第1話「証拠のない罪」
「バルドー男爵の元帳簿係を攫わせたのは、貴殿ですか?」
司法庁から派遣された司法官は、長机を挟んでルシアン・フォン・オーリを見据えていた。
父を葬ってから七日、二十歳のルシアンが子爵として受けた最初の問いは、領地の収支でも家臣の処遇でもなかった。
「いいえ」
ルシアンは司法官の視線を正面から受け止めた。
司法官は手元の木板へ目を落とした。
そこには、三日前の夜に起きた事件の概要が刻まれている。
バルドー男爵家に十年仕えた元帳簿係が、帰宅途中に四人の男から連れ去られた。
男は目隠しをされたまま一晩拘束され、男爵家の取引について尋ねられた後、怪我もなく解放されている。
「男は、攫った者たちの顔を確認しておりません」
司法官は木板を裏返した。
「声にも聞き覚えはなく、拘束された場所も特定できないと答えています」
「それでも、私をお疑いなのですね?」
ルシアンが尋ねると、司法官は首を横へ振った。
「現時点では、貴殿の関与を示す証拠がありません。令状を請求する根拠もないため、今日は事情を伺うだけです」
長机の横で椅子を軋ませたのは、恰幅のよい初老の男だった。
仕立てのよい喪服を隙なく着こなしたバルドー男爵は、姉の息子へ穏やかな視線を向けている。
「…元帳簿係へ用がある者など限られている」
バルドーは司法官へ語りかけた。
「しかも尋ねられたのは、私が領主として認めた支出や取引ばかりです。誰が利益を得るのかを考えれば、疑うべき相手は明らかでしょう」
「叔父上には、敵が少ないのですか?」
ルシアンが問い返すと、バルドーの口元から笑みが消えた。
「少なくとも、私の帳簿へ興味を持つ者は多くない」
「では、私を告発なさればよろしい」
「証拠がないと、いま司法官が説明したばかりだ」
バルドーは長机の上へ一枚の羊皮紙を置いた。
末尾には男爵家の印が押され、その隣にはオーリ家との血縁を示す家系が記されている。
「だからこそ、事件が起きる前に止める者が必要なのだ」
羊皮紙に記されていたのは、バルドーをオーリ子爵家の親族後見人に任命するよう求める申立てだった。
ルシアンが父を葬った翌朝、バルドーは司法庁へ申立てを提出している。
新たな領主が若く、統治の経験を欠く場合には、近親者が一時的な監督権を求めることが認められていた。
「後見が認められれば、領内の重要な支出と家臣の任免には私の同意が必要となる」
バルドーはルシアンへ向き直った。
「姉から預かった家を、二十歳の若者が危険へさらす姿など見たくはない」
「母は、オーリ家を叔父上へ預けておりません」
「亡くなった者の意思を確かめることはできまい」
バルドーの返答を受けても、ルシアンは申立書に触れなかった。
司法官が二人の間へ手を差し入れ、羊皮紙を引き寄せた。
「親族後見人の審査と、元帳簿係が受けた被害の調査は別に行います」
司法官はバルドーへ告げた。
「証明されていない疑いを、後見の必要性を示す根拠にはできません」
「若さだけで十分なはずだ」
「十分かどうかを判断するための審査です」
司法官は続いてルシアンへ顔を向けた。
「審査を始めるまでに、オーリ家の収支、私兵の指揮系統、家臣の任免状況を確認します。司法庁の求めに応じてください」
「承知しました」
ルシアンが答えると、バルドーは椅子から立ち上がった。
「審査が終わるまで、大きな決定は控えることだ」
バルドーは長机を回り込み、甥の肩へ手を置いた。
「私が後見人となれば、お前は無理に大人の真似をする必要もなくなる」
「お気遣いに感謝いたします」
ルシアンの返答を聞いたバルドーは、わずかに目を細めた。
それ以上は何も告げず、司法官より先に執務室を出ていく。
扉が閉じると、司法官は木板を革袋へ収めた。
「元帳簿係の証言を裏づける物が見つかれば、司法庁は正式な捜査へ移ります」
「その際は、改めてお越しください」
「令状を伴う訪問となります」
「法に従ってお迎えいたします」
司法官はルシアンの返答を記録せず、革袋を手に立ち上がった。
廊下へ続く扉が再び閉じてから、入れ替わるようにセレナが執務室へ入ってきた。
銀の盆には茶器と、小さく折り畳まれた羊皮紙が載せられている。
「元帳簿係は、予定どおり自宅へ戻しております」
セレナは紅茶を注ぎながら報告した。
「追跡された者はおりません。拘束に使った馬車と外套も処分を終えています」
「聞き出せた内容は?」
「バルドー男爵が、領民を防衛施設の建設へ送った後、別の領地へ移した記録があるそうです」
セレナは折り畳まれた羊皮紙を盆から取り、ルシアンの前へ置いた。
「運ばれた者の名と、荷馬車が通過した街道を聞き出しました。取引を記した裏帳簿は、男爵家の領都別邸に保管されているそうです」
ルシアンは羊皮紙を開かなかった。
「保管場所には入るな」
「裏帳簿を持ち出さないのですか?」
「我々が盗めば、司法庁へ提出できない」
ルシアンはバルドーが残した申立書を手元へ引き寄せた。
「移された領民を探し、荷馬車を見た者と街道の通行記録を確認しろ。裏帳簿の場所は、司法庁が自ら辿り着ける形で知らせる」
「…匿名の通報では、証拠として扱われません」
「捜査を始めさせればいい」
ルシアンは申立書に記された男爵家の印へ指を置いた。
「証拠は司法庁に見つけさせる。叔父上の罪を証明するのは、司法官の仕事だ」
「バルドー男爵は、旦那様が命じたと確信されている様子です」
「確信だけでは、令状を取れない」
セレナは空になった革袋を盆の下へ収めた。
「では、旦那様の罪は?」
ルシアンは司法官が座っていた椅子を一度見てから、親族後見人の申立書を伏せた。
「先ほど、証拠がないと確認した」
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