第一話 「まずは食う事だ」
以前に住んでいた街では歩いて10分もしないうちにコンビニがあった。それに、5分も歩けば私鉄の駅があったし、ほとんど待たずに電車が来た。
街で生まれ育った僕にはそれは当然な事であって、特別な事だとは思っていなかった。
ここに来るまでは。
この町にはコンビニがないので、一番近いコンビニは隣り町にまで行かなくてはならない。
それだけならまだいい。
最寄りの映画館まで行こうと思ったら、電車に乗って30分の隣接県の市街地。これだけ聞くと近い様な気がするけど、電車自体は1時間に1本しかない。街に住んでいた頃は10分もすれば次の電車が来たので、待ち時間は6倍以上だ。
田舎をなめていた様な気がする。かろうじて町という体裁が取られているが、実質的には村だ。
驚くほど何もない。
服とか何処に買いに行けば良いんだろうか?
答えを言うと、さっき言った隣接県の市街地まで行く必要がある。
そりゃ、あんまり服買いに行く事もないけどさ。こう何もないと不安になる。
ちなみに父さんも僕も、コンビニでジュースくらいは買った事があるけど、自発的にスーパーで買い物をした事すらない。
買い物は母さんに任せっきりだったから、早い話が買い物初心者なのだ。さらにいうと、引っ越してきた古い借家には当然家具なんてなく、父さんも僕も家事なんてした事もなくて、一体何が必要で何が要らないかも分からない始末だった。
前途多難、ここに極まる。
段ボール箱をちゃぶ台代わりにして、父さんと向かいあって思う。
何が必要で、何が不要かも分からない。
何もない八畳間は意外と広くて、この空虚な気分を表している様だった。
正直気まずい。
そんな気分を察してか、父さんが先刻から
「あーー、うん。この家は広いなぁ。」
とか
「あーー、うん。今日は良い天気で引っ越し日和だな。」
とか当たり障りのない事を言っている。
無視するのも気まずい。
取りあえず相づちを打ちながら会話の糸口を探る。お互い口べたな上に、あまり口数が多い方でないので会話が全く弾まない。
ふと父さんを見て思う。
よく考えてみたら、父さんの事をあまり知らない。父さんは根っからの仕事人間だったので、趣味とか、何の仕事をしているかとか、そう言う諸々を含めてあまり父さんの事を知らない。そりゃ会話も弾まないはずだ。
父さんは顔を見ると、すぐに目をそらす。
多分、父さんも同じ気持ちなんだろう。
参った。
これはどこから攻めたら良いんだろうか。僕も父さんも不器用なタイプだ。こういう悩みってのは高校入学前の15歳には荷が重い。
とは言え何事もチャレンジだ。
新しい生活って言うのはチャレンジするチャンスなんだって小学校の頃に、同じマンションに住んでいたタカちゃんが言っていた。
要はこう考えれば良い。
オルレアンの乙女、ジャンヌダルクならどうするかだ。
「あーー、うん。そうだな。色々これからあると思うけど…。」
チャレンジするチャンスだからと言って、何も考えずスタートしてはいけない。何が言いたいか思いつかない。
恨むぞ、ジャンヌ。
天井を見上げて少し息を吸って気分を落ち着ける。父さんが少し期待した顔で僕を見ている。あれは、何か現状を打破する一言を期待している目だ。まるで、遭難した登山パーティがこのまま上るべきか、下るべきか、そんな決断をリーダーに求める時のような、そんな目だ。
普通、それはあんたが求められる役目でないのか…。
いや、傷心の父を責めるのはフェアじゃない。
率直に、今の気持ちを父さんにぶつけよう。
「取りあえず、腹が減った。」
「さて、まずは食う事だ。」
何がおかしかったのか分からないけど、父さんがゲラゲラと笑った。そしてスマホで何処か食事が出来そうな店を探したところ、近場の小さな湖畔の、これまた小さな観光案内所を見つけた。
ただ、歩いて行くには遠いから、父さんが車を出した。この町では、何処に移動するにしても、自転車なり、車なりの乗り物が必要になるようだ。
僕らが乗っている軽四乗用車は、肩幅が大きくて背の高い父さんにはいかにも手狭で、窮屈そうだ。助手席に乗っているとハンドルを回すたびに、お互いの肩が当たる。
「意外と腕白なんだな。何か、もっと小食だと思ってた。」
「家族を顧みなかった証拠だよ。確かに、量は食べないけど成長期なのを忘れてないか?」
「HAHAHA、忘れていたさぁ。」
演劇かかった口調で父さんが話す。
「開き直った。」
かかかっと軽快に父さんが笑った。
こんな笑い方が出来る人だったんだと、不思議に思う。寡黙というか、家ではあまり話さない人だった。
「なんて言うかさ。色々あったんだよ。仕事の事とか、母さんの事とか。色々さ。でも、何か吹っ切れたよ。」
「そりゃぁ、良かった。さっきまでみたいに何だか気まずいままだったら、僕もしんどかった。」
「まぁ、すまん。苦労掛けた。なんて言うかさ。いい父親でありたいとは思っていたんだ。まっとうな。常識的な…、なんて言うか、お前の手本になりたいと思ってた。」
信号が赤になって、父さんが車を止める。
少しの沈黙。そして、信号が変わる。右折するために交差点の中で一時停止。対向車が通り過ぎるのを待つ。
「無理してた。あぁ…。いや、お前のせいだというわけじゃなくて、空回りして、失敗して。自分を追い込んで、そのくせ、上手くいかない事を誰かのせいにして…。」
対向車線の車がなくなる。大きくため息をついて、ハンドルを回す。
「だから、お前がオレについてきてくれるっていった時は驚いたけど、嬉しかった。」
右折してすぐに踏み切り。速度を落としたら、丁度踏切がカンカンと吹鳴する。
また一時停止。
「折角受かった進学校なのに、良いのか?」
少し考える。
「別にやりたい事があったわけじゃないし、お茶も入れられない父さんを一人にするのも如何なものかと思ってね。」
「お前だって、家事できないだろう?」
「覚えるよ。父さんと違ってまだ頭が固まってないから、柔軟性があるんだよ。若いからね。」
「言うねぇ。それは頼もしい限りだ。男親だと行政の補助が無いから、経済的には恐ろしく足手まといだがな。」
「それはそれは。苦労、掛けさせてやるよ。」
「お前も、なかなか言うタイプだったんだな。そこは頼もしく思えてきたよ。」
そう言って、父さんは僕の頭をワシャワシャと乱暴に撫でた。
電車が通る。轟音が響く。
「…。それに、母さんが苦手だったんだ。」
「えっ、なに?」
「いや。何でも無い。」
「えっ?なんだって!?」
「何でも無いよ!腹が減った!!」
「そうだな!オレも、あいつの事、実は苦手だった。」
「聞こえてるじゃねぇか!」
父さんがまた軽快に笑った。だったら何で結婚したのかとは聞かなかった。だって、それは野暮ってもんじゃないか。