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契約結婚した冷血公爵様、私が逃げる素振りを見せるたびになぜか必死になるのですが?  作者: 月代


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3/10

第3話 彼の部屋に、見覚えのある水筒がありました


実家には、五日いた。


エマの熱は、三日目に下がった。

四日目に、起き上がった。

五日目に、私の手を握って言った。


「お姉さま、ありがとう。

もう、大丈夫」


私は、エマの額にキスをして、馬車に乗った。



帰路の馬車は、行きより静かだった。


護衛が三人ついていた。

公爵の、家紋入りのマント。

道中、宿の主人が深く頭を下げた。


私は、窓の外を見ていた。


森を越え、丘を越え、城が見えた。


灰色の石壁。

塔が四つ。

旗が一つ。


──ただいま、と。


呟きかけて、私は口を閉じた。

ただいま、を、誰に言うのか、わからなかったからだ。



城門で、マーレンが迎えた。


「奥様、お帰りなさいませ」


ふくよかな手で、私の手を取る。

温かい手だった。

変わらず、温かかった。


「マーレン、ただいま戻りました」


そう言うと、私の口の端が、勝手に少し上がった。

ここに、温かい手があってよかった、と思った。


「旦那様が、夕食をご一緒に、と」


マーレンが、静かに付け加えた。


私は、足を止めた。


「夕食、を」

「はい。

本日より」


私は、頷いた。

頷きながら、心臓が、少し速くなった。



夕食の席は、長かった。


長いテーブルの、端と端。

向かい合うのには遠すぎる距離。


公爵は、すでに席についていた。


黒髪。

氷青の瞳。

表情は、相変わらず動かない。


私が席につくと、彼は短く頭を下げた。


「お帰り」

「ただいま戻りました、公爵様」


会話は、それだけだった。


スープが運ばれた。

パンが運ばれた。


カトラリーの音だけが、テーブルの上を行き来した。


私は、スプーンを口に運びながら、ちらりと彼を見た。


頬が、こけている、ような気がした。

五日前より、目の下の影が、濃いような気がした。


根拠は、視覚だけだ。

気のせいかもしれない。


それでも、私は、口を開いた。


「公爵様」

「うん」

「明日、孤児院の視察に行きたいのです。

領内の、北の村の」


公爵が、ナイフを置いた。


「同行する」


即答だった。


私は、目を見開いた。


「お忙しいでしょう」

「忙しくない」


忙しい人の答えだ、と私は思った。

机の上に、書類の山が見えていた。

さっき廊下から、ちらりと書斎の扉が開いていた。


それでも、彼は「忙しくない」と言った。


私は、ありがとうございます、と頭を下げた。


──公爵家の、体面なのね。

新しい奥方を、領民に披露する。

それだけのこと。


そう、自分を納得させた。


それでも、彼の「同行する」の声が、思ったより速かったことが、耳に残った。



帰城から、三日が経った夕方。


私は、書斎の前を通った。


通っただけだ。

覗くつもりは、なかった。


ただ、扉が、半分開いていた。


中に、明かり。

机の上の、ランプ。

公爵の姿は、なかった。


私は、足を止めた。


机の上に、何かが、あった。


革の、小さな水筒。


子供が肩から下げるくらいの、小ぶりなもの。

家紋は、ない。

色は、長く使われた革の、深い茶色。


私は、なぜか、目を離せなかった。


一歩、扉に近づいた。


水筒の底が、見えた。


刺繍が、あった。


小さな、白い花。

五枚の花びら。

中央に、黄色の点。


──あ。


息が、止まった。


知っている、と思った。


祖母が私の持ち物に縫ってくれた花に、似ている気がした。

けれど、白い小花など、どこにでもある。


どこで、いつ、見たのか。

思い出せない。


頭の奥で、何かが、ちかちかした。

祖母の、小さな手元。

針と糸。

夏の縁側。

妹の、小さな靴。


──思い出せない。


そのときだった。


「リーゼロッテ」


背後から、声がした。


私は、振り返った。


公爵が、廊下に立っていた。


私は、慌てて扉から離れた。


「申し訳ございません。

覗くつもりは」


公爵は、私の横を、すり抜けた。

書斎に入る。

机の抽斗を、開けた。

水筒を、その中に入れた。


抽斗が、しまる音。


それから、彼は、振り返った。


「触れたか」


声が、固かった。


「いいえ」

私は、首を振った。

「見た、だけです」


「そうか」


公爵は、頷いた。

肩から、力が、ほんの少し抜けたように、見えた。


「失礼した」


彼は、それだけ言って、書斎を出ていった。


私は、廊下に、一人残された。



部屋に戻って、私は寝台に座った。


頭の中で、白い花が、まだちらついていた。


五枚の花びら。

黄色の点。


知っている。

たしかに、知っている。


それなのに、思い出せない。


私は、首を振った。


──気のせいかもしれない。

小さな花の刺繍など、よくある。


そう、自分に言った。


それから、私は、ふと思った。


公爵は、なぜ、慌てて水筒をしまったのだろう。


子供用の水筒。

家紋もない、小さなもの。


大人の彼が、机の上に置いていた、ということ。


意味が、ある、ような気がした。

根拠は、彼の手の動きの速さ。

肩の力の入り方。


それだけだ。


それだけだけれど、私の胸に、小さく残った。



蝋燭を消す前に、私は、もう一度思った。


公爵は、私のことを、嫌っているはずだ。

触れないでほしい、と頭を下げた人だから。

夕食でも、ほとんど話さない人だから。


それでも、孤児院に同行する、と即答した。

それでも、私が戻らないかもしれないと思って、青ざめた。


矛盾している、と私は思った。


──冷血の方が、矛盾する。


呟いて、私は枕に頭を沈めた。


明日、孤児院に行く。

彼の、領主としての顔を、見ることになる。


私は、目を閉じた。


白い花の刺繍が、まぶたの裏で、もう一度、ちかりと光った。


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