後日談
晴れて本当の婚約者となったあの日から、数日が過ぎた。
午後の王宮の対局室。
二人きりでチェス盤を挟んで向かい合う光景は今までと変わらないはずなのに、その場に流れる空気は以前よりもずっとやわらかい。
カツン、と私が白の駒を動かすと、殿下は黒の駒へ手を伸ばしながら、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば……先日、父上に婚約の報告をした際、父上が『勘は当たった』と言っていたが、お前は父上の勘のことを知っていたのか?」
「陛下の勘ですか?」
私は記憶を巻き戻すように首を傾げた。
「五年前に仮婚約の契約を結ぶにあたって、あまりにも私にとって有利な条件ばかりでしたので、どうしてそこまでしてくださるのかとお尋ねしたことがございます。その時、陛下は『勘が働いてね』と仰っていました。……それが何か?」
「……父上は、異常なまでに勘が働く」
「……は?」
あまりにも唐突な告白に、私は目を瞬かせた。
「勘が働いた時の、良い予感は必ず当たる。そう言っても過言ではない力を秘めておられる」
「え? ええぇ……? 何ですかその、物語の主人公みたいな能力……」
「ただ、あくまで感覚的な勘らしい。自分の意思で自由に発動できるわけではないし、なぜそう思うのかを論理的に説明することもできないそうだ。そのせいで、周囲からは時に突飛で理解不能な判断に見えることもある。……お前に仮婚約を打診したのも、おそらくその勘だ」
殿下の説明を聞いた瞬間、五年前の陛下の表情が鮮やかに脳裏へ蘇る。
(あぁ……! だからあの時、理由を問われて陛下は少し困ったようなお顔をなさってたんだ!)
「なるほど……。勘というと一般的には曖昧なものですが、陛下ご自身にとっては、それが何よりも確実で絶対的な事実なのですね。だからこそ、周囲との認識に差が生まれてしまうのですね」
「そういうことだ。父上ご本人もそれを分かっているから、理由を聞かれても何食わぬ顔でサラリと流してしまうんだよな……」
殿下は心底苦労しているといった様子で、深々とため息を吐かれた。
「あれ? では、陛下のお力を知っていた殿下は、五年間の仮婚約の答えがどうなるかもご存じだったのですか?」
「いや、知らなかった。能力の存在を知っていても、父上が中身を口にしない限り、俺には分からないからな。……だから俺も、あの日は生きた心地がしなかったんだぞ」
そう言って、殿下はそっぽを向いた。
(そっか……。陛下って、改めて底知れないお方だなぁ)
「ところで、お前は父上に『勘が働いた』と言われて、どう思ったんだ?」
「そうですね……人の人生を左右するには、ずいぶん曖昧で軽いお言葉だなと」
「……まあ、普通はそう思うか」
「ですが、勘と言われてしまってはこちらも返答に困りますし……きっと、『殿下の虫除けにちょうどいい』とでもいう勘が働いたのだろうと納得いたしました」
「……待て」
殿下が駒を動かす手をピタリと止め、眉間に皺を寄せる。
「先日も言っていたが、何だその『虫除け』というのは」
「え? 殿下は群がる高位貴族の令嬢方に辟易していらっしゃると伺っておりましたから。悪い魔女として忌み嫌われる黒髪に赤い瞳、そのうえ頬に傷痕まである私なら、家格的にもちょうどいい虫除けになるじゃないですか」
「…………」
殿下は信じられないものを見るような目で私を見つめ、それから頭を抱えられた。
「いくら国王とはいえ、侯爵家の令嬢をそんな理由で虫除けに使うなんて、失礼にもほどがあるだろう。父上は、絶対にそんな無礼な真似をする方ではない」
「それはまあ、普通の令嬢でしたらそうでしょうけど……私のこの容姿なら、あり得るかなぁ、と」
「お前は……! どうしてそうも自己評価が低いんだ……! 俺からの好意も、まるで伝わっていなかったし……」
殿下の悲しそうな、それでいて呆れ果てた声に、私は思わず口を尖らせた。
「言ってくださらなきゃ分かりませんよぅ。それに、そもそも殿下は、五年前の初めての顔合わせの日に、私の顔を見て盛大に舌打ちをなさったじゃないですか」
あの初対面の日の出来事は、今でも私の記憶に強く刻まれている。
けれど私の言葉を聞いた瞬間、殿下はハッと目を見開き、みるみる顔を真っ赤にされた。
「あ……! あれは、その……! あれは、父上の意図に気づかず判断してしまった、自分の軽率な悪手に対する舌打ちだ。くそっ。初手だけではなく、二手目まで悪手を指していたとは……!」
「……陛下の意図? 悪手? どういうことですか?」
首を傾げる私に対し、殿下は遠い目をして、ひどく気まずそうに視線を泳がせた。
「……気にするな。とにかく、お前に向けた舌打ちではなかったということだ」
「はぁ……。よく分かりませんが、私への舌打ちではなかったのですね」
(なんだろう……? 陛下の意図って、一体どういう意味なんだろう?)
腑に落ちないものは残りつつも、殿下が私を嫌って舌打ちをしたわけではないと知って、胸のつかえがスッと下りていく。
「さあ、殿下。お次は殿下の番ですよ」
「……ああ」
チェス盤を挟んで、視線が交差する。
お互いの指し手を進める静かな時間の中には、確かな温もりと深い絆が満ちていた。
言葉にできない秘密や謎は、まだ少しだけ残っている。
でも、この人と一緒なら、どんな新しい盤面だってきっと楽しみながら進んでいける。
そんな予感を胸に、私は静かに次の駒へと手を伸ばした。
これにて『犠牲と昇変』一作目は完結です。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
今後の予定を活動報告に載せております。
続編が気になる方は、そちらをご覧ください。




