第二章「君の意見を聞いているんだよ」
現代行動原理研究会に入ってしまった僕、藤田恒一郎。
今日は九条先輩に連れられて、漫画イラスト研究会へ取材に行くことになりました。
……あれ?
この部活、ちゃんと活動してるんだ。
ちょっと安心したのも束の間。
「上手い人はこうする」
その何気ない一言に、九条先輩が食いついた。
……嫌な予感しかしない。
第二章「君の意見を聞いているんだよ」
九条先輩、今日は人様の部活なんですから、くれぐれも普通にしてくださいよ?
現代行動原理研究会に入部してから、数日が経った。
今のところ、僕――藤田恒一郎の高校生活に大きな変化はない。
友達が急に百人できたわけでもない。
彼女ができたわけでもない。
放課後になると、校舎の片隅にある妙な名前の部室へ行き、白衣を着た変な先輩とコーヒーを飲むようになったくらいだ。
……十分、大きな変化かもしれない。
◇
昼休み。
僕は財布を片手に、学食へ向かっていた。
「今日は何にしようかな」
ラーメン。
カレー。
生姜焼き定食。
日替わり定食。
この高校の学食は、意外とメニューが充実していた。
別に、これが食べたいというものがあるわけでもない。
適当に空いている列にでも並ぼう。
そう思って食券機の前まで行くと――。
「やぁ、藤田君」
聞き覚えのある声がした。
「あ」
振り向く。
長い黒髪。
切れ長の目。
制服の上に、今日も当然のように白衣。
九条雅子先輩がいた。
「あ……先輩も学食なんですか……」
「私が学食を利用すると何か問題でも?」
「いえ。なんとなく部室で優雅にコーヒーでも飲みながら、サンドイッチ食べてそうだなって」
「君は私をなんだと思っているんだ?」
僕にもよく分からない。
九条先輩は食券機のメニューを見上げた。
「藤田君。今日の昼は何にするんだ?」
「まだ決めてないです」
「食べたいものは?」
「うーん……」
僕もメニューを見る。
「別になんでもいいんですけどね」
「そうか。なんでもいいか」
先輩が頷いた。
そして、食券機の一番下を指差す。
「では、これを一緒に食べようじゃないか」
「どれです?」
指の先を見る。
『挑戦者求む! 激辛三十倍カレー』
真っ赤な文字で書いてある。
「……嫌ですよ」
「なぜ?」
「なぜって、辛いの苦手だし!」
「今、なんでもいいと言ったじゃないか」
「そういう意味のなんでもいいじゃないですよ!」
しまった。
言った瞬間に分かった。
九条先輩の目が、ほんの少し楽しそうに細くなる。
「では、どういう意味なんだ?」
「ほら始まった!」
「何がだ?」
「先輩、絶対こうなると思って激辛カレー選びましたよね?」
「私は君の『なんでもいい』という発言を尊重しただけだが?」
「三十倍を選ぶ必要ないでしょう!」
「では二十倍ならいいのか?」
「そういう問題じゃないです!」
昼休みの学食で、なぜ僕はこんな議論をしているんだろう。
九条先輩は腕を組み、口元に手を当てる。
「つまり君の『なんでもいい』には、実際には条件が存在していたわけだ」
「条件?」
「辛すぎるものは嫌だ」
「それはそうです」
「値段が二千円でもいいのか?」
「嫌ですよ」
「では、量が十人前なら?」
「食べきれません!」
「つまり、価格、味、量など、君の許容範囲に収まるものなら特に希望はない。そういう意味か?」
「……まあ、そういうことです」
「なら最初からそう言えばいい」
「昼飯を選ぶだけで、そんな厳密に説明する人いませんよ!」
「なぜ?」
「だって、普通は――」
そこまで言って、僕は止まった。
九条先輩が僕を見る。
「……なんですか?」
「いや?」
少し笑っている。
「今、何か言おうとしたんじゃないのか?」
「言いません」
「そうか」
絶対分かっている。
このあいだ――いや、入学式の日に散々聞かれた。
『普通とはなんだ?』
数日前までなら何も考えずに口から出ていた言葉なのに、今は言うたびに九条先輩の顔が浮かぶ。
なんだか妙な癖をつけられた気がする。
「では改めて聞こう」
九条先輩が言った。
「藤田君。何が食べたい?」
「……」
僕はメニューを見た。
少し考える。
「生姜焼き定食にします」
「うむ。よろしい」
「なんでちょっと満足そうなんですか」
「別に?」
絶対満足している。
結局、九条先輩は普通のカレー。
僕は生姜焼き定食を買った。
三十倍カレーは誰も食べなかった。
だったら最初から勧めないでほしい。
◇
「ところで藤田君」
昼食を食べている途中で、九条先輩が言った。
「今日の放課後なんだが、少し付き合ってくれないか?」
「またですか?」
「またとはなんだ」
「入学式の日もそう言われて、変な部室まで連れていかれたんですけど」
「変とは心外だな。では今回は行き先を教えておこう」
先輩はカレーを一口食べる。
「漫画イラスト研究会だ」
「漫画イラスト研究会?」
「ああ。以前から取材の約束をしている」
「……取材?」
「そうだ」
僕は箸を止めた。
「この部、ちゃんと活動してたんですね」
「君は現代行動原理研究会をなんだと思っているんだ?」
「部室でコーヒーを飲みながら、他人の言葉尻を捕まえては『なぜ?』って聞く部活かと」
「ずいぶん偏った認識だな」
「だいたい合ってません?」
「まあ、否定しきれないところが腹立たしい」
否定しないんだ。
「学校内で人間がどう考え、どう判断し、どういう言葉を使っているのか。それを実際に観察したり、話を聞いたりするのも活動の一つだ」
「へえ……」
僕はちょっと感心した。
九条先輩。
ちゃんと部活やってたんだ。
「なんだ、その顔は」
「いえ。意外だなって」
「君は本当に私をなんだと思っているんだ」
◇
放課後。
僕は九条先輩と一緒に、漫画イラスト研究会の部室へ向かっていた。
「先輩、知り合いいるんですか?」
「ああ。三年生に友人の部員がいてな」
「へえ」
少し意外だ。
入学式の日、サッカー部の人たちは九条先輩の名前を聞いただけで逃げていった。
学校ではかなり有名な変人らしい。
そんな人にも、ちゃんと知り合いがいるんだ。
「今、失礼なことを考えていなかったか?」
「考えてません!」
「それならいいが」
なんで分かるんだ。
やがて、僕たちは漫画イラスト研究会の部室の前までやってきた。
九条先輩が扉をノックする。
「どうぞー」
中から女の人の声がした。
「失礼するよ」
九条先輩が扉を開ける。
漫画イラスト研究会の部室は、現代行動原理研究会よりも、ずっと文化部らしい部屋だった。
壁には大小さまざまなイラスト。
本棚には漫画や画集。
机の上にはスケッチブックやペン、色鉛筆にタブレットまで並んでいる。
「あら、雅子。いらっしゃい」
一人の女子生徒がこちらへやってきた。
三年生らしい。
肩まで伸びた髪を後ろでまとめていて、九条先輩とは対照的に、柔らかそうな雰囲気の人だった。
「待ってたわよ」
「ああ。今日はよろしく頼む」
「そっちの子が新しく入った子?」
女子生徒が僕を見る。
「あ、はい。藤田恒一郎です」
「へえ。本当に新入部員が入ったんだ」
「どういう意味だ?」
「いや、あんたのところに入る一年生がいるとは思わなかったから」
「僕も入ることになるとは思いませんでした」
「藤田君?」
「すみません」
女子生徒がクスクス笑う。
「私は三年の水野。雅子とは去年から何度か一緒に活動してるの」
「よろしくお願いします」
「よろしく」
水野先輩はそう言ってから、部室の奥を振り返った。
「それと、あっちがうちの部長」
机の前でタブレットを見ていた男子生徒が顔を上げる。
「どうも」
三年生らしい。
少し長めの髪に眼鏡。
いかにも文化部の部長という感じだけど、話し方は意外と気さくだった。
「部長の佐伯だ。今日は好きに見てって」
「九条だ。よろしく」
「知ってるよ。有名だから」
「どういう意味だ?」
「そのままの意味」
九条先輩が少し不満そうな顔をした。
僕はなんとなく安心する。
どうやらここでは、九条先輩も普通に受け入れられているらしい。
「それで、今日は何を聞きたいの?」
水野先輩が椅子を引きながら聞いた。
「イラストを描くとき、何を基準に良し悪しを判断しているのか知りたい」
「良し悪し?」
「ああ。構図、色、人物の配置。何を見て、これは良い、これは良くないと判断する?」
「また難しいこと聞くわね」
そう言いながら、水野先輩は机の上に置かれていたファイルを開いた。
「でもまあ、イラストなら構図は大きいと思う」
「構図?」
僕が聞く。
「誰をどこに置くとか、どこを見せたいかとかね。同じキャラを描いても、配置で全然印象変わるから」
「へえ……」
「あと視線誘導とか」
「視線誘導?」
「見る人の目が、最初にどこへ行って、そのあとどこを見るか。そういうのを考えて描くの」
「そんなことまで考えてるんですね」
「慣れると自然にやるようになるけどね」
僕は素直に感心した。
思っていたよりずっと専門的だ。
九条先輩も珍しく余計なことを言わず、真面目に話を聞いている。
ちゃんと取材してるんだな。
「そうだ」
水野先輩が何か思い出したように言った。
「佐伯さんの絵、見せてもらったら?」
「俺の?」
「構図の話なら分かりやすいでしょ」
「まあ、いいけど」
佐伯先輩が机の上から一枚のイラストを取り出した。
「これ、この前描いたやつ」
「うわ……」
思わず声が出た。
三人のキャラクターが描かれている。
中央の一人が大きく、左右の二人が少し奥。
三人が逆三角形を作るように並び、全員こちらを振り返っている。
髪や服が風になびき、背景には夕焼け。
一目見ただけで、僕にも分かる。
上手い。
「すごいですね」
「ありがとう」
「なんか、普通に売ってるゲームとかのイラストみたいです」
「ははっ、それは言いすぎだよ」
そう言いつつ、佐伯先輩はちょっと嬉しそうだ。
「こういうのも、最初から描けたわけじゃないけどな」
「やっぱり練習するんですか?」
「そりゃするよ。上手い人の絵を見たり、構図を真似してみたり」
九条先輩が少しだけ視線を動かした。
僕は気づいた。
でも今のところ、何も言わない。
珍しい。
と思った、そのときだった。
「あの、部長」
部室の隅から、一人の女子生徒が声をかけてきた。
まだ一年生らしい。
胸に抱えたスケッチブックを持って、少し緊張した様子でこちらへ来る。
「コンクールに出す絵なんですけど、ちょっと見てもらっていいですか?」
「ああ、いいよ」
佐伯先輩が椅子を引いた。
一年生の女子が、その前にスケッチブックを広げる。
僕たちも、なんとなくそちらを見る。
描かれていたのは、雨上がりのバス停だった。
一人の女の子がしゃがみ込み、水たまりを覗き込んでいる。
背景はそれほど細かくない。
人物の体も、よく見ると少し不自然だ。
傘の形も、なんとなく怪しい。
でも。
水たまりの中にだけ、夕焼けが映っていた。
空はもう暗くなりかけているのに、水面の中だけに橙色の空が残っている。
「どうですか?」
一年生の女子が、不安そうに聞く。
佐伯先輩はしばらく絵を眺めた。
「うーん……」
少し考えてから、首を傾げる。
「これじゃ、ちょっと弱いな」
「弱いですか?」
「構図がまるでなってない」
佐伯先輩が絵を指差す。
「女の子を見せたいなら、もっと画面の中心に持ってきた方がいい。今だと視線が散る」
「はい……」
「それに背景も中途半端だな。バス停を描くなら、もう少し奥行きを出した方がいい」
一年生の女子が真剣に聞いている。
「上手い人なら、こういう場合はキャラを少し手前に出して、背景との距離を――」
「ちょっといいかな?」
九条先輩が一歩前に出た。
来た。
僕は心の中で、そう思った。
佐伯先輩が振り返る。
「ん?」
「今の言葉が少し気になったのだが」
「何が?」
「上手い人なら、そうすると言ったね?」
「ああ」
「その上手い人とは、いったい誰のことだ?」
「……え?」
部室の空気が少し止まった。
水野先輩が、
「出た」
と小さく呟いた。
「誰って……」
佐伯先輩が少し困ったように笑う。
「プロとか、上手いイラストレーターだよ」
「具体的には?」
「具体的に?」
「ああ。誰の、どの作品の、どの構図を想定して言った?」
「いや……別にそこまで具体的な誰かを考えて言ったわけじゃないけど」
「では、その人物がどう描くか分からないのに、なぜ『上手い人ならこうする』と言える?」
「……」
佐伯先輩が黙る。
一年生の女子も、どうしていいのか分からない様子で二人を見ている。
僕も分からない。
なんだか急に緊張してきた。
「別に、上手い人の絵を参考にすること自体がおかしいと言っているわけではないのだが」
九条先輩は続ける。
「たとえば、特定のイラストレーターの構図を研究して、ここが優れているから自分も取り入れる。それなら分かる」
「ああ」
「私が気になったのは、誰なのか分からない『上手い人』という存在を作って、その人物ならこうすると判断していることだ」
「……うーん、まあ、確かに」
佐伯先輩が自分の顎に手を当てた。
怒ってはいない。
むしろ少し考えている。
「確かに、変な言い方だったかもな」
「だろう?」
「でもさ」
佐伯先輩が一年生の絵を見る。
「じゃあ、実際どうなんだ?」
「何が?」
「俺はこの構図だと弱いと思った」
「それはわかる」
「でも、それは俺が三年だからそう思ってるだけかもしれない」
一年生の女子が佐伯先輩を見る。
「だったら……」
佐伯先輩の視線が、こっちへ向いた。
嫌な予感がした。
「君、一年生だろう。彼に決めてもらえばいいんじゃないか?」
「え?」
僕は思わず自分を指差した。
「僕ですか?」
「同じ一年だし、イラスト部でもない」
「だからってなんで僕なんですか!」
「余計な知識がない分、どちらの絵がいいと思うか、公平に見られるだろ?」
「なるほど。それは名案だ」
九条先輩が即答する。
「ちょっと待ってください!」
なんでそこで意気投合するんだ!
「藤田君」
九条先輩が僕を見る。
「君はどちらがいいと思った?」
「どちらって……」
僕は佐伯先輩の絵と、一年生の絵を見る。
そして、周りを見る。
佐伯先輩。
水野先輩。
一年生の女子。
九条先輩。
全員、僕の答えを待っている。
なんだ、この状況。
さっきまで、ただの取材だったはずだ。
「まあ……」
僕は無難な答えを探す。
「一般的に言ったら、やっぱり佐伯先輩の絵の方がいいんじゃないですか?」
佐伯は当然といった面持ちだ。
「なぜ?」
「だって、すごく上手いですし」
「私は上手い方を聞いたのか?」
「え?」
「どちらがいいと思ったのかと聞いた」
「いや、だから一般的には――」
「一般の話を聞きたいんじゃない」
九条先輩の声が、少しだけ静かになった。
僕は顔を上げる。
切れ長の目が、まっすぐ僕を見ていた。
「上手い人がどう思うかも、世間がどう評価するかも聞いていない」
一拍置いて。
「君の意見が聞きたいんだよ」
「……」
逃げ道がなくなった。
なんでよりによって、本人たちの前で。
僕はもう一度、二枚を真正面から見比べる。
佐伯先輩の絵。
やっぱり上手い。
キャラクターも格好いい。
完成度も高い。
一年生の絵。
比べれば、明らかに技術は足りない。
でも。
僕はさっきから、こっちの絵ばかり気になっていた。
「……僕は」
声が少し出にくい。
でも。
言うしかない。
「こちらの……一年生の絵の方が好きです」
一年生の女子が目を見開いた。
佐伯先輩も、少し意外そうな顔をする。
「ほう」
九条先輩だけが、わずかに嬉しそうだった。
「なんで?」
佐伯先輩が聞く。
「えっと……」
やっぱり聞くのか。
本人の前で言うのか。
「佐伯先輩の絵は、すごく上手いと思います」
「うん」
「三人が逆三角形みたいに並んでて、全員こっちを振り返ってて」
「ああ」
「髪とか服も風でなびいてて、夕焼けで……凄いと思いました」
僕は言葉を探す。
「でも、なんていうか……」
「うん?」
「ちょっと、テンプレっぽいというか」
「……」
「あっ!」
言ってしまった。
「いや、悪いって意味じゃないですよ!」
慌てて手を振る。
「むしろ本当に上手いです! 僕には絶対描けないですし!」
「分かってるよ」
佐伯先輩は怒っていなかった。
むしろ、とても興味を持って僕の話に耳を傾けている気がした。
「続けて」
「はい……」
余計に言いにくい。
「なんか、プロのイラストとかで見たことがあるような構図だなって思ったんです」
「なるほど」
「でも……」
僕は一年生の絵を見る。
「こっちは、正直、佐伯先輩の絵ほど上手くないと思います」
「うっ……」
一年生の女子が小さく声を漏らした。
「あっ、すみません!」
「藤田君」
九条先輩が横から言う。
「続けたまえ」
「先輩、ちょっとは助けてくださいよ!」
「私は君の意見が聞きたいんだよ」
「だから困ってるんです!」
でも。
もうここまで言ったんだ。
「ただ……」
僕は水たまりの絵を見る。
「なんで水たまりなんだろうって思ったんです」
一年生の女子が僕を見る。
「なんで女の子はそこを見てるんだろうとか」
「……」
「なんで空じゃなくて、水たまりの中に夕焼けを描いたんだろうとか」
自分でも、うまく説明できない。
「どんなことを考えて、これを描いたんだろうって、気になったんです」
「……」
「だから僕は、こっちの方が好きです」
言い終わった。
静かになった。
やばい。
やっぱり言わない方がよかったんじゃないか。
佐伯先輩は、自分の絵を見た。
それから、一年生の絵を見る。
「……テンプレか」
「すみません!」
「いや、謝らなくていいって」
佐伯先輩が笑う。
そこへ水野先輩も、自分の顎に指を当てながら絵を覗き込んだ。
「でも、言われてみれば最近こういう構図多いわよね、あんた」
「お前まで言うのかよ」
「だって本当だし」
「ひどいな」
佐伯先輩は苦笑する。
そして、一年生の女子を見る。
「ただ」
「はい」
「構図の話は別だからな」
「え?」
「藤田君がこっちを好きって言ったからって、技術的に直した方がいいところがなくなるわけじゃない」
「あ……はい」
「ここはやっぱり少し整理した方がいいと思う。水たまりを見せたいなら、むしろ他をもっと削ってもいい」
一年生の女子が、自分の絵を見る。
「なるほど……」
「でも」
佐伯先輩が少し笑った。
「水たまりは残した方がいいのかもな」
「……はい!」
一年生の女子が嬉しそうに頷いた。
九条先輩は、何も言わなかった。
ただ、少しだけ満足そうにその様子を見ていた。
◇
「いや、面白かったよ」
取材が終わり、僕たちが帰ろうとすると、佐伯先輩がそう言った。
「最初は何の取材なんだと思ったけど」
「私としては有意義だった」
「九条はそうだろうな」
佐伯先輩が笑う。
そして、僕を見る。
「藤田君」
「はい?」
「また遊びに来いよ」
「僕ですか?」
「ああ。今度は取材じゃなくてもいいから」
「……はい」
ちょっと意外だった。
あんなことを言ったのに。
嫌われたと思ったのに。
「雅子もまた来なさいよ」
水野先輩が言う。
「ああ。また頼むよ」
「次はもうちょっと普通の取材にしてね」
「普通?」
「あっ」
水野先輩が口を押さえた。
九条先輩の目が少し細くなる。
「今の『普通』とは――」
「帰って!」
「まだ何も聞いていないが?」
「絶対聞くでしょ!」
僕たちは、笑い声に見送られながら部室を後にした。
◇
廊下を歩きながら、僕は大きく息を吐いた。
「一時はどうなるかと思いましたよ」
「何がだ?」
「本人の目の前でテンプレっぽいなんて言わせるからですよ!」
「私が言わせたのか?」
「え?」
「君がそう思ったから、君が言ったんじゃないのか?」
「…………」
そう言われると。
「……まあ、そうですけど」
「また『まあ』か」
「そこまで拾わなくていいです!」
九条先輩が少し笑う。
僕も、なんとなく笑ってしまった。
変な部活だ。
普通の部活なら、イラストを見てこんな話にはならないだろう。
でも。
自分の意見を言った。
しかも、かなり言いにくいことを。
それでも、佐伯先輩は怒らなかった。
むしろ、また来いと言ってくれた。
自分の考えを言ったら、人間関係が悪くなる。
なんとなく、そう思っていた。
でも。
そうとも限らないのかもしれない。
「……先輩」
「なんだ?」
「こういう活動なら」
「うん?」
僕は少し考えた。
「悪くないかもしれませんね」
九条先輩が僕を見る。
ほんの少しだけ、嬉しそうに笑った。
「そうか」
それだけ言って、また前を向いた。
僕も隣を歩く。
入学式の日には、完全に言いくるめられて入ったと思っていたけど。
もしかしたら。
この部活に入ったのも、そんなに悪いことじゃなかったのかもしれない。
「ところで藤田君」
「はい?」
「明日の昼だが――」
「激辛三十倍カレーは嫌です」
九条先輩が立ち止まった。
「……まだ何も言っていないが?」
「僕の意見を先に言いました」
「ほう」
九条先輩は少し感心したように頷いた。
「成長したじゃないか」
「こんなことで成長を実感したくないですよ!」
僕の高校生活。
どうやら今日も、順調に変な方向へ進んでいるらしい。
「一般的には」「上手い人は」「みんなは」
便利な言葉だと思っていたのに、九条先輩にかかると全部通用しない!
しかも最後には、二枚の絵を前にして、みんなの前で僕がどちらが好きなのか答えることに。
「一般の話を聞きたいんじゃない。君の意見を聞いているんだよ」
……そんなこと急に言われても困りますよ!
でも、自分の意見を言ってみたら、思っていたより悪いことにはならなかった。
現代行動原理研究会。
面倒くさい部活だけど……ちょっとだけ面白いのかもしれない。
ところで九条先輩。
昼休みに「なんでもいい」と言ったからって、激辛三十倍カレーを勧めるのはやめてください。




