に言うのか、わからなかったからだ。
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城門で、マーレンが迎えた。
「奥様、お帰りなさいませ」
ふくよかな手で、私の手を取る。
温かい手だった。
変わらず、温かかった。
「マーレン、ただいま戻りました」
そう言うと、私の口の端が、勝手に少し上がった。
ここに、温かい手があってよかった、と思った。
「旦那様が、夕食をご一緒に、と」
マーレンが、静かに付け加えた。
私は、足を止めた。
「夕食、を」
「はい。
本日より」
私は、頷いた。
頷きながら、心臓が、少し速くなった。
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夕食の席は、長かった。
長いテーブルの、端と端。
向かい合うのには遠すぎる距離。
公爵は、すでに席についていた。
黒髪。
氷青の瞳。
表情は、相変わらず動かない。
私が席につくと、彼は短く頭を下げた。
「お帰り」
「ただいま戻りました、公爵様」
会話は、それだけだった。
スープが運ばれた。
パンが運ばれた。
カトラリーの音だけが、テーブルの上を行き来した。
私は、スプーンを口に運びながら、ちらりと彼を見た。
頬が、こけている、ような気がした。
五日前より、目の下の影が、濃いような気がした。
根拠は、視覚だけだ。
気のせいかもしれない。
それでも、私は、口を開いた。
「公爵様」
「うん」
「明日、孤児院の視察に行きたいのです。
領内の、北の村の」
公爵が、ナイフを置いた。
「同行する」
即答だった。
私は、目を見開いた。
「お忙しいでしょう」
「忙しくない」
忙しい人の答えだ、と私は思った。
机の上に、書類の山が見えていた。
さっき廊下から、ちらりと書斎の扉が開いていた。
それでも、彼は「忙しくない」と言った。
私は、ありがとうございます、と頭を下げた。
──公爵家の、体面なのね。
新しい奥方を、領民に披露する。
それだけのこと。
そう、自分を納得させた。
それでも、彼の「同行する」の声が、思ったより速かったことが、耳に残った。
✦
帰城から、三日が経った夕方。
私は、書斎の前を通った。
通っただけだ。
覗くつもりは、なかった。
ただ、扉が、半分開いていた。
中に、明かり。
机の上の、ランプ。
公爵の姿は、なかった。
私は、足を止めた。
机の上に、何かが、あった。
革の、小さな水筒。
子供が肩から下げるくらいの、小ぶりなもの。
家紋は、ない。
色は、長く使われた革の、深い茶色。
私は、なぜか、目を離せなかった。
一歩、扉に近づいた。
水筒の底が、見えた。
刺繍が、あった。
小さな、白い花。
五枚の花びら。
中央に、黄色の点。
──あ。
息が、止まった。
知っている、と思った。
祖母が私の持ち物に縫ってくれた花に、似ている気がした。
けれど、白い小花など、どこにでもある。
どこで、いつ、見たのか。
思い出せない。
頭の奥で、何かが、ちかちかした。
祖母の、小さな手元。
針と糸。
夏の縁側。
妹の、小さな靴。
──思い出せない。
そのときだった。
「リーゼロッテ」
背後から、声がした。
私は、振り返った。
公爵が、廊下に立っていた。
私は、慌てて扉から離れた。
「申し訳ございません。
覗くつもりは」
公爵は、私の横を、すり抜けた。
書斎に入る。
机の抽斗を、開けた。
水筒を、その中に入れた。
抽斗が、しまる音。
それから、彼は、振り返った。
「触れたか」
声が、固かった。
「いいえ」
私は、首を振った。
「見た、だけです」
「そうか」
公爵は、頷いた。
肩から、力が、ほんの少し抜けたように、見えた。
「失礼した」
彼は、それだけ言って、書斎を出ていった。
私は、廊下に、一人残された。
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部屋に戻って、私は寝台に座った。
頭の中で、白い花が、まだちらついていた。
五枚の花びら。
黄色の点。
知っている。
たしかに、知っている。
それなのに、思い出せない。
私は、首を振った。
──気のせいかもしれない。
小さな花の刺繍など、よくある。
そう、自分に言った。
それから、私は、ふと思った。
公爵は、なぜ、慌てて水筒をしまったのだろう。
子供用の水筒。
家紋もない、小さなもの。
大人の彼が、机の上に置いていた、ということ。
意味が、ある、ような気がした。
根拠は、彼の手の動きの速さ。
肩の力の入り方。
それだけだ。
それだけだけれど、私の胸に、小さく残った。
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蝋燭を消す前に、私は、もう一度思った。
公爵は、私のことを、嫌っているはずだ。
触れないでほしい、と頭を下げた人だから。
夕食でも、ほとんど話さない人だから。
それでも、孤児院に同行する、と即答した。
それでも、私が戻らないかもしれないと思って、青ざめた。
矛盾している、と私は思った。
──冷血の方が、矛盾する。
呟いて、私は枕に頭を沈めた。
明日、孤児院に行く。
彼の、領主としての顔を、見ることになる。
私は、目を閉じた。
白い花の刺繍が、まぶたの裏で、もう一度、ちかりと光った。




