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契約結婚した冷血公爵様、私が逃げる素振りを見せるたびになぜか必死になるのですが?  作者: 月代


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2/10

第2話 実家に戻ると言ったら、公爵様が馬車を止めました


嫁入りから、二週間が経った。


私は、城の生活に慣れた。

正確には、慣れたふりが、上手くなった。


朝は六時に起きる。

マーレンと一緒に朝食をとる。

午前は刺繍。

午後は本。

夕食は、自分の部屋で。


公爵とは、すれ違うことすらない。



私は、刺繍の手を止めた。


針先を見つめる。

赤い糸が、薔薇の花びらを描きかけて止まっている。


「マーレン」

「はい、奥様」

「私、何かお手伝いできることはありませんか」


マーレンは、お茶を注ぐ手を止めた。


「お手伝い、と申しますと」

「領地のことです。

帳簿の写しでも、手紙の代筆でも。

私、算術は得意なんです」


マーレンは、しばらく私を見た。

それから、ゆっくり微笑んだ。


「旦那様にお伝えしてみます」



その日の夕方。


私は、書斎の前に立っていた。


扉の前で、息を整える。

ノックをした。


「リーゼロッテです。

お話があります」


短い沈黙のあと、扉の向こうから声がした。


「入らなくていい。

そこで聞く」


私は、扉に向かって言った。

「帳簿のお手伝いをさせてください。

私、算術は得意です。

ご迷惑はおかけしません」


また、沈黙があった。

今度は、長かった。


「不要だ」


それだけ、だった。


私は、扉を見つめた。


不要だ、の四文字が、廊下に落ちて、転がった気がした。


「失礼いたしました」


私は頭を下げて、扉から離れた。


廊下を歩きながら、私は唇を噛んだ。

泣くつもりはなかった。

ただ、少し、息がしにくかった。



部屋に戻って、私は窓辺に座った。


──そうよね。

私、契約妻だもの。

帳簿に触れたら、家の事情を知ってしまう。

信用されないのは、当然。


そう、自分に言い聞かせた。


それでも。


初夜の、温かい焼き菓子のことを思い出した。

あの皿の温度は、何だったのだろう。


わからない。

わからないことは、考えても仕方ない。


私は、刺繍に戻った。


赤い薔薇の花びらが、いびつに歪んだ。



翌朝。


朝食の席に、マーレンが手紙を持ってきた。


「奥様。

ハーゲン家から、急ぎの便です」


私は、封を切った。


父の字だった。

走り書き。

インクが、紙の上で滲んでいる。


──エマが熱を出した。

──医者は心配ないと言うが、咳がひどい。

──姉に会いたいと言っている。


私の手から、フォークが落ちた。

かちゃん、と、皿の上で鳴った。


「奥様」

マーレンが、駆け寄ってきた。


「妹が」

私は、手紙を握りしめた。

「妹が、熱を」


声が、震えた。


エマは、十五になったばかりだ。

昨年も、冬に熱を出した。

あのとき、私は一晩中、額の布を替えていた。


「お戻りに、なられますか」

マーレンが、静かに聞いた。


私は、頷いた。


「数日、戻ります。

すぐに帰ります」



荷造りは、早かった。


着替えと、刺繍道具と、エマに渡す薬草の袋。

それだけで足りた。


公爵には、書置きを残した。


『妹が病に伏したため、数日、実家に戻ります。

ご迷惑はおかけしません。

リーゼロッテ』


書いている間、ペン先が一度、止まった。


──ご迷惑、という言葉でいいのだろうか。

──でも、他に、何と書けば。


考えるのをやめて、私は紙を畳んだ。



馬車が、城の門をくぐった。


私は窓の外を見ていた。


灰色の石壁。

旗。

朝の光。


二週間前、ここに来たとき、私は震えていた。

今は、震えていない。


ただ、エマのことだけ、考えていた。


馬車が、街道に出た。


森に入る、その前。


蹄の音が、後ろから聞こえた。

速い。

一頭。


馬車が、急に止まった。


「奥様、申し訳ありません」

御者の声が、上から降ってきた。

「旦那様が、馬で」


私は、息を呑んだ。


扉が、外から開いた。


エイベル公爵が、そこにいた。


馬から降りたばかりらしく、息が上がっていた。

上着の前をきちんと留めていない。

髪が、風で乱れている。


そして、顔が、青かった。


血の気が引く、というのは、こういう顔のことだと思った。

父が借金取りに頭を下げた朝、私も同じ顔をしていたかもしれない。


「公爵様」

私は、声をかけた。


彼は、何度か口を開きかけて、閉じた。

それから、絞り出すように言った。


「逃げないで、くれ」


私は、彼を見つめた。


逃げる。


その言葉が、自分にかかっているのだと、すぐには理解できなかった。


「逃げる、と申しますと」


彼の喉が、上下した。


「実家に、戻ると」

彼は言った。

「書置きを、見た」


私は、ようやく気づいた。

彼は、私が三年を待たずに帰るつもりだ、と思っている。


私は、急いで、懐から手紙を取り出した。


「公爵様。

これを」


父からの手紙を、彼に差し出した。


「妹が熱を出したのです。

数日で戻ります。

逃げる、つもりはございません」


彼は、手紙を受け取った。

読む手が、わずかに震えていた。


長い、長い沈黙のあと。


彼は、目を閉じた。


「……失礼した」


低い声だった。


「護衛を、つける。

急がなくていい。

必要なだけ、いてやってくれ」


私は、頷いた。

頷きながら、彼の顔を、もう一度見た。


血の気は、まだ戻っていなかった。


「公爵様」

私は、思いきって聞いた。

「お加減が、悪いのではありませんか」


彼は、首を振った。


「平気だ」


平気だ、の声が、平気そうではなかった。



馬車が、また走り出した。


私は窓から、彼を見た。


彼は、馬の手綱を握ったまま、街道に立っていた。

私の馬車が、見えなくなるまで。


馬車が森に入って、影が落ちた。


私は、座席に背を預けた。


胸の真ん中が、変な感じだった。

痛いのではない。

落ち着かない、というのが、いちばん近い。


──逃げないでくれ、と。


彼は、言った。


冷血と噂されている人が。

私に触れないでほしいと頭を下げた人が。


逃げないでくれ、と。


なぜ。


理由を、私は知らない。

体面のため、だと推測することはできる。

でも、あの顔色は、体面の顔ではなかった。


私は、膝の上で手を組んだ。


エマのもとへ、急がなければ。


それでも、あの青い顔が、目の奥から消えなかった。



馬車は、南へ向かう。


日が、森の梢にかかっていた。


私は、窓の外の光を見ながら、ぼんやりと思った。


──私が、戻ってこないと、思ったのかしら。


戻る、と書置きには書いた。

読み落としたのかもしれない。

信じなかったのかもしれない。


信じない、ほうの理由は、わからない。


わからないことが、また増えた。


馬車の揺れに身を任せながら、私は、目を閉じた。


エマの顔が、まぶたの裏に浮かんだ。

そのすぐ横に、青ざめた公爵の顔も、なぜか並んだ。


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