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第6話「読み込まれた領域」

落下している、という感覚はなかった。

 それでも、確実に“位置”だけが変わり続けている。

 上下も、前後も、重力さえも意味を持たない空間。足場の感触はあるのに、それがどこに接続されているのか分からない。踏みしめたはずの床は、視線を外した瞬間に“別の場所”へと変わる。

 まるで、世界が読み込み途中のまま放置されているようだった。

「……ここが、中間層か」

 自分の声が、やけに遠くに聞こえた。

 音が減衰しているわけじゃない。反響していないのでもない。ただ、“どこにも定着していない”。

 空間が音を受け取っていない。

「正確には違う」

 隣にいるはずの白峰 澪の声だけが、妙に明瞭だった。

 姿は見えている。だが距離感が狂っている。手を伸ばせば届きそうなのに、実際にはどれだけ離れているのか分からない。

「ここは階層じゃない」

 彼女はゆっくりと歩き出す。いや、“進んでいるように見える”だけで、実際には位置の概念そのものが曖昧だ。

「“層”として定義されていない領域」

「……未完成ってことか」

「未完成とも違う」

 澪は一瞬だけこちらを見る。

「“未確定”」

 その言葉と同時に、視界の端で空間が弾けた。

 黒い亀裂のようなものが走り、その奥に全く別の風景が一瞬だけ映る。森のようにも見えたし、都市の残骸にも見えた。だが次の瞬間には消え、何もなかったかのように空間は滑らかに繋がる。

 ――今のは、何だ。

「読み込み」

 俺の思考をなぞるように、澪が呟いた。

「この領域は、外部の情報を取り込んでる」

「外部って……ダンジョンの外か?」

「違う」

 即答だった。

「ダンジョンという“枠組み”の外」

 意味が分からない。

 だが、《アナライズ》は沈黙しない。

 むしろ、さっきからずっと“何か”を流し込み続けている。

 ――領域状態:データ不整合

 ――参照先:不明

 ――同期処理:進行中

「……気持ち悪いな」

 頭の奥がざらつく。理解できる情報と、理解を拒む情報が混ざり合っている。

 見えているのに、意味が取れない。

 それでも“分かってしまう”。

 そんな感覚。

「慣れる」

 澪は淡々と言う。

「……慣れたくねえよ」

「でも、あなたはもう適応し始めてる」

 足が止まる。

「何を根拠に」

「さっきから、倒れてない」

 言われて、気づく。

 普通なら、とっくに意識が飛んでいてもおかしくない。認識が壊れて、あの元仲間みたいに機能停止していても。

 だが俺は、立っている。

 考えている。

 理解しようとしている。

「……それが普通じゃないってか」

「うん」

 あっさりと頷かれる。

「ここは、人間が正常でいられる場所じゃない」

 その言葉に、妙な納得があった。

 だからこそ分かる。

 自分が“普通じゃない側”にいるという事実が。

 そのとき、前方の空間がゆっくりと歪んだ。

 何かが“現れる”。

 黒い。

 影のような輪郭。

 だがそれは、今まで見たものとは少し違っていた。

 形が安定している。

 人型に近い。

 そして――

「……見えてる」

 思わず呟く。

 前は“存在していないように見える”違和感だった。

 だが今は違う。

 “ちゃんとそこにいる”

 《アナライズ》が走る。

 ――対象:識別中

 ――定義照合:失敗

 ――暫定分類:上書き体(低位)

「低位……?」

 思考が漏れる。

 その瞬間、影が動いた。

 速い。

 だが、軌道が“読める”。

 直線じゃない。曲線でもない。もっと不自然な、座標を直接書き換えるような動き。

 それでも――

「右」

 身体が勝手に動いた。

 踏み込みと同時に、さっきまでいた位置を影が貫く。

 遅れて、空間が裂けた。

「……は?」

 今の、見えたのか?

「避けられるの」

 澪の声。

「……分からん。でも、分かる」

 矛盾した感覚。

 理屈じゃない。だが確信はある。

 来る。

 どこから、どう来るか。

 “書かれる前に分かる”。

 影が再び揺らぐ。

 今度は二つに増える。

 いや、増えたんじゃない。

 “そう定義された”。

「……ふざけた仕様だな」

 吐き捨てる。

 だが恐怖は、不思議と薄かった。

 代わりにあるのは、妙な“理解”。

 これは敵じゃない。

 現象だ。

 そう認識した瞬間、《アナライズ》がさらに深く潜る。

 ――干渉可能領域:限定開放

 ――権限照合:進行中

「……おい」

 低く呟く。

「これ、やばくないか」

「やばいよ」

 澪は即答した。

「かなり」

 そのくせ、声に焦りはない。

「でも、それが必要」

「何がだよ」

「あなたが“何か”をするために」

 その言葉と同時に、影が迫る。

 二方向。

 逃げ場はない。

 普通なら、詰みだ。

 だが――

 視界の奥に、“線”が見えた。

 空間を走る、見えない境界。

 そこに触れればいい。

 なぜか、そう分かる。

「……っ!」

 手を伸ばす。

 何もないはずの空間に、確かな“抵抗”があった。

 そのまま――

 引き剥がす。

 音はなかった。

 だが世界が、一瞬だけ止まった。

 次の瞬間。

 影が、消えた。

 いや、“存在しなかったことになった”。

「……は?」

 自分でやっておいて、理解が追いつかない。

 今、何をした?

 壊したのか?

 違う。

 削除した?

 それとも――

「……上書き」

 隣で、澪が呟いた。

 その声には、わずかな確信が混じっていた。

「やっぱり」

「何がだよ……」

 息が荒い。

 心臓がうるさい。

 だがそれ以上に、頭の中が静かすぎる。

「あなた、“触れてる”」

「どこに」

 問い返す。

 澪は、ゆっくりと指を上に向けた。

 空も天井もないはずの“上”。

「“構造そのもの”」

 その言葉と同時に、《アナライズ》が再び開く。

 ――接続要求:再送信

 ――権限階層:上位層アクセス

 ――応答:待機中

 さっきよりも、はっきりしている。

 これは警告じゃない。

 確認だ。

 ――接続するか?

 そう問われている。

「……冗談だろ」

 思わず笑いが漏れる。

 だが、否定できない。

 この空間に来てからずっと、“何か”に近づいている。

 そして今、それに手が届く位置にいる。

「やめるなら今」

 澪が言う。

「ここで止まれば、戻れる可能性はある」

「……進んだら?」

「戻れない」

 即答だった。

「人間としては」

 その一言で、すべてが理解できた。

 これは選択だ。

 戦うか逃げるかじゃない。

 人間でいるかどうかの選択。

 視線を落とす。

 自分の手を見る。

 さっき、確かに“何か”を掴んだ感触が残っている。

 現実じゃない。

 だが、現実よりも確かな感覚。

「……なあ」

 小さく呟く。

「俺、最初からおかしかったのか?」

 澪は少しだけ考えてから、

「うん」

 あっさりと頷いた。

「ずっと前から」

 否定はなかった。

 慰めもなかった。

 ただ、事実だけがそこにある。

「……そっか」

 不思議と、納得できた。

 怒りも、悲しみもない。

 ただ一つだけ、はっきりしていることがある。

 ――ここで止まっても、何も変わらない。

「行くぞ」

 顔を上げる。

 澪は何も言わない。

 ただ、静かにこちらを見る。

「戻れなくてもいい」

 言葉にすることで、決定が固まる。

「どうせ元から、まともじゃなかったんだ」

 自嘲気味に笑う。

 だが、その奥にあるのは確かな意志だ。

「なら最後まで付き合う」

 何に、とは言わない。

 言う必要もない。

 この空間そのものに対してだ。

 澪は、ほんのわずかだけ目を細めた。

 それが彼女なりの“肯定”だと、なぜか分かった。

「分かった」

 短く、それだけ言う。

 そして二人は、さらに深くへと進む。

 未確定の領域。

 読み込まれ続ける世界。

 その中心へ。

 ――そこに何があるのか。

 まだ、誰も知らない。

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