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第五章「本当はどう思ってたの?」

ついに最終回です!


校長先生から語られる、現代行動原理研究会ができた経緯。


昔の九条先輩は、今とは少し違っていたらしい。


白衣も着ていない。


今ほど目つきも鋭くない。


そして、まだ人に向かって、


「なぜ?」


と聞いて回ってもいない。


では、いったい何があったのか?


そしてなぜ、九条先輩はこの変な研究会を作ったのか?


藤田恒一郎の高校生活を大きく変えた研究会。


その始まりのお話です。


第五章。


「本当はどう思ってたの?」


そして――ついに完結です!

「実は――」


 校長先生は、そこで一度言葉を切った。


 僕は黙って続きを待つ。


 校長室の前。


 ついさっきまでそこにいた黒いスーツの男たちは、もう廊下の向こうへ消えていた。


 朝、校門の前で突然、


『現代行動原理研究会という部活動を知っているか?』


 なんて聞かれたときは、どう考えても怪しい人だと思っていた。


 ところが、校長先生がわざわざ部屋の前まで見送っている。


 もしかして、本当にかなり偉い人だったのだろうか。


 水野先輩から、九条先輩は元々今のような性格ではなかったと聞いた。


 そして今、僕は顧問の校長先生に、何も知らなかった現代行動原理研究会ができた経緯を聞きに来た。


「現代行動原理研究会ができたのは、ある事件がきっかけだった」


「ある事件?」


「まぁ、立ち話もなんだ。入りなさい」


「はい」


 僕は少し緊張しながら、初めて校長室へ入った。


「ところで、さっきの人たちは?」


「あぁ、今朝、話しかけられたと言っていたね。文部科学省の方たちだよ」


「文部科学省!?」


 思わず大きな声が出た。


「そんなに驚くことかね?」


「いや、その……」


 ちょっと恥ずかしくなり、俯き加減に答える。


「もっと怪しい人だと思ってました」


「何をしたら、そんなふうに見えるんだね?」


「見た目です」


 校長先生は少し困ったように笑った。


 だって、黒いスーツに黒いネクタイ。


 ポマードでテカテカに固めたオールバック。


 朝っぱらから高校の校門で生徒を呼び止めて、謎の研究会について尋ねてくる。


 怪しいと思うなという方が無理だ。


「九条君の研究について、少し話を聞きに来ていたんだよ」


「九条先輩の?」


「ああ」


「九条君はね、入学した頃から少し変わった生徒だった」


 校長先生はソファに腰を下ろしながら言った。


「……それはなんとなく分かります」


「今とは意味が違うよ」


「違うんですか?」


「ああ」


 僕も向かいのソファに座る。


挿絵(By みてみん)


「もともと彼女は心理学に非常に興味を持っていた。中学生の頃からかなり本を読んでいたらしくてね」


「へえ……」


「高校に入ってからは、先生たちにもよく質問をしていた。最初は単に心理学が好きな生徒だと思われていたんだが、話してみると知識量が高校一年生とは思えなかった」


 なんとなく想像できる。


 一年生の九条先輩が先生のところへ行って、


『この論文なんですが』


 なんて言い始める姿。


「学校としても、できる範囲で協力することになった。資料を紹介したり、外部の研究会について教えたりね。そのうち九条君自身も研究をまとめるようになった」


「九条先輩が書いたという論文ですね。話だけは聞いたことがあります」


「そうだよ」


 やっぱり。


 以前、生徒会室へ行くときに、九条先輩が論文を書いて審査の費用をもらっているという話を聞いた。


 冗談ではなかったらしい。


「高校生の研究としては非常に面白いと、外部でも少しずつ評価されるようになった。今日来ていた方々も、その関係だ」


「じゃあ、九条先輩の論文が文部科学省にまで?」


「直接というより、研究者や学会を通じて話が伝わったという方が近いかな」


「その論文に『現代行動原理研究会』の名前があったんだろう。それで今朝、君に聞いたんじゃないかな」


「すごい人だったんですね……」


 思わず口から出た。


 普段はコーヒーを飲みながら、


『普通とはなんだ?』


『なぜ?』


 と人を困らせている姿しか見ていない。


「本人には言わない方がいいかもしれないね」


「なんでです?」


「『すごいとは何を基準に言っている?』と聞かれるかもしれない」


「……ありそう」


 ものすごくありそうだった。


 校長先生が笑う。


 でも、その表情はすぐに少し真面目なものへ変わった。


「ただし」


「はい」


「今の九条君が研究しているものは、入学当初とは少し違う」


 僕は顔を上げた。


「水野先輩も、そんなこと言ってました」


「そうか」


「昔から心理学は好きだったけど、今みたいに人が本音を言わないとか、そういうことばっかり気にしてなかったって」


「その通りだよ」


 校長先生は頷いた。


「一年生の秋頃だったかな」


「秋?」


「遠藤君と、同じ学年の女子生徒たちとの間で、少しトラブルがあったらしくてね」


「どんな?」


「それは私も詳しくは知らない。担任の先生からそう聞いただけでね」


「そうなんですね」


「ただね」


 校長先生の表情が、少し真面目になる。


「私が気になったのは、遠藤君ではなく九条君だった」


「九条先輩?」


「ちょうどその頃から、彼女が変わっていった」


「どんなふうにですか?」


「君の知っている通りだよ」


 校長先生が続けた。


「九条君が、人間の言葉と行動の食い違いばかり調べるようになった」


「…………」


「なぜ嫌なのに笑うのか」


 僕は顔を上げた。


「なぜ本心とは違う言葉を使うのか」


 この間のSNSの件を思い出す。


『本人には言わないの?』


 そして今日の会議。


 僕が大道芸の話をしたときの九条先輩。


『間違っているかもしれないからこそだよ』


「それまでとは明らかに違った」


 校長先生は言った。


「授業でも、日常でも、人が何気なく口にした言葉を気にするようになった。『普通』『みんな』『別に』『考えておく』。そんな言葉を聞くたびに、なぜそう言ったのかと考えていたよ」


 全部。


 僕が入部してから見てきた九条先輩そのものだった。


「それで、現代行動原理研究会を?」


「そうだ」


「いつ作ったんですか?」


「一年生の終わり頃だったかな」


 事件が秋。


 そこから冬の間、ずっと考えて。


 その結果。


 あの変な部活ができた。


「でも」


 もう一つ気になっていたことを聞く。


「なんで校長先生が顧問を?」


 校長先生は少し笑った。


「誰もやりたがらなかったからだよ」


「やっぱりですか」


 思わず即答してしまった。


「そこは少し否定してほしかったんだがね」


「だって九条先輩ですよ?」


「君も苦労しているようだね」


「はい」


 学校の先生が毎日、


『先生、今の“考えておく”は本当に考えるという意味ですか?』


 なんて聞かれたら。


 ……僕でも逃げる。


「九条君が優秀な生徒であることは、先生たちも認めていた。ただ、何をするのかよく分からない研究会の顧問となると、話は別だったらしい」


「分かります」


「そこで私が引き受けた」


「どうしてです?」


 校長先生は少しだけ間を置いた。


「私は、入学した頃の九条君を知っていたからね」


「…………」


「彼女が突然おかしな部活を作って遊び始めたわけではないことくらいは分かっていた」


 その言葉に、少しだけ胸が詰まった。


「何かを知りたくて仕方がないんだろう、と」


「…………」


「それなら、好きなだけ調べさせてみようと思ったんだ」


 この人。


 思っていたより、ずっと九条先輩のことを見ていたらしい。


「遠藤先輩は?」


「遠藤君?」


「最初から部員だったんですか?」


「ああ」


 校長先生は少し笑った。


「九条君が研究会を作ると言ったら、すぐに入ってきたよ」


「なんて言って?」


「さてね……」


 少し考える。


「『面白そうなこと始めたね』って聞いたかな」


 遠藤先輩らしい。


「ただ」


「はい?」


「私には、九条君が心配だったようにも見えた」


「…………」


「遠藤君も、自分の事件のあとから九条君が変わったことくらいは分かっていたんじゃないかな」


 でも。


 本人には聞かなかった。


 そのことも、なんとなく遠藤先輩らしいと思った。


「校長先生」


「なんだね?」


「九条先輩は、その事件で何があったから、そこまで変わったんですか?」


 校長先生は首を横に振った。


「そこから先は、私にも分からない」


「分からない?」


「九条君があの日何を見て、何を考えたのかまでは知らないよ」


「…………」


「それは」


 校長先生は僕を見る。


「本人に聞いた方がいい」


     ◇


 次の日。


 放課後。


 僕はいつものように現代行動原理研究会の部室へ向かった。


 扉を開ける。


「失礼します」


「あぁ、藤田君か。コーヒーなら入っているよ」


 九条先輩は一人だった。


 窓際の席。


 白衣。


 長い黒髪。


 机にはコーヒー。


 いつもと何も変わらない。


「遠藤先輩は?」


「今日は少し遅くなるそうだ」


「そうですか」


 僕は向かいの椅子へ座る。


「…………」


「…………」


 九条先輩がコーヒーを飲む。


 僕は机を見る。


「…………」


「藤田君」


「はい?」


「今日は妙に静かだな」


「そうですか?」


「何か聞きたいことでもあるのか?」


 鋭い。


 こういうところは、やっぱりこの人だ。


「あの」


「なんだ?」


 僕は一度、息を吸った。


「現代行動原理研究会って、どうして作ったんですか?」


 九条先輩の手が止まった。


 ほんの少しだけ。


「なぜ、そんなことを気にする?」


「そりゃ、気になりますよ。昨日だって黒服にこの部活のことを聞かれたし」


「もしかして、校長先生から聞いたのか?」


「少しだけ」


「どこまで?」


「一年生の頃から心理学をやってたことと、遠藤先輩に何かあったこと」


「そうか」


 九条先輩はカップを机に戻した。


「もう昔の話だよ」


「…………」


「今さら聞いても面白い話ではないと思うが」


 いつもの九条先輩なら。


『なぜ必要もないことを調べ始めた?』


 くらい言いそうなのに。


 今日は、それ以上話そうとしなかった。


「でも」


「なんだ?」


「僕、僕だって、この部の部員です」


「知っている」


「九条先輩は、いつも僕に聞くじゃないですか」


「何を?」


「『君はどう思う?』って」


「…………」


「だから僕も」


 少し緊張する。


「九条先輩に何があって、どう思ったのか。そして、なぜこの部活を作ったのか知りたいです」


 九条先輩は何も言わない。


 窓の外を見る。


 しばらくしてから。


「昨日」


 と言った。


「はい?」


「君は、桜まつりの会議で大道芸を提案したな」


「……できれば忘れたいんですけど」


「なぜ?」


「恥ずかしかったからですよ!」


 いつもの調子。


 でも、九条先輩は笑わなかった。


「間違っているかもしれない」


「…………」


「知らない人間から、何を言っているんだと思われるかもしれない」


「はい」


「それでも、君は先に意見を言った」


 九条先輩は少し目を伏せた。


「あれを見ていて」


「…………」


「昔の自分を思い出した」


「九条先輩を?」


「ああ」


 そして。


 今まで聞いたことのないような、小さな声で言った。


「私は、言えなかったからな」


     ◇


 ――高校一年生の秋。


 当時の私は、今とは少し違っていた。


 心理学が好きなのは同じだった。


 中学生の頃から関連する本を読むのが好きで、高校に入ってからは先生たちにもいろいろと教えてもらっていた。


 自分で調べたことを文章にまとめてみたら、先生が論文の形に直してみないかと言ってくれた。


 面白かった。


 知らないことを知ることが。


 人間がどう考えるのか。


 なぜ同じ状況でも、人によって判断が違うのか。


 その頃の私は、そんなことを調べていた。


 政彦とは、小学生の頃から一緒だった。


 家が近かった。


 中学も同じ。


 高校も、二人とも家から近かったから同じ学校へ進んだ。


 ただそれだけだ。


 政彦は昔から、私とは正反対だった。


 誰とでも話せる。


 いつも笑っている。


 面倒なことがあっても、だいたい適当に流してしまう。


 高校に入ってからは、女子からもかなり人気があった。


 私はそれについて、特に何も思っていなかった。


 ――あの日までは。


     ◇


「遠藤君に告白したら、どうすると思う?」


 放課後。


 教室へ忘れ物を取りに戻った私は、廊下の向こうからそんな声を聞いた。


 女子生徒が数人。


 楽しそうに話していた。


「絶対OKするって」


「えー、断るんじゃない?」


「じゃあ賭ける?」


「いいじゃん」


 最初は何の話か分からなかった。


 少し聞いて。


 ようやく意味を理解した。


 一人が政彦に告白する。


 もちろん、本当に好きなわけではない。


 政彦が付き合うと言うか。


 断るか。


 それをみんなで賭ける。


「…………」


 悪趣味だと思ったよ。


 でも。


 本当にやるのか?


 その場の冗談ではないのか?


 私は聞いただけだ。


 誰が告白するのか。


 いつやるのか。


 そこまでは分からなかった。


 政彦に言う?


『女子たちがお前に嘘の告白をするかもしれない』


 そんなことを?


 もし違っていたら?


 私の聞き間違いだったら?


 ただの冗談だったら?


「…………」


 やめた。


 確実になってからでいい。


 そう思った。


     ◇


 翌日。


 私は、昨日話していた女子たちを見かけた。


 何人かで廊下の端に集まっている。


 昨日と同じ顔ぶれ。


 その中の一人が、政彦を呼びに行った。


 その瞬間。


 背中が冷たくなった。


 本当にやる。


 私は後を追った。


 でも。


 声をかけることはできなかった。


 まだ。


 まだ何か勘違いかもしれない。


 本当にやるはずがない。


 そう思った。


 いや、本当はあのとき、私はただ言うのが怖かったのかもしれない。


 女子生徒が、人気のない場所で政彦を待っていた。


 少し離れたところには、他の女子たちが隠れている。


 それを、遠くから見ていた。


 政彦が来た。


「どうしたの?」


「あのさ」


 女子生徒が、少し緊張しているような顔をする。


 上手かった。


 少なくとも、その場で見ただけなら。


 私だって、昨日の会話を聞いていなかったら信じていたかもしれない。


「私、遠藤君のこと前から好きだったんだ」


 政彦が目を丸くする。


「え?」


「よかったら、私と付き合ってほしいの」


「…………」


 政彦は本当に驚いていた。


 少し困ったように笑う。


「……俺でいいの?」


「うん」


 少し間があった。


 そして。


「じゃあ……よろしく」


 政彦がそう言った瞬間。


「えーっ!」


「本当にOKした!」


「やっぱり!」


 隠れていた女子たちが出てきた。


 政彦が振り返る。


「え?」


 告白した女子が笑った。


「ごめん!」


「…………」


「嘘!」


「…………」


「ドッキリでしたー!」


 周りの女子たちが笑う。


「ほら、やっぱりOKしたじゃん!」


「私の勝ち!」


「えー、絶対断ると思ったのに!」


 政彦は。


 何も言わなかった。


 ほんの一瞬。


 ほんの一瞬だけ。


 立ったまま固まっていた。


 目が。


 笑っていなかった。


 でも。


「あー……」


 政彦が頭をかいた。


「マジか」


 笑った。


「普通に騙されたじゃん」


「ごめんごめん!」


「本当に付き合うつもりじゃないから!」


「分かってるって」


 政彦は笑う。


「やられたわ」


 その瞬間。


 女子たちの顔から緊張が消えた。


「遠藤君、怒ってない?」


「別に」


「よかったー!」


「じゃあ大丈夫じゃん!」


 みんな笑っている。


 政彦も笑っている。


 だから。


 これでいい。


 そんな空気になった。


 違う。


 そんなはずがない。


 私は心理学を勉強していた。


 人の表情についても読んだことがある。


 声の変化も。


 身体の動きも。


 でも。


 そんなものより。


 私は政彦を昔から知っている。


 分かる。


 あれは。


 本当に笑っているときの顔じゃない。


     ◇


 女子たちがいなくなったあと。


「政彦」


 私は声をかけた。


「あれ、雅子」


 政彦が振り返る。


「さっきの、見てたの?」


「……ねぇ、なんで笑ってるの?」


「え?」


「さっきの」


「さっき?」


「なんで笑ったの?」


 政彦は少し困ったような顔をした。


「いや、普通に騙されたし」


「嫌じゃなかったの?」


「別に」


「…………」


「俺も気付かなかったんだからしょうがないだろ」


「そんなはずない!!!」


挿絵(By みてみん)


 気付いたときには、大きな声が出ていた。


 政彦が驚いて私を見る。


「嫌だったでしょ!?」


「雅子?」


「悔しかったでしょ!?」


 目の奥が熱くなる。


「あんなことされて、平気なはずないよ!」


「…………」


「なんで……」


 声が震えた。


 涙が出そうになった。


 いや。


 少し出ていたのかもしれない。


「なんで嫌なのに、悔しいのに笑っているの」


 政彦は黙った。


「おかしいよ、そんなの!」


 さっきまで笑っていた顔が消える。


「…………」


 私は待った。


 嫌だった。


 そう言うと思った。


 悔しかった。


 そう言ってくれると思った。


 でも。


「……もういいって」


 政彦は言った。


「え?」


「終わったことだし」


「でも」


「俺がいいって言ってるんだから、いいだろ」


「…………」


「こんなことで揉めたってしょうがないし」


 そして。


 また笑った。


「だから、もういいよ」


 納得できなかった。


 そんなはずないと思った。


 でも。


 私には。


 もう一つ言わなければならないことがあった。


『私は昨日から知っていた』


 言わなければ。


『あの子たちが、こういうことをするかもしれないって知っていた』


 でも。


 言えなかった。


 今さら?


 今さら言ってどうする?


 知っていたのに。


 私は何もしなかった。


 もし政彦に、


『知ってたのに黙ってたの?』


 と言われたら?


 怖かった。


「…………」


 だから。


 私は最後まで。


 何も言えなかった。


     ◇


「……それが、現代行動原理研究会を作った理由だ」


 九条先輩の声で、僕は現在に戻った。


 部室。


 いつもの机。


 いつものコーヒー。


 でも。


 九条先輩が、少し違って見えた。


「事件のあと、どうしても納得できなかった」


 九条先輩は静かに言った。


「なぜ政彦は嫌なのに笑っていたのか」


「…………」


「なぜあの女子たちは、政彦が笑っただけで安心したのか」


「…………」


「なぜ私は、知っていたのに言えなかったのか」


 九条先輩が少しだけ笑う。


「気がつけば、そんなことばかり調べるようになっていた。なぜ人は本音と違うことをするのか」


「それで……この部活を?」


「ああ」


「遠藤先輩も入ったんですよね?」


「『面白そうなこと始めたね』と言ってな」


 やっぱり。


 校長先生が言っていた通りだ。


「政彦は、おそらく薄々気付いていたと思う」


「何にです?」


「私が、あの事件のあとから変わったことに」


「…………」


「それでも何も聞かなかった」


 九条先輩は少しだけ遠くを見るような目をした。


「そういう奴だからな」


 その言い方は。


 嫌そうなのに。


 少し優しかった。


 僕は、しばらく何も言えなかった。


 でも。


 一つ。


 どうしても気になることがある。


「九条先輩」


「なんだ?」


「その後、遠藤先輩には言ったんですか?」


「何を?」


「九条先輩が、そのことを事前に知ってたって」


「…………」


 九条先輩が黙った。


「言ったんですか?」


「……いや」


「今も?」


「ああ」


「…………」


 今も。


 二年近く。


 この人はずっと。


 本人には言えていない。


「私はあのとき、間違っているかもしれないと思った」


 九条先輩が言った。


「だから、確実になるまで待った」


「…………」


「誰かが動くのを見てから、自分も動こうとした」


 少し笑う。


 自嘲するような。


 僕が今まで見たことのない笑い方だった。


「確実になったときには、もう遅かった」


 昨日。


 桜まつりの会議で言われた言葉を思い出す。


『間違っているかもしれないからこそだよ』


 あれは。


 僕に言っていただけじゃなかったのかもしれない。


「九条先輩」


「なんだ?」


「それ」


「…………」


「今からでも、言わないんですか?」


 九条先輩が顔を上げた。


 この間の。


 SNSに愚痴を書いていた人へ。


 九条先輩自身が聞いた言葉。


『本人には言わないの?』


 今度は。


 僕が九条先輩に聞いている。


「……今さら言って、何になる?」


「分かりません」


「…………」


「でも」


 僕は少し考える。


 普通なら。


 そう言いそうになって。


 やめた。


「僕だったら、言ってほしいです」


 九条先輩は僕を見る。


「藤田君なら?」


「はい」


「…………」


「僕だったら、あとからでも言ってほしいです」


「しかし」


「それを聞いて遠藤先輩がどう思うかは」


 僕は言った。


「遠藤先輩が決めることじゃないですか?」


「…………」


 静かになった。


 九条先輩は何も言わない。


 僕も何も言わない。


 長い沈黙。


 やがて。


 九条先輩が椅子から立ち上がった。


「……そうだな」


「九条先輩?」


 白衣の裾を整える。


「君の言う通りだよ。政彦のところへ行ってくる」


「僕も行きましょうか?」


「いや」


 九条先輩は首を振った。


「これは、私が言うべきことだ」


「…………」


「藤田君」


「はい?」


「ありがとう」


「え?」


 聞き返す前に。


 九条先輩は部室の扉を開けた。


「九条先輩!」


 僕も扉のところまで行く。


 廊下の向こう。


 ちょうど遠藤先輩が歩いてきた。


「あれ?」


 遠藤先輩が九条先輩を見る。


「雅子?」


「政彦」


「どうした?」


 九条先輩は、一瞬だけ黙った。


 でも。


 今度は逃げなかった。


「話したいことがある」


「…………」


 遠藤先輩が少し驚いた顔をする。


 九条先輩は、そのまま歩いていく。


 僕は追いかけなかった。


 何を話したのか。


 遠藤先輩がどう答えたのか。


 僕は知らない。


 でも。


 それでいいんだと思う。


 それは。


 二人の話だから。


     ◇


 ――それから二年後。


 春。


 窓の外では、今年も桜が咲いていた。


「…………」


 僕は一枚のポストカードを眺めていた。


 写真には、外国の古い大学らしい建物。


 裏返す。


『藤田君へ。


 こちらでも「How are you?」と聞かれて、本当の体調を答える人間は少ないらしい。


 実に興味深いよ。


 九条雅子』


「……相変わらずだな」


 思わず笑う。


 九条先輩と遠藤先輩は、去年の春に卒業した。


 遠藤先輩とは、今でもたまにメッセージのやり取りをする。


 九条先輩は。


 海外にいる。


 あのとき学校へ来ていた文部科学省の人たちの話がきっかけになり、高校卒業後、若い研究者を支援する制度を利用して海外へ行った。


『続いてのニュースです』


 部室の隅に置かれたテレビから声が聞こえる。


『海外の大学で心理学を研究している日本人研究生、九条雅子さんが――』


「え?」


 僕はテレビを見る。


 画面に。


 見慣れた顔が映っていた。


 長い黒髪。


 鋭い目。


 さすがに白衣ではなかった。


『若手研究者を対象とした国際心理学賞を受賞しました』


「…………」


 思わずポストカードとテレビを交互に見る。


「本当にすごい人だったんだな……」


 口にしてから。


 少し考える。


 いや。


 違うか。


 九条先輩だって間違える。


 言えないこともある。


 悩むこともある。


 それでも。


 考えて。


 自分で答えを探して。


 また進んでいく。


 たぶん。


 そういう人なんだ。


 僕はポストカードを机の上に置いた。


 この部室も。


 ずいぶん静かになった。


 現代行動原理研究会。


 現在の部員。


 一名。


 部長。


 藤田恒一郎。


 ……僕である。


 まさか、あの日から二年後もこの部活を続けているとは思わなかった。


 二年前の入学式の日。


 僕は普通の高校生活を送りたいと思っていた。


 友達を作って。


 部活に入って。


 もしかしたら彼女なんかもできたりして。


 そう思っていた。


 結果。


 なぜか白衣を着た変な美人の先輩に捕まり。


『普通とはなんだ?』


 なんて聞かれ。


 気付けば。


 こんな部活の部長になっている。


 ……本当に、どうしてこうなったんだろう。


 コンコン。


「ん?」


 扉を叩く音。


「どうぞ」


 そう答えると、扉がゆっくりと開いた。


「あの……失礼します」


 顔を覗かせたのは、まだ制服の着こなしにも慣れていなさそうな女子生徒だった。


 胸元の校章を見る。


 一年生だ。


 先日の入学式に入ってきた生徒だろうか。


 大人しそうな子だった。


「どうしたの?」


「あの、ここって……現代行動原理研究会ですよね?」


「そうだけど」


 僕が答えると、その生徒は少し安心したような顔をした。


「よかった。場所、合ってた」


「入部希望?」


「えっ、あ、いや。まだそこまでは……」


 慌てて手を振る。


 なんだか見覚えのある反応だ。


「ちょっと気になって、見に来ただけなんですけど」


「そっか。入っていいよ」


「失礼します」


 一年生は、おそるおそる部室に入ってきた。


 部屋を見回す。


 机。


 本棚。


 ホワイトボード。


 コーヒーを淹れるための道具。


 今となっては、見慣れたものばかりだ。


「あれ?」


「ん?」


「白衣の人はいないんですか?」


「…………」


 僕は一瞬黙った。


「なんで白衣の人がいると思ったの?」


「ニュースで見た九条雅子さんって、この部活にいたんですよね?」


「ああ」


「写真を調べたら、学校でずっと白衣着てたみたいなので」


「…………」


 海外で賞を取ったあとまで、あの白衣がついて回っているらしい。


「白衣は部活の制服じゃないよ」


「違うんですか?」


「あれは九条先輩が勝手に着てただけ」


「じゃあ私、入っても着なくていいんですか?」


「着たいなら止めないけど」


「いや、いいです」


 即答だった。


 正しいと思う。


 一年生は改めて部室を見回した。


「九条さんって、本当にここで研究してたんですか?」


「してたよ」


「心理学の?」


「まあ、そうだね」


「すごいですね……」


 その言葉を聞いて、二年前なら僕も同じような反応をしていただろうと思った。


 でも。


 九条先輩がすごいのは知っている。


 同時に、あの人が何でも分かっているわけじゃないことも知っている。


 間違えるし。


 悩むし。


 本音を言えなくなることだってある。


「それで」


 一年生が僕を見る。


「この部って、具体的に何をするんですか?」


「…………」


 僕は固まった。


 二年前。


 校門で黒服の男に、まったく同じことを聞かれた記憶が蘇る。


 あのときの僕は、


『そこまでは、ちょっと……』


 としか答えられなかった。


 今なら。


「まあ……」


 僕は少し考える。


「人が、どうしてそういうことをするのか考える部活かな」


「どうしてそういうことをするのか?」


「うん」


「例えば?」


「例えば……」


 僕は一年生を見る。


「君、さっき部室に入る前、扉の前で三分くらいうろうろしてたよね?」


「えっ」


 一年生の顔が固まった。


「入ろうと思って来たのに、なんで三分間入らなかったんだろう?」


「見てたんですか!?」


「窓から見えてたよ」


「うわ……」


 一年生が一歩後ずさる。


 まずい。


 僕も少し九条先輩に似てきた気がする。


「いや、別に問い詰めるわけじゃないから!」


「本当ですか?」


「本当、本当。僕も最初はずっとそんな感じだったし」


「最初?」


「ああ」


 僕は机の上のポストカードに目をやった。


「僕も一年生のとき、ここに来たんだ」


「九条さんに誘われて?」


「誘われたというか……連れてこられたというか……」


「強引だったんですか?」


「かなり」


「ニュースで見る感じと違いますね」


「いや、たぶんニュースで見るよりそっちが本物だよ」


 一年生が笑った。


 僕も笑う。


「じゃあ、見学だけでも大丈夫ですか?」


「もちろん」


「心理学とか、全然分からないんですけど」


「僕も分からなかったよ」


「それでもいいんですか?」


「いいんじゃない?」


 僕は少し考えてから付け加える。


「合わなかったら、入らなくてもいいし。入ってから違うと思ったら、そのとき辞めてもいい」


 言ってから。


 どこかで聞いたような言葉だと思った。


 でも。


 たぶん、今の僕もそう思っている。


 一年生は少し驚いたあと、笑った。


「じゃあ……ちょっと見ていきますね」


「うん」


 僕は立ち上がる。


 二年前。


 何も分からず、この部屋へやって来た僕に。


 今度は僕が、同じ言葉を言う番だ。


「現代行動原理研究会へようこそ」


挿絵(By みてみん)

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!


『現代行動原理研究会へようこそ』、これにて完結です。


今回ようやく、雅子がなぜ現代行動原理研究会を作ったのかが明らかになりました。


雅子はずっと、


「なぜ本音を言わない?」


「なぜ本人に言わない?」


「なぜ『普通』や『みんな』を使う?」


と、他人に問い続けてきました。


でも、その始まりにあったのは、


自分自身が、本当に言わなければならないことを言えなかった経験


でした。


「確実じゃなかったから」


「間違っていたかもしれないから」


いろいろ理由はあった。


でも突き詰めていけば、雅子自身もただ怖かった。


そして事件が起きたあと、もう間違いではないと分かってからも言えなかった。


だから現代行動原理研究会は、雅子が他人を研究するためだけの部活ではなく、ずっと自分自身に、


「なぜ私はあのとき言えなかったのか?」


と問い続けていた部活でもあったのだと思います。


一方、第一章の恒一郎は、


「普通は」


「みんなそうだし」


「考えておきます」


と言って、自分の意見をあまり言わない少年でした。


そんな恒一郎が最後には、


「僕だったら、言ってほしいです」


と言います。


正しい答えだからではありません。


あくまで、


「僕はそう思う」


と言えるようになった。


そこがこの作品で一番描きたかった変化でした。


そして二年後。


雅子は海外へ。


政彦とは今でも連絡を取りながら。


恒一郎は一人になっても研究会を続け、今度は新しい一年生を迎える側になりました。


第一章では雅子に迎え入れられた恒一郎が、最後には自分の言葉で、


「現代行動原理研究会へようこそ」


と言う。


最初から最後まで書いてきて、この言葉で締められたのはとてもよかったと思っています。


皆さんは、本当はどう思っていますか?


それを必ず言わなければならないわけではありません。


言わない方がいいことだってあります。


ただ。


たまには、


「普通はどうなのか」


ではなく、


「自分はどう思っているのか」


を考えてみても面白いのかもしれません。


ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました!

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