第17話 策士・第18話 搭乗
●17.策士
藤木たちは、都内府中市にある宇宙開発機構のオフィスを訪ねていた。
「必ずや日本の有人探査にルナ・ロジスティックス社がお役に立てると思うのですが」
藤木はプレゼンツールを駆使して熱弁をふるっていた。
「あのー、失礼ですが、CEOを辞められた今でも藤木さんはルナ・ロジスティックス社に関わっているのですか」
宇宙開発機構・副代表の村田がさり気なく言う。
「あれから、平社員として一からやり直しまして、ようやっと交渉役を任されるまでになりました」
「しかし、このような案件は、責任ある立場でないと無理じゃないですか」
「交渉の権限は与えられてますけど、経営には携わっていません」
「後藤田さんの疑惑の時も打ち上げ塔の再建のために政府の助けを求めてますけど、今回は銀行倒産で、我々の助けを求めているのですか」
「まあ、それもありますけど…、純粋にお役に立てると思いまして。世界各国の宇宙開発を見ても、有人探査は必要なことだと思いますが」
「確かに有人探査は魅力的です。今まで失敗のリスクを考慮しロボットなどでやってきましたから」
「ルナ社を利用していただければ、アメリカ、中国に次いで日本が3番目の月面有人探査成功の快挙になります。宇宙開発機構の予算拡大にもつながるわけでして、どうですか」
「月と地球の物資輸送に人間も含まれるのですか」
「有人の月往還船は軌道上で組み立てられています。それにルナ社としては不足した資金の穴埋めにもなりますし、お互いにウィンウィンの関係になります」
「ただ利用できるならともかく…」
「いゃー、ただはちょっと困りますが、お安くしておきますけど」
「どうも、あなたは調子が良過ぎるし、裏がありそうだ」
「裏なんてありません。後藤田さんのことで懲りてますから」
「とは言っても、万が一、後藤田さんのようなことになると、我々組織の存続にも関わります」
「それは絶対にありません」
「とにかく、今日の所は交渉不成立という形でよろしいですか。用事が立て込んでいるので、こちらで失礼します」
村田は、応接室から足早に出て行った。
藤木たちはプレゼン資料を片付けていた。
「藤木、全然今日は空回りだな」
「後藤田の一件が響いているな。宇宙開発機構は交渉を続けても無駄だな。それよりもみすみ銀行で、預金がいくら取り戻せるか交渉した方がマシだろう」
藤木たちは宇宙開発機構の応接室から立ち去った。
ルナ・ロジスティックス社の会議室。藤木たちは席がないので、ここで昼食を食べていた。
「やっぱりタブレットよりも、この方が新聞って感じだな」
食事が済んだ田中は紙媒体の新聞を広げていた。
「昔は全部これだったんだからな」
藤木もようやく食事を終えていた。
「…製薬会社もグローバル化で合併が流行りだな。しかし名前をどうにかして欲しいよ。共立バイエルン・ファマナイザーだってさ、長くないか」
田中は舌を噛みそうにしていた。藤木も紙面に目がいっていた。
「おい、『新経営陣は無重力下の製薬に前向き』って書いてあるじゃないか。これだ、行ってみよう」
藤木の目が輝き出した。
藤木たちは虎の門ヒルズが窓から見える豪華な応接室にいた。
「共立バイエルン・ファマナイザーさんは、儲かっていなさるんでしょうね。こんな都心の一等地に自社ビルを構えているのですから」
藤木は、窓の外や壁の絵画などを見回していた。
「いやいや、自社ビルと言ってもほとんどがテナント貸しですから」
共立バイエルン・ファマナイザーCEOのフランク坂井はニコやかにしていた。
「それにこの絵もお高いんでしょう。ピカソですか。目ん玉がどこ見てるんだかわからない、あれですね」
藤木が言っていると、隣で田中が小突いていた。
「レプリカですけど」
「あぁ、坂井さん、あの虎の門ヒルズの隣のビルは何ビルです」
藤木は、坂井の目をそらさせていた。
「田中、ピカソについて検索しろ」
藤木は小声でいった。隣に座る田中はテーブルの下に自分のスマホを持っていき、坂井から見えにくい位置で調べ始めた。
「えっ、どのビルですか」
坂井が藤木の方に振り向いた。
「そこのガラス張りのビルです」
「あっあれは、キャッシュレス決済でひと財産築いた中国系企業のビルです。アリテイでしたか」
「そうですか。しかしキュビスムは凄い」
「藤木さんは絵画に造詣が深いのですか」
「キュビスムは、遠近法無視してますし、固定した一つの始点が描くのではなく、…いろいろな視点を一つの集約しています。まさに革命的じゃないですか。泣く女はゲルニカから生まれた作品なので、その時代背景が如実に物語られていると言えます」
藤木は、テーブルの下をチラ見しながら言っていた。
「これは奇遇ですな。私もキュビスムには、感銘を受けています。キュビズムではなく、キャビスムという言い方をなさるとは、あなたもわかっていらっしゃる」
「趣味が同じなので私も坂井さんには、親しみを感じますし、包み隠すことなく話ができそうです」
「もっと美術の話をしたいものですが、それはこの次の機会として、先ほどの件ですな」
坂井はメガネを軽くかけ直していた。
「はい。ルナ社の無重力区画を使えば御社の薬はバンバン作ることができます」
「軌道上に何らかの施設をお持ちなのですが」
「2つの区画を既に打ち上げていますので、それを利用すれば可能です」
「そうは言ってもタダとは行かないでしょうな」
「1回目の使用料は、お試しとしてタダでも良いと思っています。しかし御社の薬の原材料などを打ち上げるのにお金がかかります。当初はそれを出していただくことになります」
「それは仕方ありませんな」
「後は、当社のロボットもしくはスタッフが調合します」
「その打ち上げ費用と言うのは、だいたいいくらぐらいになりますか」
「ざっと見積もって140億円程度でしょうが、詳しくは後程ご連絡いしたます」
「140億円ですか。打ち上げ費だけにしてちょっと高いようですが」
「何せ、薬を扱うので、衛生面を考慮しなければなりません。気象衛星などを打ち上げるわけには行かないもので」
「本当に1回目は無重力区画の使用料はタダなのですな」
「ルナ社の事業が動き出して今後、ご贔屓にしていただき、何十回何百回とご利用いただけるのでしたら安いものです」
「何百回とは大袈裟ですな」
「キュピスムのような製薬革命を宇宙で起こしましょう」
「キュビスム…面白そうですな」
藤木、田中、沢尻は沢尻コミュ研の会議室に集まっていた。
「今すぐに何百億円の支援は受けられないが、共立バイエルン・ファマナイザー社の原材料の打ち上げと相乗りなら、打ち上げ費用だけでもルナ社の出費は抑えられるだろう」
「さすがに藤木先輩たち、窮余の策にはなりました」
「いずれ、上得意になってくれれば、もっと儲けられるはずだ」
「みすみ銀行の方は、預金を踏み倒す気かな」
田中が心配そうに言っていた。
「銀行の倒産がうすうす叫ばれていた時代に、多額の預金している方が悪いのかもな」
藤木は達観したような感じであった。
「しかし、こんなに早く倒産するとはな」
田中は納得が行っていないようだった。
「今回のことを受けて、うちの資産はスイスの銀行やタックスヘイブンに分散して保管しています」
「沢尻、マネージメントは君の方が、しっかりしているな。しかし困りごとがあったら駆けつけるぜ」
「それで藤木先輩たちの日本での居場所は、しばらく宇宙飛行士訓練センターになりそうです」
「盆栽と訓練に励むか」
藤木は宇宙飛行士訓練センターのランニングマシーンで走っていた。マスクを装着して走っているので、息苦しそうな顔になっていた。マシーンの脇では、インストラクターのラッセルが計測モニターをチェックしていた。
「午前のカリキュラムは、これで終わりです」
ラッセルは英語で言っていたが、胸ポケットからは日本語になっていた。
「こりゃ、昼飯が上手くなるな。へとへとだよ」
藤木は窓から通りを見ながら言っていた。週末になると市民団体と称するデモ隊が通りを行ったり来たりしていた。プラカードには『月を私物化する男を月に行かせるな』などと書かれていた。
藤木はセンター内の食堂で昼食を取っていると、別メニューのカリキュラムを終えたアメリアが目の前の席に座った。アメリアは常に翻訳をオンにしていた。
「どう、そっちは順調」
アメリアは覚えたての片言の日本語で言った後、翻訳アプリをオンにした。
「…宇宙に行く前に、ぶっ倒れそうだよ」
「大変だけど、これでいよいよ月行く日が近づいたわね」
アメリアも昼食を食べ始めた。
藤木の午後のカリキュラムはプールでの模擬無重力下で宇宙服作業訓練であった。宇宙服を着てプールに入る藤木は、手にスバナーを持っていた。訓練用支柱の穴ににボルトを差し込み、ボルト締めを始めた。1本目は無事に締められた。次に2本目のボルトをコンテナーから取り出そうとして、滑り落としてしまった。
「本番では、無重力だから落ちないよな」
藤木は宇宙服の無線で言っていた。
「藤木さん、これが月面だったら、ゆっくりでも落ちます。注意してください」
ラッセルの翻訳の声が聞えてきた。
「堅いこと言うなよ」
藤木は、ボルトを拾ってから、訓練用支柱の穴にボルトを差し込んでいた。
藤木は夕方までにこの日の訓練カリキュラムを全て終了した。しかしほっとしたのもつかの間、センターの会議室で落合の沢尻と緊急のリモート会議をすることになった。
「菱新重工から技術流失の指摘があったのか」
藤木は足の筋肉をほぐしながら言っていた。
「はい。先ほど電話がありまして、」
沢尻は画面上で神妙な表情になっていた。
「菱新重工は、ロケットエンジンの製作を委託しているし、他の部分では共同開発している重要なパートナーだぞ。まずいな」
「このままでは、提携関係を打ち切ることにもなりかねないと危惧していました」
「また誰か、社内で裏切者が出たかな」
「セキュリティー体制には問題はないはずですし、設計など機密事項に関われる人間は限られています」
「その人間の中に裏切者がいるのか…」
「ただ不思議なことに全部が盗まれているのではなく、部分的なのです」
「部分的なのか。忍び込んで持ち去るのだったら、全部持っていくよな」
「はい。それに社内の重要部署に忍び込まれた形跡が全くないのです」
「だとするとネットのセキュリティーはどうなっている。ハッキングしやすい所から持っていかれてないか」
「その可能性はあるかもしれません」
「よし、とにかく菱新重工と共同で調査対策チームを立ち上げよう」
「わかりました。早速手配します」
次の週末、訓練カリキュラムを終えた藤木は、駅前のコンビニで新作のスイーツを買って、センターに戻ってきた。相変わらずセンター前の通りをデモ隊が行ったり来たりしていると思っていたが、この日はいつもよりも早めに解散したようだった。
訓練センターの見学者受付の所で警備員が若い男性と女性を押しとどめていた。
「松沢さん、どうしました」
藤木は警備員に声を掛けた。若い男女は藤木の顔を見て驚いていた。
「この人達が、トイレを貸してくれというものですから」
「だって、夜間見学コース用に中に入れるじゃないですか」
若い男性が言っていた。
「うちの前でデモをやっていた人間を入れるわけには、行かないでしょう」
藤木が言うと松沢も大きくうなづいていた。
「トイレと言いつつも、迷ったふりして、機密事項を盗む魂胆だろう」
「なんとかしてくれませんか」
若い女性が言っていた。
「だいたいデモの対象にしていた所に来て、おめおめとトイレを借りるなんて恥ずかしいと思わないか。信念も何もなしにデモに参加しているのか」
藤木は半分呆れていた。騒ぎを聞きつけた田中も受付の所まで降りてきていた。
「あたしたち、時給1100円のバイトでデモに参加しているので、信念とか言われてもね」
「ええっ、あんたら、バイトなのか」
「今日は正社員の人がいないから、早めにデモは終わらせたんです」
若い男性は平然と言っていた。
「何、市民団体のデモの内情っこんなものなのか。それじゃ時給1300円払ったら、反市民団体のデモをやってくれるか」
「え、1300円ですか。喜んでやりますよ」
若い男性はニンマリとしていた。
「そうかい、それじゃ、トイレを貸そうじゃないか。あのドアの内側に立っているおじさんがトイレに案内してくれる」
藤木は、田中に聞こえるように大きな声で言っていた。
田中は、しぶしぶだが、若い男女をトイレに案内し、出てくるまでトイレ前で藤木と共に待っていた。
若い男女はほっとした顔でトイレから出てきた。
「君たち、来週からは『不当なデモを許さない会』のデモ隊として、センターの前をうろついてくれ」
藤木は受付のメモ帳に走り書きした文字を見せていた。
「来週からですね。わかりました」
若い男女は口をそろえていた。
「君たち、急に鞍替えして文句は言われないのか」
「職業選択の自由がありますから、」
「そうか。それじゃ他の仲間も鞍替えさせてくれたら、君ら二人の時給は1500円にしよう」
「わかりました」
「勝手に決めて大丈夫か」
田中は眉をひそめていた。
「問題なし。なかなか見どころがある若者じゃないか」
藤木は高笑いしていた。
技術流失の共同調査対策チームの本部は、都心部の社屋から離れている訓練センター内に置かれていた。藤木たちは訓練が終わると、ちょこちょこ本部に顔を出していた。
「その後、どうですか」
藤木はタオルを首にかけていた。
「社内LANのセキュリティーを破って侵入された形跡があります」
ハッカー上がりの本部長の島村は、PC画面から目を離さずに応えていた。
「だとすると、人が侵入したり、裏切りの線は消えたわけか」
いつの間にか、田中も立ち寄っていた。
「それで、どこの誰がハッキングしてきているんだ」
藤木も島村の覗いている画面を見ていた。しかし英数字の羅列ばかりで、さっぱりだった。
「ロシアのハッカー集団の仕業が濃厚です。たぶん技術データを売る目的だと思います」
「ロシアか。既に盗まれたものは仕方ないとして、今後は設計データが保管されているサーバーなどをオフ回線のコールド・ウォレットのようにすれば、守れるんじゃないか」
「藤木さん、そう簡単に言いますが、どうしてもLAN回線でつながります。その際に侵入される可能性があります」
「それじゃ、どこに何があるかわからなくすればどうだ」
「それでも突き止められるでしょう」
「一層のこと、デタラメなそれらしいデータをあっちこっちに収納したり、こちらからわざと流したらどうだ」
「…面白い発想ですね。デタラメですか」
「その仕様書で作ったエンジンは爆発するようにしたり、想わぬ不具合が潜んでいるプログラムなんていうのはどうだ」
「いかに本物らしくするのがミソですね。モチベーション上がるぅ」
「罠を仕掛ける積極的セキュリティーなんて、最高にクールじゃないかな」
「藤木さん、もしかしてSPOウィリアムスの曲、聞きますか」
「あ、SPOならまぶダチだから」
「本当ですか。そりゃすげぇ。エクスク、エクストリーム・クールじゃないっすか」
「ハッキングする奴らを困らせてやれ」
「了解。積極的セキュリティー、やりましょう」
3ヶ月後、共同調査対策チームは、ハッキング集団の特定ができたが、既に解散したか世界各国に散らばって潜伏していと推定された。それでもセキュリティー体制が強固になり、これ以上の技術流失が食い止められ、かなりの成果が上げられていた。そこでルナ・ロジスティックス社のネットセキュリティー部となり、存続することになった。
「打ち上げ時の大爆発事故、誤動作で衛星が通信不能になるなど、相次ぐロシア宇宙ベンチャー企業の失敗に品質管理体制の不備が指摘されています」
訓練センターの食堂にあるテレビから流れるニュースキャスターの声。
藤木と島村は、たまたま同じテーブルで昼食を食べていた。
「積極的セキュリティーで、ハッカー集団の信用はガタ落ちだな」
藤木は、ニヤニヤしていた。
「ルナから盗んだデータを使わなくなるまで、しばらく続きますかね」
島村はカレーを口にしていた。
「しかし、さすがに奴らも騙せる腕前は凄いよ」
「デタラメなデータの内容は、菱新重工の技術者とのコラボですから」
島村はそうはいうものの、若干誇らしげであった。
●18.搭乗
月を目指すことを思い立ってから7年後。藤木、田中、アメリアは、さいたま市の宇宙飛行士訓練センターにいた。資金3兆2000億円をつぎ込んだ巨大プロジェクトは、最終段階に入っていた。月と地球の物流会社として、藤木の名前は公に出さず、沢尻が着々と準備を整えて行ったので、軌道上には月往還船とドッキングした月着陸船が周回していた。
八丈島の東京宇宙港の発射台では、ルナ・ロジスティックス社初の有人宇宙船が発射の時を待っていた。テストパイロット兼月往還船の船内検査員の堀が搭乗していた。秒読みが開始され、有人宇宙船を載せたロケットが空高く打ち上がった。
ルナ・ロジスティックス社の渋谷支社の会議室には、藤木、沢尻、アメリア、田中、岩田統括マネージャーが大型モニターを見ながら座っていた。
月往還船内で無重力で浮いている堀の姿が大型モニターに映っていた。
「全て問題なしです。私も月に一緒に行きたいところです」
堀はタブレットPCを眼前ら浮かせながら言っていた。
「製薬用のパレットは見当たらないようだが、忘れてないよな」
藤木は、画面の中を見回していた。
「私の頭の上にあります」
堀は、船内カメラをぐるりと回して映していた。組立て前の製薬用パレットがあった。
「船内は床も天井もないですから」
「あんなところに俺も行くのか」
「田中、怖気づいたか」
「いや、そんなことはない」
「いろいろと物資や工具を積み込んだら、すぐに満杯になりそうね」
アメリアが言うと、すぐに自動翻訳されていた。
「私としては、とにかく無事に帰ってきて欲しいです」
沢尻は重々しく口を開いていた。
「そうね。大気圏再突入を済ませて、初めて成功となりますから。よろしく頼みますよ」
岩田は静かに言っていた。
「とにかく、慎重にことを進めます。この後、月着陸船のチェックもしてから、地球に戻ります」
「いよいよだな」
藤木はアメリアの方を見ていた。
ルナ・ロジスティックス社初の有人宇宙船が無事に帰還すると、『藤木搭乗阻止!』のプラカードを手にしたデモ隊の人数が増え、訓練センター周辺は常にマスコミ関係者が張っていた。
「これじゃ、八丈島に行くことすらできないかもな」
訓練センターの窓から下を見下ろしている藤木。
「八丈島の発射塔にあるルナ社の宇宙船には、俺だけ乗るって発表したらどうだ」
田中は、自販機のコーヒーを冷ましながら飲んでいた。
「でもあれは3人乗りよ。そんなのバレバレだわ」
アメリアの翻訳アプリの声は本人の声とほぼ同じに調整されていた。
訓練センターのリラクゼーションコーナーにラッセルが入ってきた。
「皆さん、発射スケジュールが決まりました」
ラッセルの翻訳アプリの声は、まだ調整されていなかった。
「天候は大丈夫なのか」
藤木は今現在の曇りがちな、さいたま市の空を見上げていた。
「天気予報ではほぼ90%の確率で快晴で微風となります。今から56時間後に発射の予定です」
ラッセルは腕時計で確認していた。
「しかし、どうやって、ここを出るかだな」
藤木が言うとラッセルも困り顔になっていた。
「空も張られているぞ」
田中は熱いコーヒーが唇に触れたので、渋い顔をしていた。
「任せておけ、何とかする。俺は君たちとは別行動で八丈島に行く」
田中とアメリアは、わざとらしく訓練センターの正面ゲートから車で出ようとした。ゲート付近にいたマスコミが包囲するように駆け寄ってきた。
「田中さん、八丈島に行くのですか」
「ここには藤木さんは乗っていないのですか」
「彼はどうしてますか」
数人の記者がボイスレコーダーを向けていた。田中はパワーウィンドウの窓を開ける。
「あぁ藤木ですか。このところ見かけませんけど」
「田中さんとミラーさんはどちらに」
もみくちゃにされている女性記者が言っている。
「八丈島に行こうかと思いまして」
「現在、燃料を注入中のロケットに乗るのですか」
太った男性記者が女性記者を突き飛ばすようにしてボイスレコーダーを向けていた。
「わかりません。詳しくは知らされていないので」
田中がのらりくらりと答えていた。
すると訓練センターの屋上からエアモビリティ4が飛び立って行った。
「あれだ」
マスコミの一人が叫ぶと、記者たちやデモ隊までも一斉に空を見上げた。
田中達が乗っていた車の周囲にいた人垣は、あっという間にいなくなり、各々スマホで連絡を取り始めた。
「何、もっと俺たちのこと聞かないの」
田中が言っても誰も振り向こうとしていなかった。パワーウィンドウの窓を閉める田中。車は、するすると通りを走り抜けていった。
『不当なデモを許さない会』のプラカードを持ったデモ隊も、『藤木搭乗阻止!』のプラカード掲げたデモ隊もエアモビリティ4が飛んでいく方向に走り寄り、空に何かを叫んでいた。しかし、エアモビリティ4はどんどん空のかなたに吸い込まれていった。デモ隊たちは、やることがなくなったので、うつむき加減で散り散りになって行った。
屋上から飛び立ったエアモビリティ4は北赤羽駅の上空辺りで、マスコミのエアモビリティ4に並走されていた。マスコミのエアモビリティ4は助手席の記者が双眼鏡を構えていた。エアモビリティ4の運転席に座っているのは沢尻だけであったが、助手席に大きな段ボール箱を積んでいた。段ボール箱が気になるマスコミのエアモビリティ4は並走を続けていた。他にもう一機のエアモビリティ4も並走してきた。
沢尻のエアモビリティ4は、ルナ・ロジスティックス社の渋谷支社の屋上にゆっくりと着陸した。運転席から降りた沢尻は、大きな段ボール箱を片手で引っ張り出していた。屋上を駆け抜ける風が、段ボール箱をふわりと浮き上がらせ、屋上の手すりまで飛ばした。その拍子に段ボール箱の蓋が開き、中が空になっていた。近くでホバリングしていたマスコミのエアモビリティ4はそれを見ると、すぐに屋上付近から立ち去った。
帽子を被った藤木は『不当なデモを許さない会』メンバーの若者と共に宇都宮線に乗っていた。
「どこかで乗り換えなくて良いのか」
藤木は隣に座っている女性メンバーに聞いていた。
「宇都宮線直通の羽田空港アクセス線ですから、このままで大丈夫です」
「そうか。しかし、誰も私のことに気が付いていないな」
「そりゃ、そうですよ。キャップを被っているし、べっ甲のメガネをかけてますから」
浦和駅に着くと、マスコミ風の男が乗り込んできたので、男性メンバーが藤木たちの前に立って見えないようにしていた。
「あいつは、記者じゃないだろう」
「いや、念のためです」
男性メンバーは小声で言っていた。
藤木が八丈島空港に降り立つと、出迎えの軽トラックに乗って東京宇宙港に向かった。藤木は田中達よりも1本先の便で到着していた。
宇宙港の宿泊棟の食堂に藤木、田中、アメリアは居合わせていた。
「しかし俺の方が先に到着するとは思わなかったよ」
藤木は、トレーニングウェアに着替えていた。
「やっぱり、地上車は渋滞があるからな」
田中はつまらなそうな顔をしていた。
「結局、うまくまけたみたいね」
アメリアは食堂のテレビを見ていた。
「藤木氏の動向は不明で、ここ、さいたま市の訓練センターに閉じこもったままのようです」
ニュースキャスターの声が聞えてきた。
「なんか、まるで容疑者のようだな」
藤木は、そう言いながらかつ丼を食べていた。
打ち上げ予定定時刻の3時間前、藤木たちは宇宙港施設内の搭乗員控室にいた。控室には3人分の宇宙服が用意されていた。まだ藤木たちは船内作業用のインナーを着て、控室の大型モニターの前に座っていた。画面は3分割になっていて、左からアメリカにいる洪、落合本社にいる沢尻、インドにいるヴィジャイが映っていた。
「藤木さん、いよいよこの日が来ましたか。私も宇宙ベンチャー企業に投資ができて嬉しいです」
ヴィジャイは自分が月に行くように目を輝かせていた。
「藤木先輩たちの成功を祈ってます」
「中国で共に旅をした時、こいつはデカいことをやると見た読みが間違いでなかったようだ」
「皆さん、今生の別れみたいな顔をしないで、パーッと行きましょう」
藤木は開口一番に言っていた。
「あたしたち、失敗しないから」
アメリアは片言の日本語で言うと、翻訳アプリが英語と中国語にしていた。
「私も行くようになるとは、思っても見なかったですが、最善を尽くしますよ」
田中は少し照れたように言っていた。
「皆さん、ご出資があったからこそ、月に行けるので感謝しています。今度は稼ぎ出して恩に報います」
藤木が言っていると、別の小型モニターがオンになった。
「我々の製薬も忘れないでください。まさかあなたが製薬に携わるとは、驚いています」
フランク坂井は、英語で言っていた。
「任せてください。それで坂井さん、今日はスイスで会議ではなかったんですか」
「…そうですが、会議が早く終わったので、藤木さんに連絡したのです」
フランクは坂井は、日本語で話し出した。
「とにかく皆さんのおかげです。それでは行って参ります」
藤木は軽く敬礼のようなしぐさをしていた。アメリアと田中は手を振っていた。
藤木たちは宇宙服を着て有人宇宙船の席に座っていた。真ん中に藤木、その両脇に田中とアメリアが座っていた。空に向かって座っているので、横になっている感覚があった。
「5・4・3・2・1、メインエンジンスタート」
船内には打ち上げオペレーターの声が聞えていた。轟音に揺さぶられながら、ロケットは浮き上がり始めた。かなりの振動があり、上昇加速度を感じ始めた。藤木たちは、ただひたすら前を見ていた。
だいたい30分後、藤木たちは重力から解放された感覚になった。ロケットエンジンの轟音が聞えなくなり、地上オペレーターの声がよく聞き取れるようになった。
「ブースターロケット及び第一段ロケットの分離成功で問題は一切ありません。これより周回軌道に入り、月往還船の軌道に向かいます」
「了解した」
藤木は少し緊張がほぐれた声になっていた。
有人宇宙船は月往還船とドッキングし、藤木たちは月往還船内に移動した。
「数日は、ここが我々の居場所だな。思ったよりも広く感じる」
藤木の船内作業服の胸ポケットにはスマホが入っていた。
「上と下の区別がないからね」
アメリアの船内作業服の胸ポケットから声がしていた。
「妙な感覚だ」
田中はふわふわ漂い、空気浄化装置の換気口に肩をぶつけていた。
「なんか、ここまでコンピューターがほとんどやってくれたから、宇宙船を操縦した感がないな」
「それはそうよね。アポロの頃から比べたら何万倍もコンピューターが進化しているから」
「たぶんのこの先もあまり、やることがないんじゃないか」
「田中、そんなことはないぞ、」
藤木は組立てられた一辺が1メートル程の製薬用パレットと製薬実験素材の入ったコンテナーを見ていた。
月往還船が月に向かってロケットエンジンを噴射してから1時間後。藤木は筋力維持のトレーニング用エアロバイクのサドルにタブレット端末を置いて、薬学の電子書籍を宙に浮きながら読んでいた。腕時計を見てからタブレットをオフにした。
「面倒でも重要な船内作業の製薬実験なんかをやらないとな」
藤木は観念したように言っていた。
「余計な約束をするからな」
田中がぼそりと言っていた。
「そう言うな。これのおかけで1回分の打ち上げ費用はタダになったのだから」
「でも薬学の知識はあるの」
アメリアは丸窓から外を眺めながら言っていた。
「ない。でも何とかなるだろう」
藤木は製薬用パレットの所に行き、こなさなければならない項目に目を通していた。
「特殊環状ペプチドの生成、黒酵母培養によるスキンケアクリームの生成、たんぱく質の結晶化実験、アンチエイジング化粧品の製造、骨粗しょう症用の薬の製造と来たか。…俺はご立派なエリートじゃないから、こんなもん、やっぱり無理だ」
藤木が言うと、田中とアメリアはあ然としていた。
「藤木、どうするつもりだ」
「もう資金支援は受けているのよね」
「こんなこともあろうかと思ってな。ちょっと月着陸船に積んであるロボットを拝借するよ」
「えっ、月面掘削用のロボットだろう」
「器用な手先を持っているじゃないか」
「でもあれはネットなどで遠隔操作しないと」
アメリアが言っている横を浮遊していく藤木。ハッチを開けて月着陸船の方に行った。
数分後、小学生ぐらいの大きさのロボットを引っ張って藤木が戻ってきた。
「こいつを使えば、何とかなる。アメリア、地球とのネット回線つないでくれ」
藤木が言うとアメリアは回線をオンにしていた。
「どこにアクセスするの」
「それは、北芝薬科大学の第三薬理研究室だ。今の時間なら池田たちはいるはずだ」
「池田って『不当なデモを許さない会』のメンバーのか」
田中は口が開いたままになっていた。
「あの若者たちは、いろいろと役に立つ。彼らに遠隔操作でやってもらう。まだこの辺りなら、地球とのタイムラグも気にしなくて良いだろう」
「学生ごときができるのか」
「俺よりかは手慣れたものだろう。…お、SNSでスタンバイOKと言ってきた」
藤木は、ロボットの電源を入れた。
「池田君、ロボットの目を通して俺が見えるか」
「おぉ、すげぇー、宇宙にいる藤木さんが見える」
ロボットの口にあるスピーカーから声が聞えた。周りにいる学生たちも歓声を上げていた。
「ゆっくりと話がしたい所だが、例の製薬実験の件、頼んだぜ。出来が良ければ、ルナ社の正社員として採用するから」
「面接試験のようなものですか」
「そうとも言えるな。やる項目はそこに書いてある。たぶんタイムラグ大きくなる前の今日から明日の早朝ぐらいまで、できるだろう。残りはまた地球に近づいたら頼む」
「OKです」
ロボットの手が製薬用パレットの中に入って行った。
月の周回軌道まで後1日に迫った時、地球から緊急連絡が入った。
「たった今、太陽フレアを観測。数時間後には通常より多めの放射線が降り注ぎます。船外活動は危険を伴います。遮蔽板のある船内に留まってください」
八丈島の管制センターのオペレーターは冷静に言っていた。
「特にやることもないから、大人しくしてます。しかしどのくらい大人しくしていれば良いのだ」
藤木は軽い気持ちで答えていた。
「放射能の量にもよりますが、だいたい2時間後から14時間ぐらいは危険値にあると思います」
「それじゃ、月に到着する頃は問題ないわけだ」
「それは大丈夫です」
筋力維持のトレーニング用エアロバイクに跨り汗を流している田中。エアロバイクの前方にある壁面の操作盤に目が行っていた。
「藤木、あそこで赤いのが点滅しているが、なんだろう」
田中は汗を拭いながら言っていた。藤木は、操作盤の所に行き、赤いLEDの点滅を確認していた。
「空気漏れがあるらしい。モニター画面で空気漏れ箇所をサーチして見る」
藤木は操作盤のモニターをオンにしていた。宇宙酔いで頭が少しぼーっとして気分が悪かったが、一気に吹き飛んだ感があった。
「どうしたの」
トイレコーナーのジッパーを開けて、アメリアが浮遊してきた。
「月往還船のどこかに穴が空いているらしい…、あぁ、月着陸船とのドッキングハッチの近くの壁面に微細な漏れがある」
「微細って、とれくらいなの」
「5ミリ程度の亀裂らしい」
藤木はモニターを見つめていた。
「その程度なら、船内から補修パットを張れば大丈夫だろう」
田中は、あまり気にしていない様子だった。
「それが、ハッチの機械部の外側寄りだから、船内側からは手が入らない」
「どうするの。船外活動をするの」
「やらなら、早いとこやらないと、放射能が来るだろう」
藤木は、珍しく焦っていた。
「藤木、緊急連絡から1時間も経っているぜ。まずくないか」
「今を逃したら14時間ぐらいは出らないだろう。その間、空気を外に漏らすのはどんなもんだ」
「でも船外活動は危険なんだろう」
「2時間後に放射能が来ると言っていたから、後1時間はある」
藤木は、急いで宇宙服のあるハッチに浮遊して行った。
藤木は宇宙服を着て、船外に漂っていた。宇宙服のポケットから補修パットを取り出し、僅かに白く霧状に空気を排出している箇所に貼ろうとしていた。
「アメリア、船外センサーの放射能レベルはどうだ」
「まだ、通常レベルよ」
「変化があったら知らせてくれ」
藤木は、補修パットをピッタリと密着させて、固まるの待っていた。
「あっ、レベルが上がり始めたわ」
「わかった。ちょうど固形化が終了したようだ。ん、命綱のワイヤーが足に絡まった」
「ヒトシ、大丈夫。早くしてよ」
アメリアの動揺した声が聞えてきた。
藤木がワイヤーと格闘してもがいていると、宇宙服を着た田中がゆっくりと接近してきた。
「藤木、このワイヤー切ってもいいよな」
「田中、恩に切る。早くやってくれ」
「了解」
田中はカッターで藤木の足元に絡まるワイヤーをカットした。
「二人とも、急いで船内に戻って。どんどん放射能レベルが上がっているわ」
ハッチが閉まる音がして、しばらくすると船内作業服の藤木と田中が戻ってきた。
「あぁ、不時ね」
アメリアは藤木、田中に軽くハグしていた。
「俺ら、どのくらい放射能を浴びたんだ」
藤木は心配そうにしていた。
「そうね、全然浴びてないから」
「ええ、どうして」
「一刻も早く戻ってきて欲しいから、ひと芝居打ったの」
「なーんだ、アメリア…」
藤木はなんか嬉しそうにしていた。
「俺もすっかり騙されたよ」
田中もニヤニヤしていた。
「あ、でも、今度は本当に数値が上がり始めたわ」
アメリアは操作盤のモニターをじーっと見ていた。