第2話 実家に戻ると言ったら、公爵様が馬車を止めました
嫁入りから、二週間が経った。
私は、城の生活に慣れた。
正確には、慣れたふりが、上手くなった。
朝は六時に起きる。
マーレンと一緒に朝食をとる。
午前は刺繍。
午後は本。
夕食は、自分の部屋で。
公爵とは、すれ違うことすらない。
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私は、刺繍の手を止めた。
針先を見つめる。
赤い糸が、薔薇の花びらを描きかけて止まっている。
「マーレン」
「はい、奥様」
「私、何かお手伝いできることはありませんか」
マーレンは、お茶を注ぐ手を止めた。
「お手伝い、と申しますと」
「領地のことです。
帳簿の写しでも、手紙の代筆でも。
私、算術は得意なんです」
マーレンは、しばらく私を見た。
それから、ゆっくり微笑んだ。
「旦那様にお伝えしてみます」
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その日の夕方。
私は、書斎の前に立っていた。
扉の前で、息を整える。
ノックをした。
「リーゼロッテです。
お話があります」
短い沈黙のあと、扉の向こうから声がした。
「入らなくていい。
そこで聞く」
私は、扉に向かって言った。
「帳簿のお手伝いをさせてください。
私、算術は得意です。
ご迷惑はおかけしません」
また、沈黙があった。
今度は、長かった。
「不要だ」
それだけ、だった。
私は、扉を見つめた。
不要だ、の四文字が、廊下に落ちて、転がった気がした。
「失礼いたしました」
私は頭を下げて、扉から離れた。
廊下を歩きながら、私は唇を噛んだ。
泣くつもりはなかった。
ただ、少し、息がしにくかった。
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部屋に戻って、私は窓辺に座った。
──そうよね。
私、契約妻だもの。
帳簿に触れたら、家の事情を知ってしまう。
信用されないのは、当然。
そう、自分に言い聞かせた。
それでも。
初夜の、温かい焼き菓子のことを思い出した。
あの皿の温度は、何だったのだろう。
わからない。
わからないことは、考えても仕方ない。
私は、刺繍に戻った。
赤い薔薇の花びらが、いびつに歪んだ。
✦
翌朝。
朝食の席に、マーレンが手紙を持ってきた。
「奥様。
ハーゲン家から、急ぎの便です」
私は、封を切った。
父の字だった。
走り書き。
インクが、紙の上で滲んでいる。
──エマが熱を出した。
──医者は心配ないと言うが、咳がひどい。
──姉に会いたいと言っている。
私の手から、フォークが落ちた。
かちゃん、と、皿の上で鳴った。
「奥様」
マーレンが、駆け寄ってきた。
「妹が」
私は、手紙を握りしめた。
「妹が、熱を」
声が、震えた。
エマは、十五になったばかりだ。
昨年も、冬に熱を出した。
あのとき、私は一晩中、額の布を替えていた。
「お戻りに、なられますか」
マーレンが、静かに聞いた。
私は、頷いた。
「数日、戻ります。
すぐに帰ります」
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荷造りは、早かった。
着替えと、刺繍道具と、エマに渡す薬草の袋。
それだけで足りた。
公爵には、書置きを残した。
『妹が病に伏したため、数日、実家に戻ります。
ご迷惑はおかけしません。
リーゼロッテ』
書いている間、ペン先が一度、止まった。
──ご迷惑、という言葉でいいのだろうか。
──でも、他に、何と書けば。
考えるのをやめて、私は紙を畳んだ。
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馬車が、城の門をくぐった。
私は窓の外を見ていた。
灰色の石壁。
旗。
朝の光。
二週間前、ここに来たとき、私は震えていた。
今は、震えていない。
ただ、エマのことだけ、考えていた。
馬車が、街道に出た。
森に入る、その前。
蹄の音が、後ろから聞こえた。
速い。
一頭。
馬車が、急に止まった。
「奥様、申し訳ありません」
御者の声が、上から降ってきた。
「旦那様が、馬で」
私は、息を呑んだ。
扉が、外から開いた。
エイベル公爵が、そこにいた。
馬から降りたばかりらしく、息が上がっていた。
上着の前をきちんと留めていない。
髪が、風で乱れている。
そして、顔が、青かった。
血の気が引く、というのは、こういう顔のことだと思った。
父が借金取りに頭を下げた朝、私も同じ顔をしていたかもしれない。
「公爵様」
私は、声をかけた。
彼は、何度か口を開きかけて、閉じた。
それから、絞り出すように言った。
「逃げないで、くれ」
私は、彼を見つめた。
逃げる。
その言葉が、自分にかかっているのだと、すぐには理解できなかった。
「逃げる、と申しますと」
彼の喉が、上下した。
「実家に、戻ると」
彼は言った。
「書置きを、見た」
私は、ようやく気づいた。
彼は、私が三年を待たずに帰るつもりだ、と思っている。
私は、急いで、懐から手紙を取り出した。
「公爵様。
これを」
父からの手紙を、彼に差し出した。
「妹が熱を出したのです。
数日で戻ります。
逃げる、つもりはございません」
彼は、手紙を受け取った。
読む手が、わずかに震えていた。
長い、長い沈黙のあと。
彼は、目を閉じた。
「……失礼した」
低い声だった。
「護衛を、つける。
急がなくていい。
必要なだけ、いてやってくれ」
私は、頷いた。
頷きながら、彼の顔を、もう一度見た。
血の気は、まだ戻っていなかった。
「公爵様」
私は、思いきって聞いた。
「お加減が、悪いのではありませんか」
彼は、首を振った。
「平気だ」
平気だ、の声が、平気そうではなかった。
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馬車が、また走り出した。
私は窓から、彼を見た。
彼は、馬の手綱を握ったまま、街道に立っていた。
私の馬車が、見えなくなるまで。
馬車が森に入って、影が落ちた。
私は、座席に背を預けた。
胸の真ん中が、変な感じだった。
痛いのではない。
落ち着かない、というのが、いちばん近い。
──逃げないでくれ、と。
彼は、言った。
冷血と噂されている人が。
私に触れないでほしいと頭を下げた人が。
逃げないでくれ、と。
なぜ。
理由を、私は知らない。
体面のため、だと推測することはできる。
でも、あの顔色は、体面の顔ではなかった。
私は、膝の上で手を組んだ。
エマのもとへ、急がなければ。
それでも、あの青い顔が、目の奥から消えなかった。
✦
馬車は、南へ向かう。
日が、森の梢にかかっていた。
私は、窓の外の光を見ながら、ぼんやりと思った。
──私が、戻ってこないと、思ったのかしら。
戻る、と書置きには書いた。
読み落としたのかもしれない。
信じなかったのかもしれない。
信じない、ほうの理由は、わからない。
わからないことが、また増えた。
馬車の揺れに身を任せながら、私は、目を閉じた。
エマの顔が、まぶたの裏に浮かんだ。
そのすぐ横に、青ざめた公爵の顔も、なぜか並んだ。




